すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

進化の記憶

2018-12-24 22:33:53 | 無いアタマを絞る
 「ぼくという個を超えた、血の中にある遠い記憶」と書いた。それならば、ぼくたち人間が空に憧れるのはなぜなのだろう。ぼくたちは、森の中で暮らした記憶は持っていても、血液は海と同じ塩分濃度であっても、空で暮らした記憶はないはずだ。
 この間から鳥のことが心に懸かっている。
 中島みゆきの、「時代」や「麦の唄」とともにぼくの大好きな歌「この空を飛べたら」に、

「ああ人は昔々 鳥だったのかもしれないね こんなにも こんなにも 空が恋しい」
とある。
 ヒトが進化の途中で鳥だった時期があるわけはない。それなのになぜこのフレーズは心に沁みるのか?(これは痛切な失恋の歌だが、失恋と思わなくても、心に沁みる。)

 ヒトは、ヒトになるずっと以前に、海で暮らしていた。それから水辺に移動し、しばらくの間は岸と水中の両方で暮らした。そのあと、次第に陸上にあまねく広がっていった。高山を除いては。そして、空に生活を広げるものと、陸に留まるものに分かれた。人は陸に留まるほうを選んだ。だが、進化の過程の中では、空に向かうという選択肢もあったのだ。
 
 個体発生は系統発生を繰り返す、という。胎児は初めのうち、母体の水の中で、魚の赤ちゃんとよく似た形をしている。この、「個体~」は、進化のプロセスを再現するという意味だ。それならば、ぼくたちはみな、生まれる前、進化の選択肢の分かれ目をも通過したのだ。
 空に向かうというのは、ありえたかもしれない、しかし実現しなかった生活だ。
 だから、ぼくたちは空にあこがれるのだろう。
 生物は、進化のプロセスだけでなく、進化の途中の記憶をも、血の中に、無意識の中に、持っている。
 地上の生活が辛く、もしくは空虚に思われるとき、心を十分には満たさないように思われるとき、別の生があり得たように思われるとき、ぼくたちは持つことのなかった翼に憧れるのだ。
 山登りに行くと森があんなに慕わしく懐かしく思える気持ちの中には、森で暮らした祖先の記憶が混じっている。そして山頂に立つと空があんなに慕わしく懐かしく思える気持ちの中には、空で暮らさなかった祖先の「もしも~」が混じっているのだ。
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