梨木果歩の小説「エンジェル エンジェル エンジェル」を再読してふと思った。
もしも神というものが存在しないのであれば、人は如何にして許され得るのか? 言い換えれば、如何にして、罪から解放され得るのか、もしくは、罪の意識から解放され得るのか?
社会的罪であれば、法が裁くだろう。友人や家族に対する罪であれば、相手に罪を打ち明けることができれば、そして相手が許してくれれば、自分が罪を抱えて生きているという苦しみからは、完全にかどうかは別にして、解放されるだろう。
心の罪…というものであれば、「心の罪」という言葉を意識した時点ですでに、その人間が、名前はどうであれ、神もしくは天、もしくは道徳、のような、裁きを与え、あるいは許しを与えてくれるものとしての審級を思い描いている、もしくはそこに辿り着いているということだろう。それに自分をゆだねることができるかどうか、という問題になるだろう。
いずれにしても、罪の意識からの解放には、ほとんどの場合、他者を必要とする。
自分自身で乗り越えようと思ったら…これは最も困難だ。自分を捨てて奉仕活動か何かにひたすら専念することだろうか。
ここで菊池寛の小説「恩讐の彼方に」を思い出した。だがあれはここで考えているのとは別格の重罪の話だし、主人公の市九郎は青の洞門を開削しようと発願する以前に、信仰に入っている。
神という観念は、死の恐怖を和らげたり生の不条理を受け入れようとしたりするためだけでなく、罪から解放されるために必要であったのかもしれない
ただし、「エンジェル…」の場合は、前提として神を信じている人間だったからこそ、自分を神に背いた人間だと信じ、一生の間その罪を抱え込むことになってしまった。
うーん、難しい…
もしも神というものが存在しないのであれば、人は如何にして許され得るのか? 言い換えれば、如何にして、罪から解放され得るのか、もしくは、罪の意識から解放され得るのか?
社会的罪であれば、法が裁くだろう。友人や家族に対する罪であれば、相手に罪を打ち明けることができれば、そして相手が許してくれれば、自分が罪を抱えて生きているという苦しみからは、完全にかどうかは別にして、解放されるだろう。
心の罪…というものであれば、「心の罪」という言葉を意識した時点ですでに、その人間が、名前はどうであれ、神もしくは天、もしくは道徳、のような、裁きを与え、あるいは許しを与えてくれるものとしての審級を思い描いている、もしくはそこに辿り着いているということだろう。それに自分をゆだねることができるかどうか、という問題になるだろう。
いずれにしても、罪の意識からの解放には、ほとんどの場合、他者を必要とする。
自分自身で乗り越えようと思ったら…これは最も困難だ。自分を捨てて奉仕活動か何かにひたすら専念することだろうか。
ここで菊池寛の小説「恩讐の彼方に」を思い出した。だがあれはここで考えているのとは別格の重罪の話だし、主人公の市九郎は青の洞門を開削しようと発願する以前に、信仰に入っている。
神という観念は、死の恐怖を和らげたり生の不条理を受け入れようとしたりするためだけでなく、罪から解放されるために必要であったのかもしれない
ただし、「エンジェル…」の場合は、前提として神を信じている人間だったからこそ、自分を神に背いた人間だと信じ、一生の間その罪を抱え込むことになってしまった。
うーん、難しい…
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