数日前の夜、友人Aから久しぶりの電話がかかってきた。ぼくが7月26日を最後にひと月以上ブログの記事を書いていないので、奥さんと二人、「どうしたんだろう? 病気でもしているんだろうか?」と心配して電話をくれたのだそうだ。あらためて、友達というのはありがたいものだ。
ぼくらの年代になると久しぶりの電話と言えば、「その後体調はどう?」「うーん、あっちは良くなったがこっちは悪くなった」「体力はどんどん落ちてるね」「友人Bはどこが悪くてCはどこが悪いらしい」という話になるのだが、幸いAもぼくも、まあそこそこ苦労しながらも夏を乗り切ったようだ。秋になったらまた会おう、と約束した。
ここ数年、夏になると「この夏は無事乗り切れるだろうか?」と思い、冬になると「この冬は・・・」と思う。だが今年の夏は特に厳しかった。体調が、ということではない。
戦争、水害、山火事、旱魃、食糧危機・・・猛暑に加えて、世界は苦しみに満ち、TVも新聞も暗い報道に満ちていた。暑いから外出せずにそういうニュースを見続けていると、どんどん気持ちが落ち込んで閉塞感に押しつぶされそうになる。
それで、ぼくはブログを書く気になれなかった(むろん、無気力なのは世界のせいだけではなくて、ぼく自身の問題であるのだが)。
ぼくはブログに、原則として、何処に出かけて誰と会って、何を食べた、と言うような記事を書かない。その時自分が何をどう感じ、どう考えたか、を忘れないために、文字として残しておきたいから書く。ただでさえも日常考えることの暗い傾向にあるぼくが、この8月に記事を書いたら、暗い暗い、底無しに暗いものになっていただろう。
だが、Aからの電話の翌日、気を取り直して「背の高い娘」を書いた(決して明るくはないが)。
これから、気を取り直して、暗いものを躊躇わずに書くことにしよう。
暗いものを書く人間がいることは必要だ。世界は現実に苦しみに満ちているのに、なるべくそちらは見ないようにして生きて行こうとする人が多いのだから。そして実は、そういう人だって大きなストレスは受けているのだから。
ただまあ、苦しみに満ちた世界の中で、問題解決の希望の糸がいくらかでも辿れないか、を考えることも必要だ。
すこしはものを考えやすい季節になりそうだし、ぼくも無気力にばかり陥っていないで、もう一度考えることにしよう。
現代文明は、これまでに滅びた幾多の文明と同じく、滅びることは免れないと思うが、滅びる過程がなるべく悲惨なものにならないよう、考えることは必要だ。