ツモ爺のひとり言~アートフラワー~

人生を少し長く生きた一人としての”私のひとり言”を聞いてください。

終戦時のツモ爺

2012年08月16日 14時11分37秒 | ツモ爺のひとり言
 当時、ツモ爺は愛知県岡崎の中学4年生、学徒動員で海軍の彗星という航空機のエンジンを作る工場に行っていました、しかし6月に名古屋の本社が爆撃にあいそれからは部品が廻ってこなくなり、仕事が無くなりました。

 その頃、豊川の海軍工廠へ派遣されていた学徒は爆撃にあい多数の死者がでました、また、その頃になると日本の制空権はなくアメリカの戦闘機のP-51やグラマンが我が物顔に飛び回り、白いものを着るな、動くなと厳重に注意されていました、通学の電車の屋根も銃弾で穴が開いていたほどです。

 開戦当時はともかく戦いが進むほどに彼我の工業生産力の差が大きくなり、サイパンが落とされるようになりそこからB-29爆撃機の空襲が始まり終戦間際には本土近くまでアメリカ空母がやってきて艦載機で地上の射撃がはじまり、追い詰められていく日本のことが中学生でも分かるようになりました。

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