2012年1月4日(木)-5℃ 曇り
暮れの29日から年越しの準備をして、ケアホーム暮らしの娘たちの元気な姿も迎えることができ(28日)新年を迎えることができた。雪も年越し以来大したこともなく、まずまずの正月である。今日4日は一般には仕事始めとなるのであろうが、我が法人にとっては開設記念日で今日までが休業日である。ただし、どうしても介護できない人たちのためには年末は30日まで新年は昨日3日から「日中一時支援事業」というサービスが開業している。つまり法人の事業は年に3日だけしか休まないことになっているのだ。
さて、例年は義妹夫婦が新年1日にはやって来て、お盆と年に2度だけの宴会が始まるのが恒例になっていた。義妹の夫は大赤字を抱える町の財政課所属の地方公務員でストレス溜りの男だ。更に私と同じ大学の後輩でもあり、「箱根駅伝」の常連校でもある。そのために2日から3日はテレビの前で駅伝を肴にして酒を酌み交わすのだ。今年は6日に来るという知らせを義妹から聞いた。体調が悪いのだというが、よく考えるとそれは一つの言い訳で、実は出身校がシードから外れたため、それが多少は悔しいのかも知れない。そういう意味で日延をしたのではないかと邪推している。お陰でお酒の相手をするという私自身のストレスや、義妹夫婦が喫煙家でもあるのでその習慣上の違いでのストレスからは解放されるのが少しだけ先送りされたように感じている。
というわけで、年越しと正月三が日はテレビは可能な限り見ずに、読書三昧で過ごしている。
今朝は正夢かと思うようなリアル過ぎた嫌な夢を見て、午前5時に目覚めた。そのためにいつもより多少早めに読書を始め、井上ひさしの「四千万歩の男」第4巻を読了した。677ページもあったが、この巻の内容はほとんどが測量に焦点は当たっていない。伊能忠敬の人柄が、読み進むうちに次第に一つの傾向を持って表されているのがわかってきた。つまり忠敬は測量だけに旅をしたのではなく、行く先々で出会う人々との間に人間関係を取り保とうとする「捨ておけない」という優しい心の持ち主であるということだ。これはもちろん忠敬の出自が百姓であり、その後に苗字帯刀を許されるまでにはなったが、結局は旗本などの武士から見れば同じ舞台には立てないことをどこかで悟っているのではないか。
天文学者としてのプライドは武士の魂という刀を持たず、竹光を帯刀しても、むしろ自らの星の観察に便利だと考えてさえ居るのである。
それよりも間もなく解体するであろう鎖国制度や、幕府と、その旧態然とした価値観(それは士農工商などの制度やしきたり)の解体は新しい日本の姿を予感させても居る。
第1巻の三厩村での座頭衆の命を木喰上人と共に救うために尽力したり、第2巻(634ページ)では、蝦夷地でのアイヌへの視点はまさに人間として武家とアイヌのどちらが正義かという視点を忠敬は持っているということを示していた。
第3巻(605ページ)は蝦夷地の測量を終えて江戸へ戻る途中に、青森の三戸で嫁取りのための「嫁市」に遭遇する。天明の大飢饉で親を亡くした男女の連れ合いを見つけるための行事である。その行事の中で忠敬の息子がひょんな事でその嫁市の対象者と間違われ、結果本人もその気になって百姓として婿入りをすると言い出したのだ。
忠敬が日本の地図を歩いて作るという夢は、実は「本邦子午線一度の長さの実測」こそが本来目的であり、地図はその副産物でしかないということだった。そういう意味ではわざわざ自腹を切っての調査の旅は、公儀に届けてまでこの計画を遂行せねばならないのかという疑問がある。唯一それが必要であるといえば、金の問題ではなく、公儀の御用という御旗を立てることによって、手続き上の問題をクリアできるのかも知れない。諸国行脚の問題点は、現在のビザのごとき通行証が必要であり、他国を通行するには関所での吟味がある。更に宿や馬の調達、船、案内人などの調達という新たな問題も多いのである。
公儀はわずかばかりの助成金を出していながら、その命令と忠義を尽くさせるという意味での、姑息な仕掛けを次々に打ってくる。
いつもピンチに立たされながらも最終的には、何やら知らぬ援護の力が働いて忠敬一行を救うのである。
暮れの29日から年越しの準備をして、ケアホーム暮らしの娘たちの元気な姿も迎えることができ(28日)新年を迎えることができた。雪も年越し以来大したこともなく、まずまずの正月である。今日4日は一般には仕事始めとなるのであろうが、我が法人にとっては開設記念日で今日までが休業日である。ただし、どうしても介護できない人たちのためには年末は30日まで新年は昨日3日から「日中一時支援事業」というサービスが開業している。つまり法人の事業は年に3日だけしか休まないことになっているのだ。
さて、例年は義妹夫婦が新年1日にはやって来て、お盆と年に2度だけの宴会が始まるのが恒例になっていた。義妹の夫は大赤字を抱える町の財政課所属の地方公務員でストレス溜りの男だ。更に私と同じ大学の後輩でもあり、「箱根駅伝」の常連校でもある。そのために2日から3日はテレビの前で駅伝を肴にして酒を酌み交わすのだ。今年は6日に来るという知らせを義妹から聞いた。体調が悪いのだというが、よく考えるとそれは一つの言い訳で、実は出身校がシードから外れたため、それが多少は悔しいのかも知れない。そういう意味で日延をしたのではないかと邪推している。お陰でお酒の相手をするという私自身のストレスや、義妹夫婦が喫煙家でもあるのでその習慣上の違いでのストレスからは解放されるのが少しだけ先送りされたように感じている。
というわけで、年越しと正月三が日はテレビは可能な限り見ずに、読書三昧で過ごしている。
今朝は正夢かと思うようなリアル過ぎた嫌な夢を見て、午前5時に目覚めた。そのためにいつもより多少早めに読書を始め、井上ひさしの「四千万歩の男」第4巻を読了した。677ページもあったが、この巻の内容はほとんどが測量に焦点は当たっていない。伊能忠敬の人柄が、読み進むうちに次第に一つの傾向を持って表されているのがわかってきた。つまり忠敬は測量だけに旅をしたのではなく、行く先々で出会う人々との間に人間関係を取り保とうとする「捨ておけない」という優しい心の持ち主であるということだ。これはもちろん忠敬の出自が百姓であり、その後に苗字帯刀を許されるまでにはなったが、結局は旗本などの武士から見れば同じ舞台には立てないことをどこかで悟っているのではないか。
天文学者としてのプライドは武士の魂という刀を持たず、竹光を帯刀しても、むしろ自らの星の観察に便利だと考えてさえ居るのである。
それよりも間もなく解体するであろう鎖国制度や、幕府と、その旧態然とした価値観(それは士農工商などの制度やしきたり)の解体は新しい日本の姿を予感させても居る。
第1巻の三厩村での座頭衆の命を木喰上人と共に救うために尽力したり、第2巻(634ページ)では、蝦夷地でのアイヌへの視点はまさに人間として武家とアイヌのどちらが正義かという視点を忠敬は持っているということを示していた。
第3巻(605ページ)は蝦夷地の測量を終えて江戸へ戻る途中に、青森の三戸で嫁取りのための「嫁市」に遭遇する。天明の大飢饉で親を亡くした男女の連れ合いを見つけるための行事である。その行事の中で忠敬の息子がひょんな事でその嫁市の対象者と間違われ、結果本人もその気になって百姓として婿入りをすると言い出したのだ。
忠敬が日本の地図を歩いて作るという夢は、実は「本邦子午線一度の長さの実測」こそが本来目的であり、地図はその副産物でしかないということだった。そういう意味ではわざわざ自腹を切っての調査の旅は、公儀に届けてまでこの計画を遂行せねばならないのかという疑問がある。唯一それが必要であるといえば、金の問題ではなく、公儀の御用という御旗を立てることによって、手続き上の問題をクリアできるのかも知れない。諸国行脚の問題点は、現在のビザのごとき通行証が必要であり、他国を通行するには関所での吟味がある。更に宿や馬の調達、船、案内人などの調達という新たな問題も多いのである。
公儀はわずかばかりの助成金を出していながら、その命令と忠義を尽くさせるという意味での、姑息な仕掛けを次々に打ってくる。
いつもピンチに立たされながらも最終的には、何やら知らぬ援護の力が働いて忠敬一行を救うのである。
奥様の手作りでしょうか?
成田さんの読書量は大変なものがありますね。
しかもすべて消化されております。
「伊能忠敬」さんの偉業がよく分かります。
「四千万歩の男」もいよいよ最終巻を半分ほど読み進んでいます。思えば、測量だけでは小説にはならないことはわかりますよね。結構人間伊能が身近な存在として、その弱さゆえの強さも共感できるようになってきました。作者・井上ひさしの資料集めもかなりのものだと感嘆します。