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ヘブル人への手紙3章6節

2015年10月28日 06時21分36秒 | 聖書


★しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

哀歌3章25~28,31~33,55~57節
★主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
「主よ。私は深い穴から御名を呼びました。あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな』と仰せられました。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!10月27日の朝です。今日1日も、主を求めていきましょう。主のお帰りを待ち望みましょう。僕らは、神様の家だからです。主人の帰りを待ち望みましょう。

主を求め、主の救いを待つ時には、黙って待つことも良いのだと思いました。また、主の救いを叫び求めることも大切なのです。ということは、黙ることも、叫ぶこともどちらも必要だということです。大切なのは、方法だけではなく、主の救いを待ち望むたましいです。

苦しみや自分自身の罪に嘆くとき、イエス様に対する確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けていきましょう。イエス様が、すでに十字架と復活によって圧倒的に勝利されているからです。

僕らが苦しむ時、「主は何もしてくれない」と思って失望してしまうかもしれません。しかし、イエス様は、御言葉を与えてくださいます。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷はかるいからです。」』(マタイの福音書11章28~30節)

イエス様のくびきを負うことです。苦しみを取り去って頂くことではありません。苦しみの中をイエス様と共に歩んで、イエス様と共に解決し、イエス様と共に勝利を味わうのです。苦しみ、悲しみ、不安の中で、主は『恐れるな』と絶えず言い続けてくださいます。

なぜならば、僕らは、神様の家だからです。神様がすべてを造られ、栄光を受けるべきお方です。その神様の家なのです。神様の権威と力が満ち溢れる家なのです。

だから、今日1日も、家の家主であるイエス様の帰りを待ち望みましょう。臨在を待ち望みましょう。イエス様のことをいつも考え、イエス様に従い、イエス様への信仰によって生きていきましょう。

■A:考えてみよう
主を待ち望む者となっていきましょう。
主を求めていきましょう。
主の御声を聴く者となっていきましょう。
主を叫び求めていきましょう。
主の前に静まり黙って待ち続ける時ももっていきましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月27日(火)のつぶやき

2015年10月28日 01時46分09秒 | キリスト教

◆私たちはみな、

2015年10月27日 16時35分24秒 | 聖書
汚れた者のようになり……。(イザヤ六四・六)
 
信者は新しく造られたものである。聖なる特別な民に属している。神の御霊が彼のうちにあり、あらゆる点で生来の人とは、はるかにかけ離れている。それにもかかわらず、彼はやはり罪人である。地上の生涯を終えるまで。その生来の性質が不完全だからである。
罪の黒い指は私たちの晴れ着の上にしみを残した。偉大な陶工が私たちの悔い改めを完成されるまでは、罪が私たちの悔い改めを傷つける。利己心は、私たちの涙を汚し、不信仰は、私たちの信仰に水をさす。イエスのいさおしを離れては、私たちがなす最上のことも、ただ罪の数を増やすだけである。私たちが最もきよいと見るものも、神の目から見ればきよくないからである。そして主は御使いたちにさえ誤りを認められるほどであるから、たとえ私たちが御使いのような心になったとしても、私たちの愚行を責められるのは当然である。天まで届く賛美の歌、セラフィムの調べにも比すべき歌の中にも、人間の不調和が混じっている。神の御腕を動かすような祈りも、やはり傷つき打ちひしがれた祈りである。そして罪のない偉大なる仲保者がとりなし、私たちの嘆願から罪を取り除かれるゆえに、神の御腕を動かすことができるのである。クリスチャンがかつてこの地上で到達した最もすばらしい黄金のような信仰、最も純粋な聖潔の中にも、なお多くの焼き捨てねばならない不純物がある。毎晩私たちは鏡の前に立つ時、その中に罪人を見る。そして「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」と告白せざるを得ない。
おお、私たちのような心にとって、キリストの血はいかに尊いことか。主の完全な義は、なんと貴重な賜物であろう。そして今後の、全き聖潔の希望はなんと輝かしいことであろう。今も、罪は私たちの中に住んでいるが、その力はすでに破壊されている。罪はもはや支配力をもたず、背骨を折られたへびである。私たちは罪と激しく戦っている。しかし、戦うべき者は征服された敵である。しばらくすれば、私たちは、何ものにも汚されない都に勝利の入城をする。
 
 

「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、

2015年10月27日 16時34分32秒 | 聖書

あとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)

ある人に、厳しい試練が臨んだ。
突如の事で理解もできず、辛さと悲しみの中を通った。
しかし、しばらくして、その人の口から「あれは、あれで良かったと心底思えるんです」との言葉が出た。
「良かった」と言える。頭の理屈では理解できないが、霊の中では納得できるのだ。
不思議な感覚だ。その人が主から十分な慰めを受けたゆえだった。
理屈を超越して、心に納得が行ってしまうのだ。
又、ある高齢者は「若い時にはわからなかった事が、この歳になって初めてわかります」と。
「痛みや苦しみを通り、なぜ?なぜ?でしたが、今、パズルがつながり、恐るべき高慢から守られるためであったと、はっきり答えがわかります。
あれが無ければ、高慢なまま、どんなに恐ろしい事になっていたか、本当に感謝しかありません」。
様々な人から「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」との証しを耳にする。
神に真に向き合うようにされ、拠りすがる者とされ、叫び祈る者とされた。
砕かれ、虚飾をはぎ取られ、恵みに目が開かれた。
苦しみによってしか、得られないものがある。
又、ある種のものは、天に帰って初めてわかる。
天では、何もかもをはっきりと見て、理解できるので、賛美しかない。
すべてが賛美となる。それまでは「信仰」だ。
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苦しみを通して神様に出会えた。
そして、今も痛い所を通りながら思い通りなら、決して知り得なかった神様と共に生きている。
わからなくても、今も神様が守り支えていて下さっている事を知っている。


今日の聖人の記念日

2015年10月27日 06時33分47秒 | キリスト教

聖フルメンチオ司教

300年ごろ-380年ごろ

 フルメンチオは、レバノン南部のテュロスの商人で哲学者であるメロピオスの弟子であった。同じく弟子であったエデシオスとともに、師弟はインドへの航海に出たが、途中アビシニア(現在のエチオピア)で捕えられた。メロピオスは処刑され、キリスト教徒であったフルメンチオとエデシオスは、アクスム王のもとに奴隷として連れていかれた。その後、2人は王の行政を助け、キリスト教の宣教をする機会を与えられた。王の死後、自由の身となりエデシオは故郷に戻ったが、フルメンチオは宣教の成果を報告するために、アレキサンドリアに行き、聖アタナジウスによってアビシニアの司教に任命された。フルメンチオは、「Abuna」(われらの父)という称号を得、以後その称号はアビシニア教会の司教に継承された。エチオピアでは、フェレーメナトスとカサーテー・ベルハーンとも呼ばれ、アビシニア人の使徒とされている。


◆干渉か祈りか

2015年10月27日 06時32分40秒 | 聖書

自分に関係のない争いに干渉する者は、
通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。(箴言二六17)
 
そんなことをしたために、がぶっとかみつかれる姿が目に浮かぶようです。ところで、この「関係ない」ということばを、私はあまり好きではありません。「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょう」という替え歌がはやったこともありました。とにかく、このことばは、「君が君の好きなように勝手にやることに、ぼくも干渉しない。その代わり、ぼくの勝手にすることに、君も干渉するな。君は君、ぼくはぼく。関係ない。関係ない」。こんなふうに、私には聞こえるのです。
むしろ「袖触れ合うも多生の縁」といわれるように、やはり人の汗や涙に関心を持ち、人の悲しみを悲しみとし、人の喜びを喜びとし、人の重荷を分け合って担おうとするほうが、人間らしいあり方だと思います。
では、自分に関係がない争いに干渉するなとは、どういうことでしょうか。できるだけ知らん顔をしていろ、かかわるなという意味でしょうか。そうではありません。
第一に、自分の肉の力はけっして、その争いを解決する力がないのに、あると思いこんで口出しすることではありませんか。
第二に、神だけがほんとうのさばき主・報い主であるのに、自分がすべてを評価しさばくことができると思いこんで、干渉することではないでしょうか。
第三に、祈り深い態度、いいえ、深い祈りそのものによってその当事者と自分の魂とが深くつながっていることなしに、つまりそのような祈りの態度なしに、割って入ることではないでしょうか。
このような意味で関係のない争いに干渉するなら九九%痛い目に会うと、クラークは言いました。干渉したり口出ししたりしないで、人のために祈れる人になりたいと思います。
 
 

◆次のことばは信頼すべきことばです。

2015年10月27日 06時31分35秒 | 聖書
(Ⅱテモテ二・一一)
 
パウロはこの「信頼すべき」という意味のことばを四度用いている。その最初はテモテへの手紙第一、一章一五節である。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」次はテモテへの手紙第一、四章八、九節である。「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。」第三は、テモテヘの手紙第二、二章一一、一二節である。「次のことばは信頼すべきことばです。『……もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。』」第四は、テトスヘの手紙三章八節である。「これは信頼できることばですから……神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」私たちはこの四つのことばの相互関係をたどることができる。
第一は、偉大な贖い主の使命の中に示されるように、私たちの永遠の救いの基礎を、神の無代価の恩寵の中に置くものである、第二は、私たちがこの救いを通して得る二重の祝福、現在と永遠との二つの祝福を断言している。第三は、召された人々の義務の一つを示す。私たちはキリストのために苦しむように定められており、「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」との約束が与えられている。最後のものはクリスチャンの奉仕の活動的な面を示し、良いわざを励むことを命じている。こうして私たちは、無代価の恵みに救いの根底をもち、現在と将来の生活に救いの特権を与えられ、さらに二つの枝――御霊の実によって飾られた、キリストと共に苦しみ、キリストに仕えるという二つの枝――をもつ。これらの確実な信頼すべきことばを心に留めよ。
異邦人への使徒パウロは、これらのことばの確実性を証明した。それは今なお一つたりとも廃ることなく、そのまま受け入れるに足るものである。今これらのことばを受け入れ、その確実性を実証しようではないか。これらのことばを家の四隅に記そうではないか。
 
 

第1歴代誌24章20-31節

2015年10月27日 06時30分15秒 | 聖書


24:26 メラリの子はマフリとムシ。彼の子ヤアジヤの子孫、
24:27 すなわち、メラリの子孫で、彼の子ヤアジヤから出た者は、ショハム、ザクル、イブリ。
24:28 マフリからは、エルアザル。彼には子どもがなかった。
24:29 キシュからは、キシュの子孫のエラフメエル。



 ダビデはレビ人を、ゲルション人、ケハテ人、そしてメラリ人として分けて、それぞれ神殿での奉仕をさせました。

その内、ケハテ族の子孫がアロンの氏族たちで、彼らが神殿で祭司として奉仕をする人々でした。

その祭司の働きをするケハテ族の働きについて、ダビデは組織作りをしました。

後に残ったレビ人は、メラリ人でした。

その人々が誰であったのかということを語っているのが、この箇所です。

 メラリ族は、かつて荒野を旅している時には、幕屋の北側に宿営しました。

また、移動をする時には幕屋の板や柱、それに台座などを運ぶ務めにつきました。

その彼らに今、神殿での奉仕が託されたのです。


哀歌2章18~19節

2015年10月27日 06時28分04秒 | 聖書


★彼らは主に向かって心の底から叫んだ。
シオンの娘の城壁よ。
昼も夜も、川のように涙を流せ。
ぼんやりしてはならない。
目を閉じてはならない。
夜の間、夜の見張りが立つころから、
立って大声で叫び、
あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。
主に向かって手を差し上げ、
あなたの幼子たちのために祈れ。
彼らは、あらゆる街頭で、
飢えのために弱り果てている。

■O:今日のコラム
哀歌は、エルサレムの荒廃を悲しむ歌です。エルサレムは乙女にたとえられています。なぜならエルサレムはキリストの花嫁の象徴だからです。聖書の最後には、新しいエルサレムが花嫁の様に整えられて降りてきます。
    この荒れすさんだエルサレムの中にまだ城壁が残されていることがこの節を見ると分かります。城壁とはやはりキリストの花嫁としてのアイデンティティーを悟っている者の事です。雅歌は花嫁の成長を描いています。そしてそれは全8章の書物です。その8章、つまり完成の領域にこの様にあります。

『もし、彼女が城壁だったら、
その上に銀の胸壁を建てよう。
彼女が戸であったら、
杉の板で囲もう。
私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。
それで、私はあの方の目には
平安をもたらす者のようになりました。』
(雅歌8:9~10)

    その者は、昼も夜も絶えず祈りを捧げ、涙を流します。夜には大声を上げ叫び、心を主に注ぎ出します。そして、花嫁の回復のためにとりなす者となります。
花嫁の心が与えられ、主の臨在をしたい求めて、涙を流して祈る1人の者を主は選び、召してから、全体の回復が与えられていくのです。
同じ様な状況に置かれている者が歌った詩篇が42篇です。あまりにも似ています。

『鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて
渇いています。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
人が一日中
「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
私はあの事などを思い起こし、
私の前で心を注ぎ出しています。
私があの群れといっしょに行き巡り、
喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに
神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。』(詩篇42:1~4)

あなたの周りにその様な者がいないでしょうか?いないならばあなたがそのの召しを受けているのかもしれません。誰か1人でいいのです。その1人の祈りから花嫁の回復は始まっていくのです。
    ネヘミヤ記もエルサレムの城壁の回復を描いた書簡です。つまりキリストの花嫁の回復が啓示されているのです。そのスタートは、ただ1人の涙を流して、とりなし祈る者である、ネヘミヤから始まっていきました。


■A:考えてみよう
いつもその1人の者であり続ける


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月26日(月)のつぶやき

2015年10月27日 01時46分51秒 | キリスト教

◆川はみな海に流れ込むが、

2015年10月26日 17時11分09秒 | 聖書
海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。(伝道者一・七)
 
万物は流転している。時間は休むことを知らない。この堅固な地球は回転する球である。巨大な太陽自体も、より大きな発光体の周囲を従順に軌道に従って回る一つの星である。潮は海を動かし、風は大洋を波立たせ、波は岩をすり減らす。海は水の富を蓄えるけちんぼの倉庫ではない。ある力がその中に水を流れ込ませると、他の力が水を天に吸い上げるからである。人はただ死ぬために生まれてくる。すべては焦燥であり、心労であり、憂慮である。
変わることのないイエス様。あなたの相続財産――あなたの祝福の海――について考えるのはなんという喜びでしょうか。あなたの祝福の海は、永遠に満たされています。神ご自身が永遠なる喜びの流れをそこに注いでおられるからです。私たちは、空のかなたに永遠の都を望みます。そして決して失望しません。
今夜の聖句は、私たちに感謝を教える。父なる大洋は大きな受取人であられる。また寛大な分配者であられる。川がもち込んだものを、父は雲と雨の形で地に返される。取り入れるのみで返すことをしない人は、この宇宙の秩序を乱している。他の人々に与えることは、私たち自身のために種を蒔くことである。自分の資産を喜んで主のために用いる良い管理人は、さらに多くを託されるであろう。
イエスの友よ。受けた恵みに従って、あなたはお返ししているか。多くを与えられて、どのような実をあなたは結んだか。できる限りのことを、あなたはしたであろうか。そしてそれ以上できないであろうか。利己主義は悪である。大洋が海の幸を生じなかったら、人類は滅亡するほかなかったであろう。私たちが自らのために生きるという、狭い、破壊的な方針をとることを神は禁止される。イエスはご自分を喜ばせることをされなかった。主の中には、すべての満ち足れる徳が宿っている。私たちはすべて、その中から受けている。おお、イエスの御霊を得たい。今より後、私たちが自らのために生きることがないために。
 
 

自分は何という人間、だめだ、

2015年10月26日 17時10分11秒 | 聖書

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」(ヤコブ1:17)

ある人が、対人関係で、ある状況に陥った時に、自分の本性が露呈してしまった。
そして、自己嫌悪に陥り、ひどく落ち込んでしまった。
自分には愛が無い、優しくもない、むしろ報復しようとするし、攻撃したい心がある。
だめだと、ネガティブな状態にいた。
その時に、「はっ!」と気づいた。
なぜこんなに落ち込むのか。それは自分には愛があると思っている、優しい人間だと思っている、ひとかどの人格は備えていると思っている、だから落ち込むのだと。
自己嫌悪は、高慢の裏返しだと。
別の人は言った。自分は何かあるとひどく落ち込んでいた。
自己憐憫に陥り、人をシャットアウトし、自分の世界に逃げ込む。
「自分は可哀想」の中に浸る。
でも、主を知って、落ち込まなくなった。
どんどん自分の醜さ、汚れ、弱さを知るが、視点が変えられた。
自己憐憫に入るのでなく、「自分の醜さ、弱さを教えて下さった事を感謝します」と、主に感謝できるようになった。
どんなに罪深いかを知る時、自分に誇る何も無い事を知る。
主の恵みがいかばかりかを知る。
自分に頼らず、自分を当てにもしない時、今、赦され生かされている事が恵み以外の何ものでもない事を悟る。
すべてが上からのものである事に目が開かれ、愛も思いやりも、上から来るのであり、上からしか来ない。
だからこそ感謝が溢れる。
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自分は出来ると思っているから、落ち込むのであり、プライドが傷つく。
そして自分で頑張り、律法の下であえぐ。
どうやっても出来ない事、どんなに惨めな者であるかを知る事が感謝だ。


今日の聖人の記念日

2015年10月26日 06時31分30秒 | キリスト教

聖エヴァリスト教皇

在位99年-107年ごろ

 エヴァリストは、ベトレヘム生まれのギリシャ系ユダヤ人であった。キリスト信者になってローマに行き、そこでクレメンス教皇の後を継いで、第5代の教皇となった。

 エヴァリストは初代教会の組織作りに貢献し、ローマを小教区に分け、7人の助祭を任命し仕事を分担させた。

 彼の遺体は、バチカンの聖ペトロの墓の近くに埋葬されている。


◆愚かな者ナンバーワン

2015年10月26日 06時30分29秒 | 聖書

自分を知恵のある者と思っている人を
見ただろう。
彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言二六12)
 
この一週間は、ずっと「愚かな者」についての箴言を読んできました。人をのろう愚かな者・人のことばを聞かない愚かな者・売りことばに買いことばの愚かな者・口先で語る愚かな者・人の誉れを受けていい気になる愚かな者がいました。さてきょうは、愚かな者中の愚かな者。愚かな者ナンバーワンが出てきます。それは、「自分を知恵のある者と思っている人」だというのです。
イエス・キリストは、ヨハネの黙示録の中でこう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録三17)。パウロはコリントの人々に、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント一〇12)と、警告しました。
小さな子どもさんたちをかかえ、ご主人の浮気と借金に、いうにいわれない苦労をしている方があります。でもその方は、そんな苦しさの中から神を見いだし、ご主人に仕えきり、ほんとうにしっかりと生きている若い婦人です。この家庭にも、祝福がふりそそがれるようになりました。
そして、手紙でこう書いてこられました。「奥さま、そして先生。私が救われ、神さまから助けられ強めていただくためには、私は罪人でありさえすればいいのですね。」私も妻も、美しいことばだと言い合いました。
神の救いや助けや励ましを必要としない自己満足の者こそ、愚かな者ナンバーワンだといわれています。
 
 

◆あなたがたは多くを期待したが、

2015年10月26日 06時29分47秒 | 聖書
見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。(ハガイ一・九)
 
けちな人は、内外の伝道のために献金することを惜しみ、それを倹約だと言う。彼らはそのために自らを貧しくしているとは夢にも考えない。彼らは口実を設けて、家族を見なければならないのだと言う。しかし神の家をなおざりにすることは、必ず彼らの家に破滅をもたらすことを忘れている。
神は摂理によって私たちの努力を成功させることも、失敗させて茫然とさせることもなさる。神が手をひるがえされることにより、私たちの舟は良い水路に進むことにも、貧困と破産の暗礁に乗り上げることにもなる。主は心の広い者を富ませ、利己的な者に対して、出し惜しみが貧乏への道であることを知らされる。
私は非常に広い範囲を観察した結果、最も物惜しみしない人は常に幸福で、ほとんど例外なく繁栄していることを発見した。気前よく与える人が思いがけぬ富を受け、心の狭い卑しい金の亡者が、極端な節約によってお金を蓄えようとして、かえって貧しくなっていくのをしばしば見た。この世の人は良い管理者に多額のお金をゆだねる。主もまた多くの場合そうされる。俵で与える者に対しては車いっぱいのもので報いられる。たとえ多くをささげることができないとしても、惜しまずに主にささげたならば、主はその人に喜びを与えることによりささげたものを倍にしてくださる。
利己主義者はまず自分の家を見るが、敬虔な者は第一に神の国と神の義を求める。しかし終局においては、利己主義者は損失をこうむり、敬虔な者は大きな利益を受ける。神のために惜しみなくささげるには、信仰が必要である。しかし神にはこのようなささげ物を私たちに求める権利が十分にある。私たちになし得ることは、私たちがいつくしみ深い神から測り知れない恩を受けていることを、謙虚に承認することだけである。