すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

夢想と救済

2020-08-02 13:08:04 | 
 新しいテントの試し張りをしに、立川の昭和記念公園に行ってきた。家からはかなり遠く、山に行ってしまったほうが良いようなものだが、テントも昔とずいぶん違っているから、山に持っていってからパーツが足りないとか、組み立て方がわからないとかの事態を避けるためには、いちど試し張りをしてみなければならない。幸い、うまく組み立てられた。これでこの夏は安心だ。稜線まで担ぐのは今のぼくには無理だから、行ける山は限られるが。
 ところで、昭和記念公園の「みんなの広場」は、今の季節、緑がまことに美しい。南北400m東西250mほどの、牧場を思わせる広大な草地に名物の大ケヤキをはじめ樹木が点々とあり、木陰にはまばらにテントが張られて、家族やカップルが思い思いにのんびり過ごしている。空が広い。こんなところで暮らすことができて、さらに、死んだらこんなところで眠ることができたら、どんなに幸せだろう。
 もちろんこれは夢想に、あこがれに過ぎない

 ぼくの大好きな、若いころから読んでいた詩人を引き合いに出してみよう。85歳まで生きたヘルマン・ヘッセは、人生の半ば、43歳の時に、次のように書いている。

 「私はこれまでよりも深く自分の存在のはかなさを感じ、向こうの世界へ行ったら、石や、土や、キイチゴの茂みや、木の根などあらゆるものに変身できるように思う…青空に雲となって漂い、小川に波となって流れ、灌木に葉となって芽生え、私は忘れられ、千回も望んでいた変化に身をゆだねるのだ。」(「人は成熟するにつれて若くなる」より)

 彼は人生の後半をスイスの田舎の村の自然の中で生きている。これもそこで書かれたものだ。だから彼はぼくのあこがれの半分は実現している。だが、この文はどうだろう?
 詩的散文の言葉としてまことに、この上なく、美しい。でもこれは単なる願望だ。彼は死を直視しているとは言えない。夢想によって安らかな心でいられるだけだ。このように現実を直視しないで済ますことができたら、人生の後半はさぞ美しく快いものであろう。

 「…死を恐れぬ心構え、再生への意思、おまえが私からもうけっして失われることのないように、神よ、はからいたまえ。いつでも復活の日がめぐってきますように。そしてくりかえし生のよろこびが死への不安に、死への不安が再生による救済になりますように。」(同上)

 なるほど、信仰はこのように安らぎを与えることができるのか。このように安らぎを得るために信仰に自分をゆだねる人もいるのか。だから宗教というものはあるのか、と思う。
 前者と同じ文脈の中で、その延長として書かれているこの文は、前者と同じような夢想に過ぎない。
いや、彼は神を、神による救済を確信しているのだろう。だが、現代に生きるぼくには、その確信は根拠のないものに思える。神は存在するかしないか、現在までの人智では確かめようがない。同じように魂の存否も、確かめようもない。だから、神や魂が存在することを前提とすることはできない。

 ぼくはヘッセを否定するわけではない。彼の小説はどれも好きで繰り返し読んでいる。上に引用した文も、繰り返して書くが、まことに美しい。ぼくが緊急の事態に陥らなければ、ぼくは彼の夢想を愛し続けるだろう。
だがもし仮に、進行した癌が発見されて「余命1年です」とか言われたならば…
 日頃信仰を持っていないのだから、神や転生の観念に依存するわけにはいかない。素手のままで危機に直面するしかあるまい。その時、彼のこの文章はぼくの座右の書にならない。
 ぼくはブッシュ孝子の詩集を、ベッドサイドの小卓に置くだろう。
 彼女の詩をもう二つ、病苦と直接闘っているのでないものを、紹介しておきたい。

    たより

 山道を歩くと
 秋草の多さに驚かされます
 赤とんぼの乱舞に驚かされます
 栗のいがいがとおちてくるくるみに驚かされます
 小さなへびがあわてて水ぎわの草むらに逃げこみました
 おばあちゃんと二人 まぶしい通り雨の中を
 かさもささずに散歩してます
 きつねの嫁入りの話をしながら
 散歩してます


 高い空の上で
 一点の黒い鳥が風と波のりをしている
 雲は四方からしぶきをあげて
 お前をめぐっておしよせてくる

 ああ お前はひとりぼっちだけれど
 この天と地は今 お前のもの
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