中国や韓国のように、儒教思想が普及した社会では、夫婦別姓であり、子供は生涯、父親の姓を名乗る不文律がある。もし、選択制の夫婦別姓を選んだら、子供の「姓」を父親の姓とするのか、母親の姓とするのか、非常に悩ましい問題が出てくる。日本は、母系制の社会の伝統があるからとしても、母親の姓は、明治時代からは、未婚の状態なら父親の姓を名乗っているはずである。明治以前は、武家か、姓を許された家族しか姓はなく、庶民には姓がなかった。夫婦別姓を選択したいという希望は、理解できる。けれども、個人の希望を1000万人集めても、生まれた赤ん坊の姓は、戸籍法に従い、子供の意志に関係なく、父親か、母親のどちらかに帰属させる。原理的には、父親が誰であるかではなく、誰かが法的に父親として認知し、そこで、子供の姓の帰属がきまる。婚外子の姓は、母親の祖父母の姓に帰結する。最近、さらに複雑なのは、代理出産の場合もある。こうした諸問題を整理すると、国家の制度としては、個体識別の手段として「戸籍」法が問題となる。姓名と生年月日でも、中国のような大人口社会では、同姓・同名・生年月日、性別も同じというケースもある。さすがに、細かな出生地までが同じという事例はないようだ。そこで、中国では、公民証により総背番号制が発達した。この選択的な夫婦別姓を安倍総理が認めないから、それを選挙の争点とする視界の狭い論客が現れた。国籍法の整備と国民総背番号制とが完成すると、特定個人を同定できるから、「姓」は単なる呼称に過ぎなくなる。非常に大事なのは「名」称でもない。日本国民証の個体識別の番号のみということになる。デジタル社会の利便性、効率性を考えると、実は、この議論は限りなく、日本国の行政効率、全民社会保障番号という「経済成長に関わる大問題」であるといえる。多様性と認めることと、日本国民証の個体識別の番号制度の制定と対極の矛盾を統合する思考が求められる。