すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

セカイノオワリ

2022-09-10 10:54:34 | 社会・現代

 人類は滅亡するか?
 長い間この自問に、「然り」と答えてきた。
 最近、そうではないだろう、と考えている。現象としてはほとんど同じことだが、どこを重大視するかが違う。
 現代文明は遠からず崩壊する。これは間違いない。ただそれは人類という種の滅亡ではない。黙示録の時代を耐えて生き延びる、数少ない人たちがいるに違いない。その人たちが、放射能から身を護るためのシェルターの中に閉じこもって自然から切り離されてテクノロジーの夢を見続けることができるか、あるいは「風の谷」のような、とりあえず汚染を免れて、だがいつも不安には曝されている小さな土地で、中世風のささやかな耕作の生活を営むことになるか、それは分かりようがない。
 いずれにしてもその時、人類は自らを「絶滅危惧種」と認めるだろう。
 ところで、ぼくの関心は、人類が生き延びるか否か、ではない。自分の老いと死が現実のものとなってくるにつれて、最初の自問の答えも変わってきた。
 いまぼくは自分の死は少しも怖くはない。その時が来たら受け入れるだけだ。だが、そこにいたるまでに長い激しい苦痛に耐えなければならないというのは恐ろしいし、嫌だ。(このことについて深く、執拗に考え続けたのは、大河小説「チボー家の人々」でノーベル賞を受賞したフランスの作家ロジェ・マルタン・デュ・ガールだが、ここでは話が逸れるので、別の機会に触れたい。)
 現代文明が崩壊する過程で、その過程の中を生きねばならない人たちが、どれだけ過酷な悲惨な現実を突き付けられることになるか、それは自分の死の苦痛どころではない、目が眩むほど恐ろしいことだ。
 そしてそれは、すでに世界のあちこちで始まっている。食べ物が無くて餓死する人たち、疫病にかかって非衛生的な環境で薬もなく死んでいく人たち、戦争で殺される人たち。
 これからぼくたちは、ぼくたちより後の世代はなおさら、どのような悲惨に直面しなければならないか? このことは今やぼくの強迫観念のようになっているから、これから繰り返し考え、考えるために書くことになると思うが、はじめに、気候変動について少しだけか触れてみたい。
(長く考えるのが苦手になっているので、この項続く)

コメント
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