すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

観察とメモ

2019-12-11 09:55:49 | 自分を考える
 昨日の記事には、内海さんにはお褒めいただいたが、大きな弱点がある。写真とかに頼らずに文だけで済ませる記事を書こうと思ったら、まず観察し、メモし、記憶しなければならない。そのことを常に意識していなければいけない。
 たとえば、その斜面にお墓は何か所あって、最後のお墓の墓石はいくつあって、どんな様子か。中央の墓の戒名は、記憶に残ったところだけでなく、~院の部分から、併記されていた奥さんの戒名も含めて、メモしなければならないし、いつ亡くなったか、生前の名前は何と言ったか、というような、石の裏側に書かれていることまでメモしなければならない。子供の墓はないか。あったら、これも何歳でいつ亡くなったか、メモするべきだろう。
 もちろん、そういうことをすべて記事にする必要はないし、それは亡くなった人のプライヴァシーだから、記事にするべきではない。記事に書けることはせいぜい昨日書いたことぐらいだろう。でも、昨日の記事を書く前提として、メモはしっかり取らなければならない。あとで、書くときにその中から取捨すればよいのだ。
 これは、すべてについて言えることだ。あたりの風景も、漫然とでなく、どこに何があってどんな様子かということを、カメラのようにとらえ、心に焼き付けておくかメモをしておかなければならない。山を歩きながら言葉を交わした人が、どんな様子の人で何人連れで、とか、何でもメモすること。
(多くの人は、対象をスマホに撮って安心してしまう。そしてそれを送信して、そのことは忘れてしまい、また別の対象をスマホに撮る。ぼくはそうするまい。)
 このことに、ぼくは昨日書き始めてすぐ気が付いた。ところが今までにも、何度か同じようなことに気が付いている。だから、これは習慣の問題だ。
 ぼくがなんでもしっかりと観察し、メモする習慣が実際に身に着くまでに、長い時間がかかるだろう。だから、10年後か20年後には、いまよりは少しマシな記事が書けるようになるだろう。それまで生きて、書き続けていれば、の話だが。どうも、そうはならなそうだ、そこまで生きていない、という意味ではなく、記事を書くのはやめてしまうかもしれない、という話。でもそれはまた別の話だ。
 (この文は、直接は、内海さんが昨日寄せてくださったコメントへの返信です。)
コメント
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