去年の暮れに作った連続焦点レンズを断念することにした。「慣れるしかない」と人に言われたが、慣れの問題ではなく、使用目的が違うのだと思う。
ぼくは頭がよくないので、作る前、連続焦点というのは、見る対象によって焦点距離が変わるものだと漠然と思っていた。老眼になる前の人間の目はそういうものだ。見る対象との距離によって水晶体が自動的に厚くなったり薄くなったりする。
考えてみれば、ガラスまたはプラスチックのレンズを削って作る眼鏡でそんなことができるわけはないのは最初から分かりそうなものなのに、なんて抜けているんだろう。
連続焦点というのは、中心から外に向かってレンズが連続的に薄くなっているもので、無意識に筋肉が動いて調整をしてくれていた眼の構造とは根本的に違う。近くを見るときには中心部分を使い、遠くを見るときには周辺部分を使う、というように、知りたい情報との距離に合わせて、視線や顔を動かさなければならない。
これは、日常生活を眼鏡をかけっぱなしで通そうと思ったら、慣れれば便利なものであるかもしれない。でもぼくはその必要な感じていない。立ち上がって動くときには、あるいはすこし離れた物や人を見るときには、あるいは山道を歩くときには、眼鏡をはずした方が具合がいい。
ぼくが眼鏡を必要とするのは、本を読むときと楽譜を見るときだけだ。これは、普通の単焦点の老眼鏡の方がはるかに便利だ。(さすがに、百円眼鏡はやめて、そういうものをいくつか買った。)行きつ戻りつして本や楽譜を見る習慣のあるぼくには、たかが文庫本サイズで中心と周辺部の焦点距離が違ってしまう、したがって視線を移動するのではなく顔を動かさなければならないのは、不便この上ない。
聴覚が衰えてからかえって、物音を耳障りにうるさく感じることが増えた。安い飲み屋などで周りの人声がうるさくて耐え難く感じることが多い。その一方でたとえば人混みの中などで、隣にいる友人の声が聞き取りにくい。
以前は、自分にとって必要と思われる音を自動的に選択して聴いていたのだ。人間は、そして動物はだれしも、そういう能力を持っている。その選択能力が衰えたのだ。これは聴覚に限らず、視角、嗅覚についても、動物にとって基本的な能力だ。
人間より何百倍も何千倍も優れた聴覚を持っている動物が、近くの物音が同じように何倍も大きく聞こえたら気が狂ってしまうだろう。匂いだって同じ、臭くて臭くて生きていけないに違いない。視覚だって同じ。空の上から、人間より何千倍も細かく詳しく見える周りの自然に邪魔されずに、ピンポイントで自動的に目標に焦点を絞れるから、獲物を得ることができるのだ。
動物たちにとってはその能力の衰えは、エサが取れなくなるのだから、あるいは、敵の存在を察知できなくなるのだから、生死にかかわる問題だ。ほとんどの動物は、病気などの場合を除き、また、人間が原因の場合を除き、そのようにして死んでゆく。
人間はそのようなことはない―それは、ありがたく思うべきだろう。
だが、ぼく自身に限って言えば、そのようなことを好ましく思う気持ちが、心のどこかにないわけではない
現実の人間としてのぼくはもう少し生きていたいし、飢えるのは嫌だし、本が読めないのは困る。だから現実としてではなく、あこがれのような感覚として。
いのちというものが、単純ですっきりしているではないか。
ぼくは頭がよくないので、作る前、連続焦点というのは、見る対象によって焦点距離が変わるものだと漠然と思っていた。老眼になる前の人間の目はそういうものだ。見る対象との距離によって水晶体が自動的に厚くなったり薄くなったりする。
考えてみれば、ガラスまたはプラスチックのレンズを削って作る眼鏡でそんなことができるわけはないのは最初から分かりそうなものなのに、なんて抜けているんだろう。
連続焦点というのは、中心から外に向かってレンズが連続的に薄くなっているもので、無意識に筋肉が動いて調整をしてくれていた眼の構造とは根本的に違う。近くを見るときには中心部分を使い、遠くを見るときには周辺部分を使う、というように、知りたい情報との距離に合わせて、視線や顔を動かさなければならない。
これは、日常生活を眼鏡をかけっぱなしで通そうと思ったら、慣れれば便利なものであるかもしれない。でもぼくはその必要な感じていない。立ち上がって動くときには、あるいはすこし離れた物や人を見るときには、あるいは山道を歩くときには、眼鏡をはずした方が具合がいい。
ぼくが眼鏡を必要とするのは、本を読むときと楽譜を見るときだけだ。これは、普通の単焦点の老眼鏡の方がはるかに便利だ。(さすがに、百円眼鏡はやめて、そういうものをいくつか買った。)行きつ戻りつして本や楽譜を見る習慣のあるぼくには、たかが文庫本サイズで中心と周辺部の焦点距離が違ってしまう、したがって視線を移動するのではなく顔を動かさなければならないのは、不便この上ない。
聴覚が衰えてからかえって、物音を耳障りにうるさく感じることが増えた。安い飲み屋などで周りの人声がうるさくて耐え難く感じることが多い。その一方でたとえば人混みの中などで、隣にいる友人の声が聞き取りにくい。
以前は、自分にとって必要と思われる音を自動的に選択して聴いていたのだ。人間は、そして動物はだれしも、そういう能力を持っている。その選択能力が衰えたのだ。これは聴覚に限らず、視角、嗅覚についても、動物にとって基本的な能力だ。
人間より何百倍も何千倍も優れた聴覚を持っている動物が、近くの物音が同じように何倍も大きく聞こえたら気が狂ってしまうだろう。匂いだって同じ、臭くて臭くて生きていけないに違いない。視覚だって同じ。空の上から、人間より何千倍も細かく詳しく見える周りの自然に邪魔されずに、ピンポイントで自動的に目標に焦点を絞れるから、獲物を得ることができるのだ。
動物たちにとってはその能力の衰えは、エサが取れなくなるのだから、あるいは、敵の存在を察知できなくなるのだから、生死にかかわる問題だ。ほとんどの動物は、病気などの場合を除き、また、人間が原因の場合を除き、そのようにして死んでゆく。
人間はそのようなことはない―それは、ありがたく思うべきだろう。
だが、ぼく自身に限って言えば、そのようなことを好ましく思う気持ちが、心のどこかにないわけではない
現実の人間としてのぼくはもう少し生きていたいし、飢えるのは嫌だし、本が読めないのは困る。だから現実としてではなく、あこがれのような感覚として。
いのちというものが、単純ですっきりしているではないか。
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