はがきとFBで退職のお知らせを送ったら、たくさんの人から手紙、はがき、メール、FBでのメッセージをいただきました。ありがとうございます。
中で、ぼくの使った「余生」という言葉に違和感・抵抗感を持たれた方がかなりいらしたようです。
ここで少しだけ補足をさせていただきます。
ぼくは、はがきとそれを転記したFBの中で余生という言葉を、諦めや落胆を持ってではなく、かなり積極的なニュアンスで使っていたはずです。
「余生というのは、人生で一番充実した、実りの時間でありうるものと思っています。そしてまだこれから始まる時間です」と書いています。
ここに、消極ではなく、積極を読み取ってもらわなくては困ります。
たぶん、そうではなくて、余生という言葉の表面的なイメージのみを重ねられてしまったのではないでしょうか。
人生というもの特にその後半部分、というか、最後の方、のとらえ方は、そしてその過ごし方は、人さまざまです。
シャンソンとかを歌っている人たちの中には、ライヴで「わたしたち、今が青春のまっ盛りよ」とか、「今年の目標は燃えるような恋をすることです」などといってお客様に受けている人がたくさんいるので、余生、みたいな言葉に抵抗があるのかもしれません。
自分が年を取ったことを素直に認め、そしてそれを楽しもうではありませんか。
体力が落ちて疲れやすくなっても、ゆっくりじっくり楽しめることはいっぱいあるはずです。
生きる喜びは、燃えるような恋をしなくても、友情や社会貢献の中で、十分に、一層豊かに味わえるはずです。
テレビのC Mにそそのかされたような、通俗的な思い込みさえ捨てられれば。
少し飛躍しますが、人間は、精神の、そして行動の本当の自由を得るためには、職業と生殖から離れなければならない、と考えています。子供は、とりあえずこの二つから離れていますが、親の保護下にあり、思考能力も経験も十分についておらず、部分的にしか自由であるとは言えません。
仕事をやめたあとが、大事です。
経験を積んでいる。じっくり考える力もついている。自分の行動を自分で選べる。何かをするために使える時間もある。
仕事をやめた後の、社会との、人との関わり方が大事です。
だから、だれでも、仕事は早めにやめるべきです。そこから先、真に充実した人生を過ごすために。
ぼくは、ものすごく試行錯誤を繰り返して生きてきてしまったので、早めにやめたとは言えないけれど、ワクワクするのはこれからです。
中で、ぼくの使った「余生」という言葉に違和感・抵抗感を持たれた方がかなりいらしたようです。
ここで少しだけ補足をさせていただきます。
ぼくは、はがきとそれを転記したFBの中で余生という言葉を、諦めや落胆を持ってではなく、かなり積極的なニュアンスで使っていたはずです。
「余生というのは、人生で一番充実した、実りの時間でありうるものと思っています。そしてまだこれから始まる時間です」と書いています。
ここに、消極ではなく、積極を読み取ってもらわなくては困ります。
たぶん、そうではなくて、余生という言葉の表面的なイメージのみを重ねられてしまったのではないでしょうか。
人生というもの特にその後半部分、というか、最後の方、のとらえ方は、そしてその過ごし方は、人さまざまです。
シャンソンとかを歌っている人たちの中には、ライヴで「わたしたち、今が青春のまっ盛りよ」とか、「今年の目標は燃えるような恋をすることです」などといってお客様に受けている人がたくさんいるので、余生、みたいな言葉に抵抗があるのかもしれません。
自分が年を取ったことを素直に認め、そしてそれを楽しもうではありませんか。
体力が落ちて疲れやすくなっても、ゆっくりじっくり楽しめることはいっぱいあるはずです。
生きる喜びは、燃えるような恋をしなくても、友情や社会貢献の中で、十分に、一層豊かに味わえるはずです。
テレビのC Mにそそのかされたような、通俗的な思い込みさえ捨てられれば。
少し飛躍しますが、人間は、精神の、そして行動の本当の自由を得るためには、職業と生殖から離れなければならない、と考えています。子供は、とりあえずこの二つから離れていますが、親の保護下にあり、思考能力も経験も十分についておらず、部分的にしか自由であるとは言えません。
仕事をやめたあとが、大事です。
経験を積んでいる。じっくり考える力もついている。自分の行動を自分で選べる。何かをするために使える時間もある。
仕事をやめた後の、社会との、人との関わり方が大事です。
だから、だれでも、仕事は早めにやめるべきです。そこから先、真に充実した人生を過ごすために。
ぼくは、ものすごく試行錯誤を繰り返して生きてきてしまったので、早めにやめたとは言えないけれど、ワクワクするのはこれからです。
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