すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

三渓園散策

2022-09-22 15:16:13 | 老いを生きる

 大病を克服した友達と、「久しぶりに外を歩いてみよう、でもまだハイキングではなく」、ということで、本牧三渓園に行った。先月末に半年ぶりに会っているのだが、その時もびっくりするくらい元気になっていたのだが、一か月たってさらに元気になって体力も回復しているようだ。
 三渓園の一番好きなのは、正門を入るとすぐに眼前に大池の広々とした開放的な水面が広がるところだ。内苑の重要文化財指定の建築が狭い谷戸に並ぶ日本庭園より、こちらの方がはるかに解放感がある、繁りに繁った蓮池と睡蓮池に沿って、大池を左手に眺めながら明るい歩道を歩くと、また一緒に歩けるようになった嬉しさが込み上げてくる。なんせ半年前には、彼女はもう帰らぬ人になってしまうものと思い、ロシアのウクライナ侵攻の連日の衝撃的なニュースもあって、ぼくは絶望的な気分でいたのだ。
 分かれ道を右に、ちょうど今5年越しの改修工事が終わって内部を公開している臨春閣を拝見しようと御門をくぐると、和装の新婚さんが記念撮影をしていた。思わず「おめでとうございます。お幸せに」と声をかけた。
 臨春閣は日本庭園の池に沿った三段の雁行式の(雁が飛ぶ時のように斜めに連なった)凝った作りの建物で、紀州徳川家の初代藩主が建てた由緒ある建物だそうだが、お殿様の趣味の建物という感じがして、生活感が無さ過ぎて軽く、ぼくも友達もあまり好きにはなれなかった。襖絵など狩野派の名品が目白押しなのだそうだが、色褪せてぼんやりとしかわからない。池の水は降り続いた雨のせいか白く濁っていたが、芝生の緑は瑞々しく、粋を凝らした建物よりも外の風景に心を惹かれた。植物は、造られた庭であっても、雨が降れば生命力を取り戻すが、建物はどんどん劣化していく。
 内苑の古建築群はざっと見て門を出ると再び外苑。三重塔のある丘に登る道。「ゆっくり歩けば大丈夫」と言うので、休みながら登る。
登りながらふと別のことを思った。生糸貿易で莫大な資産を築いた男が金に任せて京都他から歴史的建造物を集めている間にも、飛騨の貧しい村々の娘が製糸工場で働くために峠を越えて行った。今度、女工哀史の関係の本を読んでみよう。そして、友達がもっと元気になったら、できたら一緒に野麦峠も訪ねてみたい。
 展望台は急な階段で、しかも醜いごちゃごちゃした埋め立て地しか見えなそうなのでパスして、三重塔へ。至近距離から見上げると九輪の上に真っ青な秋の空だ。飛天達が人間から身を隠してまじっていそうな微かな雲だ。
 東屋をみつけてお弁当を食べることにする。横浜駅で買った崎陽軒の炒飯弁当と季節のお弁当「秋」。季節のお弁当も好きだが、ぼくは特にこの炒飯が好きだ。崎陽軒はご飯が美味しい。
 お弁当を食べながら見ると50mほど先に彼岸花の群落があり、通る人ごとに足を止めている。食べ終わって行ってみたら、チョウがたくさん来ていた。キアゲハとクロアゲハ。もう少し色が複雑なのがカラスアゲハで、よく似ているけど瑠璃色の強い美しいのは何だろう? ミヤマアゲハだろうか? 子供のころ昆虫が苦手だったのでよくわからない。友人は「あ、恋をしている」というのだが、種類が違うから、「この蜜はオレのだぞ」とかやっているのだろう。
 矢箆原家(やのはらけ)住宅というのに行ったら、上がり込んで内部の見学ができた。白川郷のさらに奥の荘川村の庄屋が、御母衣(みほろ)ダムの建設で水没することになった家を三渓園に寄贈したのだという。これは江戸時代の農民の家とは言え、じつに重厚な建物だ。臨春閣よりははるかに生活の実質のある、しかも年月によっても容易には色褪せない風格のある家だ。ボランティア・ガイドの方にいろいろ詳しく教えていただいたが、その立派さはぼくが書いても表現できないから、行って見てもらうしかない。説明書も置いてある。コロナ禍で二階は解放していないというのが残念だった。 
 池のほとりのお茶屋さんで氷を浮かべた抹茶と水まんじゅうをいただいた。本牧まで歩き、バスで関内に出た。「月に一回ぐらい、出かけようね。旅行もしたいね」、と約束して別れた。家に帰って万歩計を見たら、一万五千歩を超えていた。彼女も一万歩は超えているだろう。大したものだ。
(なお、三渓園は以前にも行ったことがあるが、桜と紅葉の頃には人混みになるので御用心。)

コメント
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