すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

科学技術は

2019-02-22 23:24:23 | 偏屈老人申す
 はやぶさ2が小惑星リュウグウへの着陸に成功した。すごいことだと思う。地球から遠隔操縦してるんでしょ、あれ。3.4億キロ離れた機体に信号を届けるだけでもすごいし、その信号が届くのに、電波は秒速30万キロとして約18分かかるのだから、それにもかかわらず、動いている対象を、必要に応じて、指令通りに加速したり減速したり、直径6mの円内にソフトランディングさせるというのは想像を絶する。
 ところでぼくは、同時に、すこしちがうことも考えた。
 科学技術は、目覚ましく進歩する。世の中はどんどん便利になる。時に、早く変化しすぎて老人には付いていけないと思うほど。あるいは、めまいがするほど。
 科学技術は、どんどん積み上げていくことができる。今ある技術を改良し、または、より効率の良い新しい技術を開発していけばよいのだから、幾何級数的に進歩する。
 人間の叡智は、というのは大げさならば、人間の考える能力は、非常にゆっくりしか進歩しない。時には退歩もする。今から2000年やそれ以上前の思想家や宗教指導者の言葉が今でも有効性を持つ。
 科学技術を扱う人間の側は、しばしば大きな間違いを犯す。技術を正しくない、使うべきでない方向に使う(核兵器とか)。あるいは、正しいと思って使ったつもりが間違いだった、ということがある(遺伝子操作とか)。あるいは、使いこなせる積りでいても実はそうではない(原発とか)。
 だが、ここではもう少し身近のことを考えてみよう。
 ぼくが幼稚園の頃、お遊戯の練習の音楽はゼンマイ式の蓄音機にSP盤のレコードだった。中学の時にはポータブルの電蓄にEP盤でプレスリーやコニー・フランシスを聴いた。テープレコーダーができ、CDができ、MDができ、ICレコーダーができ、いまではそれらのほとんどは、過去の技術になっている。
 ぼくはいまだにMDで録音している。ICレコーダーはぼくにとっては使い勝手が悪すぎる。だから廃れてしまって、今ではスマホなのだろうが、ぼくはいまだにガラケーを使っている。スマホの使い方を覚える気にならないし、友人たちが使っているアプリのほとんどすべてを、必要のない余計なものだと思っている。電車に乗っている人のほとんどはスマホ中毒だと思っている。
 いま使っているMDレコーダーとMDアンプが、そう遠くないうちに壊れるのだろうが、そうすると、ぼくがこれまでに録音した膨大な音源はすべて、使い物にならなくなるのだろう。大打撃だ。今のうちにスマホにダビング、なんてこと考えただけでも気が遠くなるから、たぶんぼくはそれらの音源をすべて捨てて、これから後を生きることになるだろう。
 その上、ガラケーって、もう生産していないのだそうだ。通信大手の三社も、順次ガラケーは使えなくするのだそうだ。
 まあ、電話とメールが出来さえすればよいのだから、それだけはスマホで覚えることになるのだろうが、煩わしいことだ。
 山登りと音楽と読書で余生を送るつもりなら、そのほかにはせいぜいこのブログだけならば、アプリなんて何にも要らないのだからね。
 便利はときに人を生きにくくする。例えば、携帯電話ができたおかげでほとんどの従業員は個人の時間と自由を大幅に失った。まあそのことは、そのうち書くことにしよう。

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