夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

地域福祉フォーラム 2 シンポジウム

2008-02-23 11:02:58 | つれづれなるままに
 2月22日(金)基調講演の後に、シンポジウムが行なわれた。シンポジストは青森県の八戸市南郷区自治会のKさん、世界遺産の白神山地の西目屋村長Sさん、そして千葉県は市川市の社会福祉協議会Yさん、愛媛県松山市Sさんだった。コーディネーターは県立保健大学のWさん。それに基調講演を行なった伊達市のKさんが加わった。コーディネーターのWさんが変則的な進め方で仕切ったのが、少し参加者にも戸惑いが残った気がする。私も経験があるのだが、いったいこのシンポジウムの目標は何か、着地点をどのような方向に持って行きたいのかがわからないと、シンポジストとしても、意見をまとめようがない。そういう戸惑いを感じていた。地域福祉の中心に住民がいて、それをコーディネートしながら町を作るのだが、官民協働とはいうが、なかなかそこのところが難しい。要は人、もの(場所)、金(ファンド)が必要なのである。人と人がつながること。そして理解しあいながら、お互いの得意を活かしあうことが大切になってくる。
 地域福祉の中核に本来は社会福祉協議会があったはずなのに、いつの間にか介護保険などでの居宅介護事業やデイサービスなどに参入し、本来のコミュニティワークが忘れられてしまっている現状がある。地域の人づくりや団体の育成、人と人を組織する力を、どこかに置き忘れてしまったのではないだろうか。地域住民の顔を知らなくなっては社協マンとは言えないのではないか。
 市川市の社会福祉協議会のYさんは「遺言ノート」なるものを作って、販売しているという。つまりお寺の過去帳のようなもので、個人の生前の経歴や活動、想いなどを書いて社会福祉協議会の金庫に保管してもらうのだという。
 松山市の社会福祉協議会Sさんはまちづくりのための塾を組織し「バウムクーヘンというお菓子に引っ掛けて売っているらしい。地域住民のニーズを探るために、町の自慢話から話題を探り、そこに社会資源や住民ニーズが見えてきたと語っている。私もこういう手法の方が町の人々が心でつながっていけるのではないかと思っていた。お互いの利己的な、あるいは依存的な気持ちだけでは決して町は活性化などしない。むしろお互いが離反する大豆状態になるのは目に見えている。納豆ワーク菌をここに投入する必要があるのだ。信頼関係や思いやりなどはこの菌の効能である。みんながお互いを気遣いあう町を形成する必要があり、そこにこそコミュニティネットワークの目標があるのではないだろうか。

地域福祉フォーラム参加

2008-02-23 08:27:22 | つれづれなるままに
 青森県立保健大学で、昨日「地域福祉フォーラム」が開催され、私も足を運んだ。会場には顔なじみの人ばかりという印象の集会で、県内社会福祉協議会関係者や行政機関の人、そして保健大学の学生たちで占められていた。
 最初の講演者は「北海道の湘南」を売り物にしている伊達市役所の「住んでみたい課」K課長であった。伊達市は人口3万7千人の小さな町ではあるが、道内では唯一人口の減少の少ない住みやすい町を売りにしている。「障害を感じないまち」「安心安全」がテーマのまちづくりのため「ウエルシーランド構想」を作成し、官民協働でのまちづくりを行なってきたとのこと。なんでも無料のものから、高齢者の福祉ニーズをビジネス支援プランに活用したという。一人暮らしの高齢者が土地を所有しているのに目をつけて、高齢者も安心して住める有料マンションに移行させ、それを販売すると言う視点だ。しかし市内の中古住宅は、販売前に口コミで売られることが多くて、、待機状態とのことだった。一人暮らし対策のマンション等は格安で、夫婦でも食事サービスを受けても月20万円とのことだった。(単身150,000)
 団塊世代など道内や道外からの移住者も増えているとのことだった。このほか市街地に有料田園住宅を建設整備して、坪単価も37,000円で格安であり、200坪程度から売れているという。家賃は一人の場合は月31,000円で夫婦の場合は10,000円増しと格安であった。もう一つの目玉は相乗りタクシー制度化ドアツードアの送迎サービスを相乗りタクシーで格安にする制度だ。高齢者にとって買い物は一大事業。外出の際にバスは1時間に1本あるかないか。移送サービスのほかに買い物代行なども行なっているということでした。株式会社での「情報センター」を設立して様々な情報提供を行なう会社です。でも、今年で行政機関からの補助金(3千万円)が終了し、こちらのほうはやっていけないのではないかと言うこと。
 私が知りたかったのはハード面や制度だけではなく、実はまちづくりの中で活躍する人たちの人間模様だった。どういう人たちが集まってどんな話し合いを行なって来たのかを
知りたいのである。誰がリーダーになってきたのか。どのような人や団体が関わり、どのようなソフト面が生まれたのか。高齢者や障害者にとって「安心・安全」とは何か、ということである。そういう意味では障害者福祉のまち伊達市であれば、その心模様がなくて少し物足りなかった。
 次回はこのあとにあったシンポジウムを紹介したい。

雪の下には春近し

2008-02-22 07:13:31 | つれづれなるままに
 弘前城公園の桜の枝切りが進んでいるらしい。そして蕾もたくさんついているというのだから、きっと今年も見事なお花見になることだろう。
 弘前城公園の桜は50種類2千6百本あり、種類もソメイヨシノを中心に、八重桜、枝垂桜など。日本一の規模を誇る弘前公園の桜は、正徳5年(1715)津軽藩士が25本のカスミザクラなどを京都から取り寄せ、城内に植えたのが始まりと云われている。
 公園内には緑の相談所というところがあり、ここではこの時期枝の剪定後の桜を市民に分けているのだ。これから折りしもひな祭りも近く、家の中に置けば、たちまち見事な桜が桃の小枝と共に咲き誇るのではないだろうか。

 私の人生は時々不思議な出会いがある。何か策に窮すると、そこにすっと道の霧を払うかのような人が出現して来て、進むべき道を示してくれるのである。
 今まで「あうん」や「ゆいまある」で活動を続けてきて、次のステップとして現れたのが3年前の「しらとり農場」であったし、そしてまた今このしらとり農場の無農薬有機農法の野菜の活路が開かれようとしている。今後の5年間の活動計画をプランニングする時に、どうしても新たな事業が必要であり、そして新たにその活動展開のための作業場が必要となっていた。それは今現在のリサイクル活動の場と、農場の野菜や有機肥料を加工する場所である。この春に3名の養護学校卒業生があうんにやって来る。そしてまたそのあとにも続々卒業してくるのだ。「地域の中に働きの場を」がこれからの社会福祉法人 抱民舎のスローガンにしたいと思っている。働く姿を地域の人々に見ていただき、そして理解していただきたい。そのためには毎日その場所に通い、交流することがどうしても必要である。
 そんな折に今までは気づかなかった生活エリアに見えて来たものがあった。
 我が法人の理事として、またこれまで30年間地域福祉を共に協働し、また私の福祉活動を支えて下さったMさんがいたのである。そのMさんのお宅はゆいまあるの筋向かいにあり、その敷地に2軒の貸し店舗をしていたのである。2軒のお店のうち1軒の和菓子屋が2年前に廃業して休眠状態であることにふと思いが繋がり、Kさんにそのお店を見せてもらった。なんともいい感じの空間で、少ない人数での活動にはもってこいと言う気がした。将来的にはこのお店を地域の安全な野菜・ハーブ・果物などを売るお店にしたいと思った。補助金がつくまでは改修せずに、リサイクルや有機肥料製造などの活動の場にしようということになり、なんとか4月からの作業所の場所を確保できそうである。
 このひらめきはどうだろう。われながら神がかり的な気もする。でも結局はいかに日頃から、地域にヒューマンネットを張り巡らす活動をすることが有効なのかを、このことからもわかる気がする。われわれのささやかではあるが、その根ざす思いを身近な人々に伝え続けることで道は自ずと開けて行くのだ。
 春からの活動の蕾がここにも膨らみ始めている。


地域を耕すために

2008-02-20 07:10:09 | つれづれなるままに
 旧岩木町の商店街には、岩木山を西に仰ぎ、二本のバイパスと旧道のバス通りが弘前市と岩木山に向かって走っている。わがパン工房「ゆいまある」も、旧道側のバス通りに店を構えている。
 そのバイパス側や旧道側の商店街と役場庁舎を、ボランティアスクールのポスター掲示と参加案内のチラシを依頼するために2時間がかりで歩いた。
 「自閉症?」なにそれ?・・・という顔をする方もあれば、好意的に笑顔で迎えてくれる方の格差を感じていた。まだまだ地域のなじみになるには、何か違うアクションが必要だなと感じている。
 誰もが地域のメンバーとしてなじみの存在になれるように、そして温かく迎えられるようにするためには、何か仕掛けが必要なのだろうと思う。その仕掛けとは、日常生活の中での自然な出会いがもっと増える必要があると思う。きょうのような取り組みはそれはそれで、商店街の方との出会いの第一歩としては良かったのではないだろうか。スーパー、コンビニ、喫茶店、ガソリンスタンド、バス停そばのお店、薬屋さん、温泉、お菓子屋などを巡った。あとは駐在所や消防署、学校、保育所、金融機関、歯医者さんなどを巡る予定である。何ごとにも最初の出会いは欠かせない。
 この夜台本を持っての寸劇の練習が、いよいよ始まった。自閉症の青年(20歳)のイチロー君の一日から、自閉症の方の障害特性を表現するのだ。朝起きて、横断歩道を渡る時のストップの足型に気を取られて道路が渡れない。バスに乗る際の自分の座席へのこだわり、パンの作業所での計量作業でのこだわり、お昼の軽食喫茶で他人のお水まで飲んでしまうイチロー。コンビニではお金の支払いにてこずるイチローと周囲の戸惑い。帰りの公園では腕まくりをして休んでいる会社員の袖を直そうとしてトラブル。
 そしてこれらの課題に周囲はどのように理解し、温かく支えられるのか。ビフォーアンドアフターも交えながら、笑いも取りたいとメンバーはアイデアを出し合った。イチロー役はあうんのスタッフKさんを抜擢。効果音はあうんの事務主任Mさん。横断歩道の音、バスの車内アナウンス、公園の蝉の音などを場面ごとに演出して感じが出ていた。
 練習はあと2回。これまで手がけてきた福祉演劇の素地があるからこその、今回の寸劇だなと思う。まったくと言うほどその壁は感じられないのは、我があうんのスタッフの演劇や社会活動経験者が多いことが上げられる。うまく行けば、これを土台に出張のボランティアスクールも可能になるだろう。一人ひとりの障害特性が、なじみになってくれるような社会作りへのアクションは、これから周辺住民を巻き込んで行けたらいいと思う。
 そんなことをふと、星空を眺めながら思っていた。

三寒四温

2008-02-19 07:25:42 | つれづれなるままに
 昨日はこの冬に入って初めて感じる陽気である。午後から気温が上がったのか、道路は津軽弁で言う「ジャケて」いたのである。つまり雪道が融けてシャーベット状になり、車ですら走りにくい状態になっていたのだ。厳しい寒さの中に感じる春の息吹がここに初めて感じられた。青空と遠景の山々の雪景色が美しく、久々にくつろぐ温泉はつるつるの湯で格別であった。その後3月に二度ある結婚披露パーティの準備のためにデパートを巡りテーブルクロスを決め、花屋では金のない結婚披露であることの理解を求め予約した。
 駐車場を出ようとすると、突然左側の屋根の氷塊が轟音と共に足元に落ち砕けた。何ごとならんと周辺の人が顔を見合わせ、その様子がわかって笑顔となっていた。

 氷塊の落下せる音足元に聞く
 

「峠」上・中・下 司馬遼太郎著

2008-02-19 07:06:33 | 私の本棚
 長岡藩家老 河井 継之助を主人公にした「峠」をようやく完読した。
 長岡市は私の故郷である。正確には私の幼い頃過ごした思い出の町である。私が生まれたのは栃尾市という長岡市と隣接する山間の町であったが、上杉謙信が春日山城から逃れ13歳頃までの少年期(虎千代から景虎時代)を過ごした町で育った。そして母親の兄や姉が長岡市に住んでいたこともあり、年中従兄弟たちの家に泊まり歩いていた。夏は必ず8月1日から3日間の長岡祭があり、市内での佐渡おけさの優雅な流し踊りと2日目から2日間の信濃川の花火を見に行った思い出の詰まった町である。
 さて、私はこの長岡市にある長岡城と悠久山公園は叔母の家族や母親、それに兄妹と何度か花見に行った記憶がある。このちっぽけな城と榎峠がこの「峠」の主人公である河井継之助が家老を勤め、後に我が生家のある栃尾市から会津に繋がる八十里越への敗走と死に至る道に繋がる物語となった。この書を読むことでようやく私のコラージュのような記憶がいくらかまとまった気がしている。
 北越戦争と言ったり、戊辰戦争という呼び名では聞いてきたが、その中身が良くわからなかった。幼い頃に生家の周辺を長岡藩士が会津を目指して敗走したと言うことを聞いて育った程度である。
 この小説を通じて、幾つかの感応したことがあった。それは河井と行動的儒教と言われる陽明学である。陽明学の中の精神性は「実践である」と河井が語った。
 (陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷(儒者)は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。 ... 陽明学は、致良知の言葉から、自らの心に問いて、自らの心が納得できるように、良知を致せ、と説いている。)
 長岡藩を永世中立国としてのスイスのような国家に例え、守ろうとしたことである。そのために長岡を出た河井は、陽明学や長崎、四国そして横浜に出かけて、世界をかぎ分けようとしたのである。
 結果として武士の美学によって、長岡藩は滅びるのである。しかし河井そのものはこの小説の中では最後の最後まで、非戦を交渉しそこに留まろうとしていたのではなかったか。他藩(会津)とは異なる思想性をそこに示していたのではないかと思う。勝つか負けるかではなく、その戦の価値があるかないか、あるとすれば何かということである。そのことを明確に示そうとした河井の生き方と信念を感じている。

のれそれ雪とろけ隊第1回活動

2008-02-17 13:31:52 | つれづれなるままに
 2日間雪が結構降って、今日日曜日はまあまあの天候。どの家も雪片付けサンディというところだろうか。私もきょうは朝自宅の駐車場の雪を機械で片付け、ほぼ1時間かかった。
 朝食後高齢一人暮らし世帯の「のれそれ雪とろけ隊」の第1回目の活動があり、地区社会福祉協議会前に隊員が集合した。第1回目の活動に集まったのは、隊長以下11名。あうんの隊員は5名である。全部で3世帯の雪片付けは移動時間も含めて2時間で終了した。やっぱりこういう活動の力は、人数の多さだなと思う。こうして生活の場に出向くことで、初めて一人ひとりの暮らし振りが見えてくる。一軒は二人世帯であるが、脳卒中で寝たきりのご主人と視覚障害の奥さんだった。あとの2軒は一人暮らしで、老朽化した家屋の中でひっそりと暮らしているのである。雪の重みに戸が開閉できないとか、ギシギシ鳴る家の悲鳴にどんなにか心細い日々が続いているだろうかと思う。せめてこうした我々の活動後には、安らかな眠りが続いてくれたらと思う。
 ボランティア新聞に掲載目的で終了後みんなで記念写真をとり、昼食をとるために岩木山嶽温泉の食堂に移動した。ラーメンライスを注文すると食堂のおばさんがボランティア活動と聞いて、ライスを好きなだけ食べてと炊飯ジャーごとサービスをしてくれた。ありがたいことだ。汗をかいている身体が冷え始めたので、ラーメンの温かさがなんとも嬉しかった。次回の活動への協力ときょうの活動への感謝を若き隊長がお願いし、隊員が散会して行った。
 

Artist Miss junko/T

2008-02-16 17:10:59 | 私と福祉とであいの旅
 今は普通に会話をしている絵画講師のミス純子は、ある一つの出会いからつきあいが始まった。それは昨年までおつきあいのあった盲目のシンガーIさんを介してであった。2005年の福祉演劇「この街で暮らしたい」のポスター画を彼女に依頼した。そして彼女のテーマの一つ、弘前市内にある懐かしい小路「一戸時計店」が見える絵が描かれた。
 やがてIさんのファンクラブを立ち上げ応援する中で、ミス純子が次第に大きな存在となって来た。I氏の半自叙伝を出すことになり、その挿絵を依頼したことも彼女の絵画活動が活発になっていった契機でもあったのではないだろうか。素敵な小冊子ができあがり出版記念会も開催された。その翌年1月に、I氏のファンクラブ代表が解散を宣言して、あっという間に会は消えた。
 ミス純子のせっかくのデビューの挿絵がなんだかとてもかわいそうな結末を迎えて、申し訳ない気持ちでいた。そして毎月我が施設に絵画の指導においで頂くようにお願いをして2年目が始まったのである。
 彼女の自宅はご両親がリンゴ農家なので、彼女もそれを手伝いながらアルバイトをし、個展をあちこちで開催している。絵は郷愁を誘うような、懐かしい感じのする絵画である。いつまで眺めていても少しも、飽きが来ないといった感じの絵画である。また来月1ヶ月のロングの個展が開催されるらしい。ゆったりとした彼女の性格がにじみ出ている気がする。そんな独身の彼女がいつか、何とか花咲いて欲しいと願う2月である。

第2回 ボランティアスクール打合せ会

2008-02-16 08:17:27 | Weblog
 長崎にいる大学時代の後輩でお米屋さんをしているTさんから、長崎県の授産施設で作っている「うどん」が届いた。Tさんは本当に優しいお人柄で、大学時代のサークルで一緒だった仲間のことをいつも心配している。私も仲間と言っては当てはまりにくいが3年前に30数年ぶりに大学のサークルメンバーと再会してから、お付き合いが再燃し、りんごやりんごジュースなどの店頭販売などでいろいろお力添えをいただいている。

 さて、その「うどん」を試食する機会だ。昨夜は第2回のいわきふれあいボランティア会主宰のボランティアスクール「自閉症者の支援のあり方」を3月16日(日)に開催するのだが、その中で自閉症の方をわかりやすくするための寸劇の台本を「青森県自閉症支援研究会」代表のH氏が書いて来てくれた。それの読み合わせと手直しの打合せである。
 今までも福祉劇をやって来た実績のある我が施設スタッフは、慣れたもので夜の会合ではまず腹ごしらえから始まる。昨夜はこの長崎製のうどんをいただいた。なかなか汁も美味しく、うどんも腰もあり食感も良かった。本当はお握りと一緒にとも思ったのだが、そうだ家にはパンを売ることが必要なのだとパンを紹介し、見事全部完食した。

 寸劇は「イチロー」君の一日という設定で紹介し、自閉症の特徴をふんだんに盛り込んだ。とにかく笑いが必要だという私の押しで、かなりバラエティになった。
 実行委員全員(8名)がそれぞれの場面で出演し、会話も津軽弁でということになった。朝出勤時の横断歩道でのこだわり場面。横断歩道で「人の足型」にこだわって青信号になっても道路を渡れないイチロー君。バスに乗ってほかの席が空いているのに、毎日同じ席に座らないと気のすまないイチロー君は、他の乗客に嫌がられる場面。この場面ではビフォーアンドアフターの表現があり、アフターでは運転手さんが、「そこは座る人が決まっているので空けておいてくださいと」乗客に言う場面を設けた。イチロー君はバスのアナウンスよりも一つ先に自分でアナウンスをするので、乗客は二度アナウンスを聞ける。だから聞こえにくいお年寄りなども大助かり。
 コンビニでジュースを購入しようと立ち寄り、お金を支払う時には、お金の勘定に時間のかかる場面。パンの生産をする職場では、粉の計量で几帳面な特性を表現。昼食に立ち寄って軽食喫茶で、隣の人の水まで飲んでしまうイチロー。これもビフォーアンドアフターを取り入れた。
 帰り道の公園ではベンチで、腕まくりをしてリラックスしている人の服を直さないと気のすまないイチロー。

 この寸劇をこれから毎週練習することになった。準備をしながらみんなの頭の中には、イチロー君のイメージがほぼ出来上がっていった。役割分担をして、実行委員のそれぞれの持ち味がどのように示されるのだろうか。ちなみに我がスタッフS氏は女装のウエイトレス役を演じるのであるが、クリスマス会の女装が余りにもはまっていて再演が楽しみである。次回から台本の読み合わせと、アクションをつけて行なう。乞うご期待!
 

アスタマニアーナ

2008-02-15 13:41:51 | つれづれなるままに
 「アスタ・マニアーナ」は「また明日」とか、「明日またここで会いましょう」という意味のスペイン語だという。私のふるさと新潟では昔の人は道中を一緒に歩いて別れ際に、もしくは出会った方とお話をしての別れ際には必ず「お静かに」と言って挨拶をしていた記憶がある。あるいは「自然と・・・」(これは「しぜん」ではなく、「じねん」と言う。あなたのリズムでお帰りなさいと言う意味なのだろうか・・・?
 「アスタ・マニアーナ」「明日でも間に合うわ」と言う日本語にも聞こえるが、「また明日ここで会いましょう!」なんていいことばの響きなんだろう。
 アフリカの挨拶でもう一つ感動したことばが、「あなたは幸せですか?あなたが幸せならばね」という挨拶があるのだという。世界中には、夢膨らむ挨拶や豊かな表現言語があるのだろう。気持ちを込めてこそ言葉と言えるのであろう。