きょうから里帰りします。母の見舞いが第一の目的ですが、一番に来てしまったのが、幼なじみのご夫婦との忘年会。
そして帰りの日には、新潟から山形よりのむらかみまで旅をします。
村上といえば「鮭」。鮭のことをここでは方言で「イヨボヤ」というそうです。
青砥武平治(1713-1788年)は、サケの母川回帰の習性を利用して、三面川に分流「種川」(たねかわ)を考案した江戸時代の村上藩士です。
清水流規矩[きく]術(測量技術)の免許皆伝者であった武平治は、その技術を種川造成のため大いに発揮し、31年もの歳月をかけて「種川」は完成しました。しかし、武平治は種川の完成を見ることなく76歳でその生涯を終えました。
武平治の考え出した「種川」で、世界初のサケの自然ふ化増殖に成功したのです。種川造成の根底にあるサケの保護増殖の考えは、現在もなお引き継がれています。
村上とサケのつながりは深く、平安時代の文書である「延喜式」に、この地域で捕れたサケを朝廷へ献上していた記録が残っています。
今から1000年以上も前に、村上の三面川にはサケが遡ってきていたのです。
江戸時代になると、サケは藩の財政を支える貴重な財源となり、「種川の制」(たねかわのせい)という画期的な保護増殖システムが確立されました。
明治時代になるとサケの人工ふ化増殖を導入し、さらなる資源の保護が進められます。これらの取組みにより、遡上するサケは年々増えていきました。明治17年には、約74万尾の大豊漁を記録しています。このとき、サケ1尾と大根1本が同じ値段であったと伝えられています。
村上では、正月などの「祝い」の日には、必ずサケ料理が食卓に並びます。サケを「恵みの食材」として、頭から尻尾まで余すことなく料理に使うことから、サケを使った料理法は100種類以上あり、今もなおサケの食文化が継承されています。
戻ってくるのは12月1日です。雪マークが続いています。どれくらい積もるのでしょうか?
日々充実!
そして帰りの日には、新潟から山形よりのむらかみまで旅をします。
村上といえば「鮭」。鮭のことをここでは方言で「イヨボヤ」というそうです。
青砥武平治(1713-1788年)は、サケの母川回帰の習性を利用して、三面川に分流「種川」(たねかわ)を考案した江戸時代の村上藩士です。
清水流規矩[きく]術(測量技術)の免許皆伝者であった武平治は、その技術を種川造成のため大いに発揮し、31年もの歳月をかけて「種川」は完成しました。しかし、武平治は種川の完成を見ることなく76歳でその生涯を終えました。
武平治の考え出した「種川」で、世界初のサケの自然ふ化増殖に成功したのです。種川造成の根底にあるサケの保護増殖の考えは、現在もなお引き継がれています。
村上とサケのつながりは深く、平安時代の文書である「延喜式」に、この地域で捕れたサケを朝廷へ献上していた記録が残っています。
今から1000年以上も前に、村上の三面川にはサケが遡ってきていたのです。
江戸時代になると、サケは藩の財政を支える貴重な財源となり、「種川の制」(たねかわのせい)という画期的な保護増殖システムが確立されました。
明治時代になるとサケの人工ふ化増殖を導入し、さらなる資源の保護が進められます。これらの取組みにより、遡上するサケは年々増えていきました。明治17年には、約74万尾の大豊漁を記録しています。このとき、サケ1尾と大根1本が同じ値段であったと伝えられています。
村上では、正月などの「祝い」の日には、必ずサケ料理が食卓に並びます。サケを「恵みの食材」として、頭から尻尾まで余すことなく料理に使うことから、サケを使った料理法は100種類以上あり、今もなおサケの食文化が継承されています。
戻ってくるのは12月1日です。雪マークが続いています。どれくらい積もるのでしょうか?
日々充実!