音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

オディレイ (ベック/1996年)

2012-08-17 | ロック (アメリカ)


筆者の年代だと、「ベック」と聞くと当然、ジェフ・ベックのことになってしまう。特に個人的にはBB&A(ベック、ボガート&アピス)のライヴ版は全曲コピーしたし、自慢じゃないが全部歌える(笑)。だがそのベックも「ワイアード」でフュージョンに走ってからはちょっと興味が薄れてしまった。これが1976年のこと? そしてそれから15年経って、これもまた凄い「ベック」が出てきた。ベック・ハンセン、本名ベック・デヴィッド・キャンベル。私同様この「ベック」という名前がロック音楽でどれだけ崇拝されているか知ってこそのアーティスト表記だと思うが、ジェフ・ベックの不器用さとは違って、彼の多様性は作品を出す毎にポップ音楽に新しい提言を行っている。

この作品はデビューアルバム「メロウ・ゴールド」に続くセカンドで、筆者はなぜかベックはここから入った。で、この作品にあるオルタナティブな感覚がすっかり気になってしまったので、実は未だにファーストは聴いた経験がない。というか、そもそもまだ2枚しかアルバムを出していない時分にジャケットを見て、生理的にどちらも受け付けなかったのだが、どうしても「BECK」の名前が気になって、最低、どちらか1枚は聴こうと思い、モップみたいで気味が悪いがなんとなく犬に見えなくもないこっちのCDだけ買ったのが出会いだ。名前とかジャケットって幾ら良い音楽だとしても大事だと思った一例だ。個人的にいうとこの時代、ニルヴァーナオアシスのお陰でロックに帰ってくるきっかけを作ってもらったが、そのカート・コバーンが1994年に自殺というショッキングな事件があり、だが、随分と様変わりしたロックの現状に当惑していたのも事実。U2やREMが頑張っているのは嬉しかったが、その一方でオルタナとニューウェーヴを重ね合わせてみたものの、当時はまだあまり面白さを発見できず、もう、ロック音楽という領域ではなにか新しいことを産み出すのは無理なんだろうかと落胆していた時であった。実はこの作品もタワレコでジャケットをみた嫌悪感と同じく聴いてはみたものの、一貫性のない音に退屈さと、でもそんなことはお構いなしにまだまだ容赦なく続けられることへの怒りで、途中で聴くのを止めてしまったほどであるから、彼との出会いは最悪なものだった。思えば、リアルタイムで過ごした70年代が如何にすごい時代だったなんて気づいたのはごく最近の事であるように、音楽というのは所詮、五感に訴えるものでそう簡単に人生を変えたりなんかはしない。カートの自殺で妙にセンシティヴになっていたところへ、ベックに(何度も言うがそのネーミングから)追い打ちをかけられたと誤解していただけだと気づいたのは2000年に入ってからであった。今世紀、ロックは新しい側面に入っているが、振返ってみればこのベックの作品にはそのヒントが溢れているという訳だったのだ。このアルバムは音楽的にすごいんじゃなく、編集がすごいんだって。ロックのアルバムとしてこれだけサンプリングを使った例はない。

当時ベックを映像でみたことがあったが、67年当時のサイケの様な衣装だったので驚いたが、1970年生の彼はサイケを実感していない。だが、ある意味、擬似サイケ的な音を創出したのではないかと改めてこの作品を聴いてそう思った。だが、ベックのその後の作品を聴いているとこのアルバムは逆になんだったのだろうと最近思う。もし筆者と同じようにこの作品で嫌悪感からベックを遠ざけてしまった人がいたら、機会があれば2000年以降の彼の作品は聴いても良いと思っているし、筆者なりにはこの作品にも回帰できると思う。


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