若い時と八十代、考え方に大きな開き
老境➡億劫、めんどくさい、どうでもいい、あきらめの境地
ここに使用した画像は、静岡県柿田川の風景で、
富士山に降った雨が長~い月日を経て湧き出て多くの緑を養っています。
水と緑の川・・・・「柿田川公園」
高齢者になると過去の重要な出来事であったことが、1年あるいは数年経つとその
出来事が入れ替わるか、忘れ去ることが多い。
・・・と、言うことは世の移り変わりが早いのか、いや!時代に着いて
いけない我が身なのかも知れない。いわゆる・・・乗り遅れる。
ある雑誌に「時代と年齢と記憶力」と言うタイトルで書かれていた。
齢を重ねることは、今まで”こうだ”と思っていたことが少し食い違って見えたり、
現代の事象とかけ離れて脳裏を駆け巡ることがしばしばです。
これまでに大切にしてきた事が、どうでもいいと思ったり、
過去に素晴らしいと思っていたものが結構色褪せて見え、鮮度が全く変わっている。
この事は、思考能力が鈍化していることは確かであるが「億劫、めんどうくさい、
どうでもいい、どうせ思うように行かないのだから・・・」の諦めの境地、
投げやり的な思考能力が働いているからかも知れない。
いわゆる人間の「ねばり・踏ん張り・努力」と言う部類のものが年齢とともに
大きく減退するからであろう。
昔と今を見つめる方向性、内容の見方(深度)に大きな変化があることに気が付く。
自分の過去の思い出、家族の団欒、学生時代の友人、社会に出てから
の職場での出来事等は、歳を重ねると別世界のようなて考え方に立つことが多い。
今の価値判断の尺度で昔の出来事を忖度すると、間違った見方する
ことが多々あります。
趣味に、自分の好きなものに打ち込むのも常に身体との相関関係にあることを気づかなければならない。
ほどほどに、まあマア~、八十代の平均寿命を全うして、
なるべく病気をせず健康で、生活も人に迷惑をかけない。
そういう人生や考え方が、常識的な優位に立っことは否めません。
典型的な「大過なく」「健康」との兼ね合いで、覆い尽くされてしまう。
その違和感、本当に気のせい、老化現象の副産物!?
年齢を重ねるにつれて、「何をするにも億劫になった、めんどくさい
の諦めの境地」は、体力や気力の面でなんとなく違和感を覚えること
は精神的な要因・・・?
その違和感、たしかに今は気のせいかもしれません。
実はあの「認知症」を引き起こす危険信号の可能性かも知れない。
クワバラクワバラ~。
▼ 行く末は楽しく豊か大過なく
暮らす幸せ「先ずは健康」 (縄)
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