すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

蝉時雨

2019-02-20 21:58:40 | 老いを生きる
 昨夜ふつうに眠れたはずなのに疲れが取れないので、出かける前に少し休んでおこうと横になったのだが、目を閉じるとセミが鳴いている。あっちでもこっちでも、様々な音程で。少年の日の夏の午後のように。
 ここ数年、かなり耳が悪くなってきていて、去年デュモンをやめたのも、お客様のオーダーが聞き取りにくい、というのも理由のひとつにあったのだが、この蝉の声も聴力の衰えのせいだろうか。
 毎晩寝るときに枕もとの両側の小型スピーカーで一晩中せせらぎの音を小さく流している。それで気が付かなかったのだが、沈黙の中で目をつむると、じつは以前からこんな音がしていたのだろうか。それともこれは老化に関係なく、血流の音など体の中の音が誰でも本当はこんなように聞こえているのだろうか。
 その疑問はともかく、その蝉時雨のせいで、ぼくは半ズボンの自分の姿を思い浮かべた。麦わら帽子をかぶって、真新しい捕虫網を持って、腰から虫かごを下げている。顔は陰になってよく見えない(自分の顔なのだから、よく見えないのは当たり前だが)。
 捕虫網が真新しいのは、じつはぼくがそれをほとんど使わなかったからだ。ぼくはどちらかと言うと昆虫が苦手な、魚釣りも苦手な男の子だった。ほかの子が夢中になっていると羨ましくなって、真似して網や棹をおねだりしてみるのだが、全然採れないし釣れないのですぐに飽きてしまうのだった。
 これに対して、親戚の人にプレゼントしてもらった顕微鏡には夢中になった。小学生の顕微鏡だが、おもちゃのようなものではなく、ちゃんと対物レンズが3つあって回転式に倍率を変えられる本格的な物だった。ぼくは何でも、花びらでも葉っぱでも土でも泥水でも、葡萄のカスでも台所の灰でもその辺にあるものは何でも、時には薄くカミソリでスライスなどして、プレパラートに載せて覗いてみたのだった。あれは、幸福な夏だった。
 …耳の中の音からそんなことをぼんやり思い出していたら、枕もとのタイマーが振動を始めた。もう少しそうしていたかったが、ぼくは起き出して老人会に行ったのだ。会場準備のお手伝いと、みんなで歌う懐メロのお相手に。
 夜、パソコンに向かっていると、またセミが鳴いている。慣れるまでしばらくかかりそうだ。
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