すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

マグノリアの谷(再録)

2018-10-06 21:08:35 | 自分を考える
 困難を感じるときに、繰り返し読んで、力をもらう文章や詩句がいくつかある。その中でもいちばん繰り返して読み、いちばん力をもらっているのは、見田宗介氏の「宮沢賢治‐存在の祭りの中へ」の最後の部分だ。ただ力をもらっているだけでなく、毎回、読むたびに感動している。
 この部分だけ取り出しても、何のことだかわからないかもしれないのだが、今は説明なしの引用だけさせていただく(最初の『 』部分は見田氏による、賢治の短編「マグノリアの木」の引用。諒安はその主人公)。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 『もしもほんの少しのはり合いで霧を泳いでいくことができたら一つの峯から次の巌へずゐぶん雑作もなく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪い大きな彫刻の表面に沿ってけはしい処ではからだが燃えるやうになり少しの平らなところではほっと息をつきながら地面を這はなければならないと諒安は思ひました。(略)
 何べんも何べんも霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。』

 あるところの「すこし黄金いろ」の枯草のひとつの頂上に立って、諒安がうしろをふりかえってみると、『そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いているのでした。』 マグノリアの花は至福の花である。
 マグノリアはかなたの峯に咲くのではない。道のゆく先に咲くのではない。それは諒安が必死に歩いてきた峠の上り下りのそのひとつひとつに、一面に咲いているのだ。
 宮沢賢治はその生涯を、病熱をおしてひとりの農民の肥料相談に殉じるというかたちで閉じた。このとき賢治の社会構想も、銀河系宇宙いっぱいの夢の数々も、この一点の行為のうちにこめられていた。(略)いまここにあるこの刻(とき)の行動の中に、どのような彼方も先取りされてあるのだ。
 (略)
 あれから賢治はその生涯を歩きつづけて、いくらか陰気な郵便脚夫のようにその生涯を急ぎつづけて、このでこぼこの道のかなたに明るく巨きな場所があるようにみえるのは<屈折率>のために他ならないということ、このでこぼこの道のかなたにはほんとうはなにもないこと、このでこぼこの道のほかには彼方などありはしないのだということをあきらかに知る。
 それは同時に、このでこぼこ道だけが彼方なのであり、この意地悪い大きな彫刻の表面に沿って歩きつづけることではじめて、その道程の刻みいちめんにマグノリアの花は咲くのだということでもある。
(見田宗介「宮沢賢治‐存在の祭りの中へ」第4章「舞い下りる翼」四.マグノリアの谷‐現在が永遠である)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以上は、8年ほど前に書いた文章の再録。昨日の記事にブログ上およびFB上でいくつかコメントをいただいたのだが、上記の文を返信に代えさせていただきます。)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« それにしても・・・ | トップ | 山は登っているうちに強くなる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

自分を考える」カテゴリの最新記事