すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ピッケルからの連想

2019-12-06 11:07:56 | 老いを生きる
 一昨日、「あの頃のぼくには、30は越えられるか越えられない大きな坂だった。今はその倍をはるかに超えて生きてしまったが」と書いた。
 そう、図らずも永らえてしまった、という思いは強い。

 ぼくは信仰というものを持たない。神も、来世も、そういうものがあるとは思っていない。だからぼくが死んだら、いま生きているぼくの一切は消えてなくなってしまう。
 そのことをぼくは全く、恐ろしいとも虚しいとも思わない。誰にでも必ずやってくる死というものは、積極的に待ち望みはしないが、受け入れるしかないものだし、ぼくは困難なく受け入れることができる。
 しかし、死に至るまでの苦痛(これは、ひとりひとり違う)は、できるだけ避けたいものだ。痛みに耐えかねて大声で叫びながらの何日か、何か月か。体が利かなくなってしまって、まったく人の世話になりっ放しでの長い期間。あるいは、すっかり認知症が進行してしまって全く自分のことが分からなくなってからの長い期間…これは人によって考え方はいろいろだと思うから、賛同は得られなくても仕方がないが、ぼくは、それは避けたいものだと思う。

 ロジェ・マルタン・デュ・ガールは、死に至るまでの苦痛ということを考え続けた人のようで、「チボー家の人々」にも繰り返し書かれている。二人の主人公、アントワーヌもジャックも、二人の父親のチボー氏も苦しみぬいて死ぬし、そのほかにもアントワーヌが診察する幼児の苦しみぬいて死ぬさまや、たまたま目にする馬の悶死や犬の惨死などが出て来る。
 医師であるアントワーヌは「最後の手段」を持っているが、ぼくを含めて普通一般の人は持っていない。

 そこでぼくは、できるなら、体の動くうち、はっきりした意識を持ちうるうちに、自然の中に自分を返しに行きたい。突然の全身不随、とか、気が付かないうちに進行してしまった意識障害、とかは起こりうるから、実際にそうできるかどうかはわからない。
 だから何時そう決断するかは、微妙な問題だ。早すぎては、一度しかない自分の命を短くすることにつながるのだし、遅すぎては機会を失うことにつながる。
 別に、意図して崖から飛び降りたり、吹雪の中に出ていったりする必要はない。自分の体力や技術を越えるようなチャレンジをすればよいのだ。体力を越えるチャレンジはそれ自体大変な苦痛を伴うものだろうから、技術の限界の方が良い。だから雪の岩場が良い。
 そのためには、先日戻ってきたピッケルは役に立つかもしれない。真冬でも動いていて高山に行けるロープウエイはいくつかある。そこから先は、決死の冒険が待っている…などと、鋭いブレードを撫でながら夢想している。

 梨木香歩の小説「海うそ」(全部好きな梨木さんの作品の中でもこれが一番好きだ)の主人公の許嫁は、冬山で自殺する。結婚を約束した相手が自分に何も告げずに自殺してしまっては、残された人間は受け入れ難い衝撃を受けるだろうが、死が近い段階でのぼくがそうすることは、できれば選択肢として納得してほしいものだ。
コメント
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