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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

富岡

2013年12月08日 | 福島県
(龍台寺)
 いよいよ福島県浜通りも残すところは、富岡、広野、いわきの一部のみとなった。この日は朝四時に家を出て、富岡に着いたのは午前八時前であった。福島原発の立入禁止地域まであと一㎞というこの場所が現時点の限界である。
 ちょうど福島原発の工事に向かう車両が続々と北に向かう時間帯であった。昨今、東電の管理の杜撰さが連日のように報じられているが、一方で身を挺して放射線の漏洩防止のために働く人たちがいる。あまり報じられることはないが、銘記しておくべき事実である。


龍台寺

 龍台寺には岩国藩精義隊の碑がある。精義隊は、幕末の岩国で結成された洋式軍隊の一つで、戊辰戦争でも活躍した。
 精義隊の碑は仰向けに転倒しており、その周囲に並べられた精義隊士の墓もことごとく倒れたままであった。
 龍台寺の墓地は、私がこれまで見てきた被災地の墓地の中で最も激しく損壊していた。墓石は大半が崩落して、足の踏み場もない。震災の揺れはこれほどまでに激しかったのである。寺は(おそらく)無住となっており、墓地も二年半前から手が付けられていないままである。この寺はこのまま朽ちていくのだろうか。


精義隊碑と精義隊士の墓

 この周りではほとんど人の姿を見ることがない。田畑も放置されたままで、セイタカアワダチソウが伸び放題となっている。この場所が昔の姿を取り戻す日が来るのだろうか。

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南相馬

2013年12月08日 | 福島県
(小高神社)


小高神社


小高城址

 小高神社のある丘は、中世の小高城址であり、参道脇に石碑が建てられている。相馬中村城に移るまで、相馬氏の居城であった。


戊辰戦死之神霊碑台座

 小高神社の戊辰戦死之神霊碑を見るために、南相馬へ向かった。ところが、恐らく先年の東日本大震災の被害であろう、神霊碑は台座を残して消え失せており、虚しく引き返すしかなかった。

 この日は三連休の二日目であった。当初の計画では南相馬のあと、広野・いわき方面まで足を伸ばすつもりであったが、福島原発事故の影響で浪江、双葉は依然通行止めとなっており、南相馬からいわきへは、かなり迂回せねばならない。とてもその時間はなかったので、そのまま帰宅することにした。帰りの高速道路は激しく渋滞した。宇都宮から都心にかけて、五十㎞に及ぶ渋滞が発生して、それを聞いただけで家に帰るのをやめようかと思ったほどであった。


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相馬 Ⅱ

2013年12月08日 | 福島県
(洞雲寺)


洞雲寺


因藩 太田清左衛門墓

 太田清左衛門は鳥取藩士。建部半之丞隊。慶応四年(1868)八月十一日磐城原釜で負傷、九月九日同国中村病院で死亡。


荒井又蔵政明之墓 鳥取藩五人墓(倒壊) 因藩 村松幸三郎墓

 無縁墓地の前に戊辰戦争の犠牲者の墓が四基まとめて置かれている。
 荒井又蔵も鳥取藩士。慶応四年(1868)九月十六日磐城中村城外で戦死。二十四歳。
 村松幸三郎も鳥取藩。慶応四年(1868)八月十一日磐城原釜で戦死。
 荒井と村松の墓の間に横たわる墓石は、鳥取藩の戦死者五名の合葬墓である。これも二年半前の大震災の影響と思われるが、倒壊してそのままとなっている。


堀内興長(覚左衛門)墓

 堀内覚左衛門は、中村藩士。番頭。慶応四年(1868)、六月二十四日、白河金山にて戦死。


伊藤半七郎(左) 中川源八郎墓

 伊藤半七郎は、徴兵七番隊。名古屋の人。慶応四年(1868)八月九日磐城駒ヶ峰で負傷、二十九日死亡。三十歳。
 中川源八郎は、加納藩の人。源八とも。徴兵七番隊。美濃岩手山出身。慶応四年(1868)八月九日磐城駒ヶ峰日尻口で負傷、二十五日同国中村で死亡。四十九歳。


尾州藩 津金甲太墓

 津金甲太は尾張藩出身。慶応四年(1868)年八月十一日磐城駒ヶ峰で負傷、二十一日相馬城内病院で死亡。十八歳。地震の被害と思うが墓石が横転したままとなっている。


官軍墓地

 ほとんどが久留米藩出身者の墓である。


長藩 美和内蔵主之墓

 美和内蔵主は、長州藩士。第一大隊補助長官。佐波郡伊賀地住。慶応四年(1868)九月十日、磐城旗巻峠にて負傷。同月十四日、中村病院にて死亡。


土田衝平之墓

 羽後矢島藩出身の天狗党田中愿蔵隊参謀土田衝平の墓である。一旦、南相馬の小高神社へ行った後、土田衝平の墓を見落としていたことに気づいて、三十㎞余りの道を引き返した。洞雲寺の古い墓域の一番奥にある。
 田中愿蔵隊から離れた土田衝平は相馬藩士らとともに海路相馬を目指した。しかし、当地で捕えられ処刑された。この墓は、土田衝平の処刑から数年の後、戊辰戦争の前後に建てられたもので、相馬藩が勤王か佐幕かの選択を迫られた際に、勤王の証を立てるために苦し紛れに建立されたものであろう。


正禮藤原氏墓
(松脇後左衛門の墓)

 薩摩藩士松脇後左衛門の墓が、土田衝平の墓と並べて建てられている。松脇は土田に従って相馬に逃れた天狗党員の一人で、やはり土田と同じく相馬で処刑されている。
 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)には、土田衝平の名前は掲載されていないが、何故だか松脇後左衛門(同書では五左衛門)が記載されている。以下、同書の記述。
――― 勤王の志厚く、元治元年春、名を新宮半次郎と改めてひそかに関東に行き、田中愿蔵と共に、藤田小四郎、武田耕雲斎らの筑波挙兵に参加したが敗れ、その主力は西上の途中越前国敦賀郡で加賀藩の監軍に降伏して幕命によって処刑された。五左衛門は土田衝平と共に奥羽に逃れ、再挙を図ろうとしたが、事成らず、幕吏に捕えられて同年十一月五日斬首の刑に処せられた。年二五。


大信院忠山義功居士
(草野正辰の墓)

 草野正辰の墓である。草野正辰は通称を半右衛門といい、武田流軍学の家に生まれた。江戸家老のとき、富田高慶を通じてその師二宮尊徳と知り合い、尊徳の興国安民の法を聞いて感激した草野正辰は、藩主充胤を説いて報徳仕法の導入に尽くした。弘化二年(1845)、晴れて相馬に御仕法が導入されたが、そのわずか二年後の弘化四年(1847)、江戸にて没した。七十六歳であった。正辰は、聞二という俳号を持つ俳人としても有名であった。

(愛宕山)


地蔵堂


金蔵院跡

 相馬中村藩では、天明・天保の大飢饉により農村が疲弊し、藩財政も窮乏した。そこで二宮尊徳の説く報徳仕法を導入し、農村の立て直しを図った。二宮尊徳自身は、相馬を訪れて直接指導することはなかったが、中村藩士で尊徳の弟子であった富田高慶が全体の指導に当たった。相馬藩における報徳仕法は、弘化二年(1845)から明治四年(1871)の二十七年間に渡って施行され、大きな成果を挙げた。


誠明先生(二宮尊徳)墓(右)
慈隆尊師墓

 慈隆尊師は、元日光浄土院の住職であるが、中村藩に招かれ、政事の最高顧問として報告仕法の推進を担った。戊辰戦争では戦争による被害を最小限にとどめるよう藩に進言した。愛宕山の金蔵院は慈隆尊師の住まいであり、ここで学塾を開いて子弟の教育にも力を尽くした。明治五年(1872)、東京の相馬邸にて死去。
 愛宕山地蔵堂の背後には、二宮尊徳と慈隆尊師の墓が並べて置かれている。尊徳の墓には遺髪が納められている。墓碑銘は幕臣筒井政憲。


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相馬 Ⅰ

2013年12月08日 | 福島県
(中村城址)
 中村藩の石高は六万石。王政復古の大号令を受けて新政府に恭順したが、隣接する諸藩の圧力を受けて奥羽越列藩同盟に参加した。しかし、新政府軍が藩境に迫るとすぐに降伏した。このため戦後減封を逃れた。


相馬中村城址

 中村城の歴史は古く、平安時代まで遡ることができるという。江戸時代は相馬氏六万石の居城となった。残念ながら構築物はあまり残されていないが、大手一ノ門や堀は往時の雰囲気をよく伝えている。


大手門一ノ門

 この大手門は、二代相馬義胤のとき、川越城番を務めた義胤はその城門の堅固なことに感心し、それに模して造らせたものといわれる。慶安二年(1649)の完成。

(慶徳寺)


慶徳寺


長州藩士、館林藩士らの墓
右は「官軍 九州戦死墓」

 慶徳寺山門横には西軍の戦死者の墓が集められている。館林藩、長州藩、福岡藩といった藩名が見える。
 手前の楕円形の大きな墓石は、中村藩出身の西南戦争の戦病死者の碑で、裏面に氏名と死亡日が刻まれている。

(圓應寺)


圓應寺


目迫新佐衛門墓

 目迫新左衛門は、中村藩城下士。慶応四年(1868)、七月十三日、平城六間門付近で戦死。


集功院殿忠巌維良居士
熊川兵庫墓(村田半左衛門墓)

 熊川兵庫は、村田半左衛門易隆ともいい、中村藩士。御用人郡代頭取徒士頭大目付兼帯、郡代家老職、家老職を歴任。藩政全般の指導に当たった。慶応元年(1865)には報徳仕法施行二十年に際して功労者として表彰を受けた。
 同家墓地に墓のある同姓同名の村田半左衛門は名を一隆といい、中村藩番頭。慶応四年(1868)七月二十六日、広野で負傷。八月二日、死亡。

(興仁寺)


興仁寺

 興仁寺の墓地には、戊辰戦争の戦死者の墓六基がまとめられている。うち二基は中村藩士、四基は広島藩士のものである。


戊辰戦争戦死者の墓

(旧蒼龍寺墓地)


亜屈小次郎墓

 水戸藩士。元筑波党。鳥取藩堀博厚勢に属し、慶応四年(1868)八月十一日、磐城原釜にて戦死。二十六歳。


齋藤高行 二宮文の墓

 旧蒼龍寺墓地には、二宮尊徳の門人の一人で相馬における報徳仕法を推進した齋藤高行、尊徳の娘で相馬の高弟富田高慶に嫁いだ二宮文の墓がある。
齋藤高行は、通称久米之助。相馬において報徳仕法を導入した富田高慶の甥であり、二宮尊徳四大門人の一人に数えられる。富田高慶の後を継いで相馬における報徳仕法を指導し、これを完成させた。晩年は原町の大原に隠棲して、大原仙人と称した。明治二十七年(1894)、七十六歳にて没した。
二宮文は、桜町(現・栃木県)に生まれ、まれにみる才女と言われた。嘉永五年(1852)富田高慶に嫁ぎ中村に移り住んだ。嘉永六年(1853)、出産のために実家に戻ったが、死産であった。自身も産後の肥立ちが悪く、三十歳の若さで世を去った。

(佛立寺共同墓地)


佛立寺跡


義俊院全心雄忠居士 (岡源右衛門墓)

 岡源右衛門は中村藩城下士。軍使役。別名臼井喜邦。慶応四年(1868)七月二十九日、浪江で戦死。


脇本喜兵衛墓

 脇本喜兵衛は中村藩の用人。慶応四年(1868)七月二十九日磐城浪江で戦死。官軍に捕えられて斬首されたとも。

(百槻共同墓地)


門馬先生之墓

 門馬伝兵衛常驥(弥五郎)は、相馬中村藩の御馬方を務め、大坪流馬術師範として多くの弟子を育てた。言うまでもなく相馬は「野馬追い」で有名な場所であるが、その発展に大きく寄与した。

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新地

2013年12月08日 | 福島県
(龍昌寺)


龍昌寺


貞宗院威徳道義居士 佐藤貞助墓

 龍昌寺の駐車場脇に仙台藩士佐藤貞助の墓がある。
 佐藤貞助は、新地村の人。慶応四年(1868)、八月十一日、磐城駒ヶ峰にて負傷。十月二日、死亡。

(観音寺共同墓地)


戦死四十人合葬墓(左) 鈴木一郎左衛門墓

 鈴木一(市)郎左衛門は、仙台藩士。茂庭周防家老。志田郡松山住。隊長。慶応四年(1868)、八月二十日、磐城旗巻にて戦死。
 その横には仙台藩兵と仙台松山隊の戦死者四十名の合葬墓がある。


観音堂からの眺め

 ここまで来ると、海は目の前である。平成二十三年(2011)の大震災の津波の爪痕が生々しい。道路は寸断され、海岸線沿いの土地はほとんど更地となっている。この状況下で観音寺共同墓地に行き着けるのか、さらにいえば鈴木一郎左衛門の墓や戊辰戦争戦死者の合葬墓が残っているのか甚だ不安であったが、この墓地は高台にあり、津波の襲撃を奇跡的に免れていた。

(御殿岬)


仙台藩松山隊勇戦地碑

 新地は仙台藩と官軍の最後の戦場となった。仙台藩は駒ヶ嶺城を中心として山手は菅谷、高田から丸森の旗巻峠、浜手は今泉今神方面一帯に警備を固めた。戦闘は慶応四年(1868)八月七日より行われ、官軍の激しい攻撃に同月十一日には駒ヶ嶺城が陥落した。その後、反攻作戦がとられ、特に浜手の亘理隊と松山隊は積極的に前進して激戦となった。折からの俄か雨と官軍の激しい逆襲のため敗勢となり、今泉周辺では多くの死傷者を出した。御殿岬では退路を断たれた松山隊員が壮烈な戦死を遂げている。

(今泉薬師堂)


今泉薬師堂


戦死塚

 今泉薬師堂の背後に墓地が広がる。その一角に戊辰戦争の戦死塚が建立されている。今泉周辺における仙台藩士の犠牲者を葬ったものである。

(駒ヶ嶺城跡)


報恩碑(駒ヶ嶺城跡)

 駒ヶ嶺城(別名臥牛城)は、相馬盛胤が伊達氏への対抗のために永禄年間(1558~1569)に築いたものであるが、天正十七年(1589)に伊達政宗に攻め落とされている。その後、伊達氏は国境の防御点として駒ヶ嶺城を重視し、重臣を城代として配置した。
 慶応四年(1868)、八月十一日、戊辰戦争における官軍の攻撃により炎上し、その歴史を閉じた。現在、建物等は一切残っていないが、当時の土塁や空堀などを見ることができる。


仙台藩士戊辰戦没之碑

 駒ヶ嶺城址から下ってくると、石碑が林立する広場があり、そこに戊辰戦争の戦死塚や仙台藩士戦没者の慰霊碑などが建立されている。


戦死塚


戊辰戦没者碑

 戊辰戦没者碑は、駒ヶ嶺の戦いで戦死した仙台藩兵四百四十名の氏名を刻んだものである。


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小野

2013年07月14日 | 福島県
(普賢寺)


普賢寺


薩摩藩吉井甚之助墓

 薩摩藩士の戊辰戦争戦死者は、概ね合葬墓にまとめられている。単独の墓が立てられているのは珍しい。普賢寺には、慶応四年(1868)七月二十八日、十九歳で磐城仁井町にて戦死した薩摩藩士吉井甚之助の墓がある。

 今回のGWの旅行は以上で終了である。総走行距離は二千三百㎞におよび、撮影した写真は六百枚を超えた。毎日、昼食もとる時間もなく、日の出から日没まで走り回ったが、実に充実した時間であった。これにて福島県下でいうと、いわゆる浜通りだけが残されることになった。浜通りの大半の地域は、現状では福島原発事故により立ち入りが許されない。この場所で史跡廻りができるのはいつのことか分からないが、その日を夢見て当面は調査に時間を費やすことにしよう。
小野から磐越自動車道、常磐自動車道経由、三時間余りで八王子に帰り着いた。

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郡山 Ⅲ

2013年07月14日 | 福島県
(大久保神社)
 今回の旅では、福島県会津方面と宮城県仙台周辺の史跡を回ったが、それで終わりではない。帰路郡山の大久保神社に立ち寄る計画であった。東北自動車道を郡山南ICで降りて二㎞ほど南の牛庭に向かう。


大久保神社

 牛庭公民館の敷地内に大久保神社がある。神社と名づけられているが、鳥居や神殿があるわけではない。中央に「大久保公追遠碑」が据えられているだけである。鹿児島や酒田の南洲神社は、西郷隆盛を神格化したものであるが、当地の大久保神社は安積疎水の開削に尽力した大久保利通に感謝しようという地元の人たちの厚意の結晶のように感じる。


牛庭原 旧松山藩士族 入植者の碑

 この地は牛庭原と呼ばれる原野であったが、明治十五年(1883)、安積疎水の開通とときを同じくして、十五戸の旧松山藩士族が入植して開拓した場所である。

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下郷

2013年06月14日 | 福島県
(大内宿)


大内宿

 大内宿は、今も昔の面影を残す宿場町である。町を貫く道路も舗装されないままで昔の風情を伝え、人気の高い観光地になっている。
 大内宿は江戸初期に会津西街道の宿駅として整備された。参勤交代や旅人の通行、物資の輸送などに利用された。しかし、明治十七年(1884)、日光街道が開通すると、宿駅としての機能を失い、山間に取り残されることになった。
 個人的には当たり前の観光には興味が無く、まっしぐらに正法寺を目指した。カーナビの指示するまま進行していると、大内宿の人混みに突入してしまった。大慌てで向きを変えて撤収したが、観光中の方々には大いに迷惑をかけてしまった。それ以上にとても恥ずかしかった。結局、観光用の駐車場に車を停めて、大内宿を通って改めて正法寺へ向かうことになった。

(正法寺)


正法寺

 大内宿の突き当たり、少し小高くなったところに正法寺は位置する。墓地に笹沼金吾の墓がある。


笹沼金吾墓

 笹沼金吾は御目付役笹沼金兵衛の弟。十石三人扶持。会津藩砲兵隊頭取。慶応四年(1868)八月三十日、大内宿に迫った西軍に対し、会津兵は奇襲をかけたが、薩兵砲兵隊の反撃に遭い後退、大内峠で激戦となった。笹沼金吾は独り大内宿に残留し、水車小屋に潜みゲリラ戦を展開し、壮絶な戦死を遂げた。三十五歳。

(大内ダム)


戦死二十四人墓

 大内ダム沿いの道路を会津若松に向かって走っていると、「戦死二十四人墓」と書いた小さな案内板がある。そこを右折して細い道を数百メートル進んだ林の中に戦死二十四人墓と小出勝之助の墓が並んで置かれている。昭和六十年(1985)、大内ダム建設に伴い当地に移設されたものである。
 慶應四年(1868)九月一日から翌日未明にかけて、日光口守備隊長に任じられた山川大蔵は大内峠に拠って、佐賀藩、宇都宮藩、大田原藩から成る西軍を迎撃した。この戦闘で宇都宮藩大沢冨三郎以下二十四名が戦死した。彼らを供養するものである。


小出勝之助墓

 小出勝之助は、大内での戦闘で戦死した会津藩士。
 二日目の旅はここで日没を迎えた。山端に沈む夕日が美しかった。

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昭和

2013年06月14日 | 福島県
(大芦)


戊辰の役古戦場跡

 慶應四年(1868)八月二十三日というと、会津若松城下に西軍が雪崩れ込んだ、会津藩にとっては忘れ難い日である。その後、金沢藩を主体とした西軍は、野尻郷各村に宿陣し、警備を固めた。これに対し九月二十四日朝、会津藩軍は田島方面から奇襲をかけた。西軍は敗走し、大芦を下中津川方面に退却した。このとき既に若松城は落城していたが、会津藩士はそのことを知らずに戦い続けていた。


野村新平墓

 西軍を追って、会津藩朱雀三番寄合組隊鈴木隊長以下約二十五名がこの付近まで進撃してきたところ、軍を立て直した西軍が逆襲し激戦となった。数の上で不利であった会津藩軍は退散することになったが、この戦闘で野村新平(二十五歳)が戦死した。
 野村新平は、鈴木隊半隊頭。町奉行、二百石。何故だか、墓石は赤い毛糸の帽子を被っていた。


会津藩戦死二人之墓

 田島方面から国道400号を経由して昭和村に入る。奥会津昭和の森というキャンプ場の南端の交差点に会津藩戦死二人墓がある。一人は大芦村矢ノ原で戦死した野村新平。もう一名は角田五三郎である。角田五三郎は、朱雀士中三番小野田隊。九月二十四日、大芦で戦死。二十三歳。


佐藤音之助墓

 佐藤音之助は、朱雀寄合三番隊道案内兼斥候。明治元年(1868)九月二十四日、下中津川で戦死。


小杉半蔵墓

 小杉半蔵の墓は、大山祗神社の上の墓地にある。大山祗神社は、西軍の攻撃により全焼したという。
 小杉半蔵は、金沢藩士。今枝民部家来。明治元年(1868)九月二十四日、大芦にて戦死。四十九歳。


官軍戦死九人之墓

 前掲の会津藩二人墓に出会って、次に官軍戦死九人之墓を見つけるまで四十分以上、付近を走り回った。
 官軍(金沢藩、高崎藩)の大芦での戦死者九人を合葬した墓である。

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南会津

2013年06月14日 | 福島県
(照国寺)


照国寺

 照国寺の山門は、延享二年(1745)に再建されたもので、現存する山門では会津地方最古にして最大のものといわれる。ただし往時は茅葺だったが、現在はトタン製に改装されている。


河原田包彦追悼碑

河原田包彦(かねひこ)は、会津藩御蔵入奉行河原田治部信盛(百六十石)の長男として嘉永六年(1853)に生まれた。戊辰戦争勃発時、包彦はわずか十六歳であったが、旧領主河原田氏の子孫ということで、伊南方面の守備に任命され、父に代わって数百の士卒を率いて国境の守備についた。五月十一日、西軍千二百の大軍が押し寄せて来たがこれを迎撃して軍功があった。戦後、包彦は越後高田に謹慎したが、病魔に侵され、翌明治二年八月日死去。享年十七。墓は上越市の会津墓地にあるが、明治二十七年(1894)、照国寺に追悼碑が建てられた。

(慈恩寺)


慈恩寺


官軍戦死十九人墓

 田島周辺で戦死した東軍(大田原藩、福山藩、広島藩、宇都宮藩)十九人の墓である。墓石の側面、裏面に被葬者の名前が刻まれているが、中には姓名不詳の戦死者も含まれる。

(田島陣屋跡)


田島陣屋跡

 南山御蔵入五万五千石の地は、寛永二十年(1643)幕府領となり、会津藩の預り支配となった。会津藩では田島に陣屋を置いて統治した。陣屋の位置は、江戸時代を通じて二度ほど移動したが、慶應元年(1865)には三度目の変遷があった。

(栗生沢)
 栗生沢の墓地には、木製の墓標で官軍墓が建てられている。葬られているのは当地で戦死した芸州藩山本他人輔。慶應四年(1868)、九月九日、戦死。二十七歳。東京泉岳寺合葬墓にも名前がある。


官軍墓
山本他人輔墓

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