今から45年前、1975年から76年にかけて、中央アフリカのザイール共和国(現コンゴ民主共和国)に行っていた。マウンテンゴリラの記録映画を撮る撮影隊の通訳兼助手、という立場だった。首都のキンシャサで撮影許可証を取ってすぐに東部国境地帯に近いカフジ=ビエガ国立公園に入る予定だったのに、困難な契約条件を突きつけられて、結局4か月の足止めを余儀なくされた。
交渉相手は大統領府直属の科学技術庁、といっても、主に熱帯病などの研究、あとはダム開発などをするところだった。毎日のようにその長官室に押しかけて談判をした。廊下で順番を待っているのが熱帯の蒸し暑さでつらかった。
長官は熱帯病研究の専門家で、ヌティカ氏という、陽気でエネルギッシュな人だった。しょっちゅう押し掛けるので、また来たか、というような、あきれた顔もされたが、最後はぼくを気に入ってくれたようだった。撮影が終わって挨拶に行ったとき、キンシャサ大学の農学部に案内してくれて、「ここで熱帯農業の勉強をして、この国のために働いてくれないか。でも、農業について何も知らないだろうから、猛勉強しないとだめだぞ」と言われた。
…これは自慢話ではない。
ぼくはその時、11か月の滞在で疲れ切っていた。上司に当たるカメラマンとの関係で、特に疲れ切っていた。一刻も早く日本に帰って、その状態から解放されたかった。だから、「日本に 帰って考えるから、時間をください」としか言えなかった。
そして、帰国して、「ああ、もう一度行きたいなあ」と思うことはあっても、行きたいのは涼しくて自然豊かな東部国境地帯の赤道科学研究所であって、叩きつけるような暑さのキンシャサではなかった。そのうち、ザイールではエボラ出血熱が発生し、東部ではゲリラ戦が始まり、革命がおこって政権は倒れた。独裁者モブツ大統領の直属だったヌティカ博士が、その後無事だったかどうかもわからない。
最近、昨年暮れにアフガニスタンで凶弾に倒れた、かの地で灌漑用水路を作り続けた中村哲医師が、ぼくと同年代(あちらがひとつ上)で、しかもぼくがザイールにいたのとほぼ同時期(1978年)に、ティリチ・ミール登山隊の一員として初めてパキスタンに赴いているのだということに気づいて、愕然とした。
ぼくは一体、何をしてきたのだろう。
信念と勇気と勤勉さのない人間というものはダメだ。
交渉相手は大統領府直属の科学技術庁、といっても、主に熱帯病などの研究、あとはダム開発などをするところだった。毎日のようにその長官室に押しかけて談判をした。廊下で順番を待っているのが熱帯の蒸し暑さでつらかった。
長官は熱帯病研究の専門家で、ヌティカ氏という、陽気でエネルギッシュな人だった。しょっちゅう押し掛けるので、また来たか、というような、あきれた顔もされたが、最後はぼくを気に入ってくれたようだった。撮影が終わって挨拶に行ったとき、キンシャサ大学の農学部に案内してくれて、「ここで熱帯農業の勉強をして、この国のために働いてくれないか。でも、農業について何も知らないだろうから、猛勉強しないとだめだぞ」と言われた。
…これは自慢話ではない。
ぼくはその時、11か月の滞在で疲れ切っていた。上司に当たるカメラマンとの関係で、特に疲れ切っていた。一刻も早く日本に帰って、その状態から解放されたかった。だから、「日本に 帰って考えるから、時間をください」としか言えなかった。
そして、帰国して、「ああ、もう一度行きたいなあ」と思うことはあっても、行きたいのは涼しくて自然豊かな東部国境地帯の赤道科学研究所であって、叩きつけるような暑さのキンシャサではなかった。そのうち、ザイールではエボラ出血熱が発生し、東部ではゲリラ戦が始まり、革命がおこって政権は倒れた。独裁者モブツ大統領の直属だったヌティカ博士が、その後無事だったかどうかもわからない。
最近、昨年暮れにアフガニスタンで凶弾に倒れた、かの地で灌漑用水路を作り続けた中村哲医師が、ぼくと同年代(あちらがひとつ上)で、しかもぼくがザイールにいたのとほぼ同時期(1978年)に、ティリチ・ミール登山隊の一員として初めてパキスタンに赴いているのだということに気づいて、愕然とした。
ぼくは一体、何をしてきたのだろう。
信念と勇気と勤勉さのない人間というものはダメだ。