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7月29日(水)のつぶやき

2015年07月30日 01時43分24秒 | キリスト教

◆父がわたしにお与えになる者はみな、

2015年07月29日 17時20分57秒 | 聖書

わたしのところに来ます。(ヨハネ六・三七)

この宣言のみことばは、選びの教理を含む。父なる神がある人々をキリストに与えられるのである。それは、「有効召命」の教理を含む。与えられた人々は必ず来なければならず、また事実来るのである。彼らがいかに頑強に抵抗しても、暗やみの中から神の驚くべき光の中に導かれる。それは私たちに、信仰が欠くことのできないものであることを教える。キリストに与えられた人といっても、イエスに来るのでなければ救われないからである。キリスト・イエスという門を通る以外に、天国への道はない。父なる神が私たちの贖い主に与えられた者は、すべてそのみもとに来なければならない。したがって、キリストに来なければ、だれも天国に入ることはできない。
おお、この「来ます」ということばの含む力と尊厳よ。主は、彼らが来る力をもっているとも、来ることを欲するなら来ることができるとも言っておられない。「来ます」と言われる。主イエスはそのための使者であられる。みことばと御霊により、人々を穏やかに優しく、来ないではおられないようにさせて、婚礼の晩餐を食べさせてくださる。そしてこのことを、主は人間の自由意志を妨げることなく、恵みの力によってなさる。ある人の意志を私が支配しても、その人の意志は完全に自由であることがある。その時は強制が人間の心の法則に従って働くからである。イエスはこのことをご存じで、反抗できない議論をもって理解力に訴え、力強い理由をもって情に訴え、たましいのすべての力と情の上に不思議な聖霊の力を及ばせて、人を全く征服される。かつて反抗していた人も、愛によって征服されて、喜んで主のご支配に従うようになる。
しかし、神に選ばれた人であることをどのようにして知ることができよう。それは結果によって知ることができる。彼らが喜んでキリストを受け入れ、単純な偽りのない信仰をもってみもとに来て、救いのすべて、願いのすべてとして、主に憩うことによって。友よ。あなたはこのようにイエスのみもとに来た。

 


「主よ。私の口に見張りを置き、

2015年07月29日 17時20分13秒 | 聖書

私のくちびるの戸を守ってください」(詩篇141:3)

ある人が証しした。快く思えない相手がいて、忍耐し接していた。
すると、別の人からの電話で、その人への苦情、批判だった。
自分はクリスチャンだから、決して悪口は言わないが、言われる事がその通りで、思わず同調しそうになる。
その時、キャッチホンが入った。
ワンクッション置くと心が冷静になり、唇の罪を犯す事から守られた。
神の介入を感じて感謝したと。
又、唇に出さずとも心でしっかり同調し裁き溜飲を下げるかも知れない。
噂話は、対象となる人をひどく傷つける。
本人のいない陰で話されている事であり、噂が人から人へ伝わる時に必ず歪曲されるからだ。
真実が伝わる事はまずない。
なぜなら、聞いた人は自分の主観と色合いで聞き、自分の色を混ぜて次へ伝える。
その人も又、同様にして次へ伝える。
その時、相手への敵対心や嫉妬心があれば、どうだろう。
そのフィルターを通して、自分の主観を混ぜる。
結果、事実でも真実でも無くなって行く。
人間には肉の性質があり、偏見や自分の強い思いや密かな悪意があれば、容易に誘惑に陥ってしまう。
罪を犯さないために噂話はしない事だ。
何かあれば、直接本人に確認することが一番だ。
相手は間違った情報なら反論できるし説明ができる。
噂話の唇の戸が守られるように祈ろう。
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唇は、主を賛美し、人を慰め、力づける事ができる。
言葉が心の琴線に触れると、人は生きる。
今日、人に愛を表すために、この唇が用いられるよう祈っていよう。
今日、一言、周囲に感謝を伝えよう。


今日の聖人の記念日

2015年07月29日 07時08分37秒 | キリスト教

聖マルタ

1世紀

 イエスの時代に、エルサレムの近くのベタニアに、兄弟であるマリアとラザロとともに住んでいた。彼女は、敬虔な生活を送っていた。聖書に「イエスはマルタとマリアと、ラザロを愛していた」(ヨハネ11.5)とあり、ラザロが死んだとき、マルタはイエスのもとに使いを送って、イエスへの信仰と信頼を表し、ラザロを生き返らせてもらった。その後もマルタはマリアとともにイエスに従った。


◆借り手・貸し手

2015年07月29日 07時07分31秒 | 聖書

寄るべのない者に施しをするのは、
主に貸すことだ。
主がその善行に報いてくださる。   (箴言一九17)

韓国のすばらしい牧師で、清らかで力強い生活と働きをしている方が、こう言われたのを忘れることができません。「報いを望まないなんて、人間としてうそっぱちです。私は、やがて神さまからたくさんほめていただきたい、輝かしい冠をもらいたいのです。」そういえば使徒パウロも、「私は神から冠をいただく日をめざして一心不乱に走っています」と言いました(ピリピ三14参照)。私たちには、地上の人の報いを求めて生きるか、天の栄光ある神の報いを求めて生きるかの、二つに一つの生き方があるのではないでしょうか。そして私たちの多くは、あまりにも地上の褒賞ばかりを求めすぎるのではありませんか。
イエスは、街角に立ってラッパを吹き、自分の善行をひけらかすようなパリサイ的やり方をきらわれました。かえって、右手がしたことを左手に知らせるなと言い、また、お返しができないような飢えた者や渇いた者に、一かけらのパンや一杯の冷たい水をあげること、それこそ「わたしにしてくれたのだ」と言われました。そして、そのような人が受ける天での栄光に満ちた報いを語られたのです。
リビング・バイブルは、この箇所を「貧しい人を助けるのは神に貸すのだ。神は、すばらしい利息を払ってくださる」(英訳)という意味に訳しました。
寄るべのない人・貧しい人・病める人・困っている人が最後的に苦しんでいるのは、見捨てられた孤独と、愛されず必要とされていない苦しさです。あなたがそんな人の隣人になり、その人をも神は必要で生かしていてくださるのだと、あなたの無言の愛で分からせてあげることこそ、主に、貸しをつくるのです。そして、あなたが受ける天での報いは大きいのです。「あめにたから つめるものは げにもさちなるかな」と、讃美歌は歌います(讃美歌五一三番)。

 


◆しかし私は絶えずあなたとともにいました。

2015年07月29日 07時06分42秒 | 聖書

(詩篇七三・二三)

「しかし」――アサフが神に告白したすべての愚かさと無知にもかかわらず、彼が救われ、受け入れられ、常に神の御前にある恵みを得ていたことは真実であり、確かである。自らの招いた損失と、心の虚偽、下劣さを十分に意識しつつも、なお輝かしい信仰の力により、彼は「しかし私は絶えずあなたとともにいました」と歌った。
主にある友よ。あなたはアサフの告白と感謝に入らなければならない。彼と同じ精神で、「しかし、私はキリストのものであるので、絶えず神とともにいました」と言うように努力しなければならない。
これは次のことを意味する。すなわち、私が常に主のみこころの中にあること――主は常に私のことを思い、私の益を図っておられるということ。次に、常に主の目の前にあること――主の目は決して眠ることなく、いつも私の幸いを見守っておられるということ。そして、何者も私を奪うことができず、絶えず私は主の御手の中にあること。祭司長が不断に十二の部族の名を胸につけていたように、常に主の心に記念として刻み込まれていることである。
おお、神様。あなたは常に、私をみこころに留めてくださっています。あなたの愛の心は絶えず私をあわれんでくださいます。あなたは常にその摂理により私の益を図ってくださいます。私を封印のようにあなたの腕につけてくださいます。
驚くべき恵み! 神様。あなたはキリストの中に私を見られます。そして私は軽蔑すべき者であるのに、私をキリストの衣をまとい、キリストの血で洗われた者として見てくださいます。こうして私は御前に受け入れられて立ちます。このように私は常にあなたの恵みの中にあり、「絶えずあなたとともに」います。
ここに試練と患難の中にあるたましいへの慰めがある。
「しかし」――友よ。このことばを心の中で言え。そしてこのみことばの与える平安を受け入れよ。「しかし私は絶えずあなたとともにいました。」

 


第1歴代誌1章29-37節

2015年07月29日 07時05分31秒 | 聖書

1:29 これは彼らの歴史である。イシュマエルの長子はネバヨテ。ケダル、アデベエル、ミブサム、
1:30 ミシュマ、ドマ、マサ、ハダデ、テマ、
1:31 エトル、ナフィシュ、
ケデマ。これがイシュマエルの子孫である。
1:32 アブラハムのそばめケトラの息子たち。彼女は、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。ヨクシャンの子は、シェバ、デダン。



 アブラハムには正妻の子のイサクと、その他にハガルの生んだ子のイシュマエル、さらに後にそばめのケトラが産んだ子供などがいました。

ここでは始めに、イシュマエルの系図とケトラの生んだ子の系図が語られています。

また、アブラハムの正妻の子のイサクから生まれた人として、ヤコブとエサウがいました。

ところが、ヤコブのみが正当の後継者とされ、エサウは傍系のものとされていきました。

ですから、この箇所の系図では、ヤコブのことは、「イサクの子、イスラエル」と呼ばれているのです。

つまり、後の主の民イスラエルの直接の先祖となった人は彼だ、と意識されているのです。


歴代誌第二15章2,17節

2015年07月29日 07時02分54秒 | 聖書

★そこで、彼はアサの前に出て行き、彼に言った。「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。
高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、完全であった(主と全く一つになっていた)。

歴代誌第二16章12節
★それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!7月28日の朝です。今日1日も、主の臨在をお迎えし、求めて、楽しんでいきましょう。僕らは、主を求めることをやめてしまわないようにしていきましょう。主を礼拝できることは当たり前のことではないからです。

アサ王が王になり10年が平和で、その後戦いがありましたが、アサ王が主を求めることで戦いに勝利していきました。そして、15年目には、主を求めることを、ユダとベニヤミン、エフライム、マナセ、シメオン、の人々の前で契約として誓いをたてさせました。自分の母が偶像を造ったと知ると、王母の位から退けるほどに、主の道を求めていました。一生涯、主と全く一つになっていると言われた王となりました。

しかし、20年が過ぎた治世36年以降、主を求めることをやめ、周りの人々に助けを求めるようになっていました。35年までは主の守りを体験していたのに、いざ身内のイスラエルから戦いを持ち込まれると、他国に助けを求めるようになっていました。病の中でさえ、主を求めませんでした。

アサ王は、いつの間にか、主が共にいてくださることを当たり前のように思っていたのかもしれません。主の約束は「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」です。主が先ではなく、僕らから主を求めることが先なのです。順番は僕らが先なのです。


イエス様は、この地上で天のお父さんを絶えず求めていました。天のお父さんよりも先に、天のお父さんとの時間を大切にしていました。天のお父さんとの過ごし方の見本を見せてくださいました。そして、このイエス様の十字架と復活の勝利を信じる信仰により、天のお父さんの子供としての権威が僕らに復活しました。主なる聖霊様が僕らの内側に住んでくださることとなりました。僕らが主の宮となったのです。これは、ありえない祝福です。ありえない恵みなのです。

でも、僕らは、この事に、いつの間にか慣れてしまう可能性があります。主が共にいてくださることを当たり前のように思ってしまっているかもしれません。今、僕らに与えられている環境も当たり前のように感じてしまいますが、当たり前ではないのです。周りにいる人一人一人も当たり前にいる存在ではありません。慣れは、僕らを主から離そうとします。感謝の心をなくします。主の御心の一つに、僕らがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することがあります。(テサロニケ第一5章16~18節)毎日の主との親しい交わりを求め、礼拝を楽しむ時、僕らは、さらに主を求めることができます。

僕らの毎日は、二度と同じ状況になることはありません。礼拝も、生きているイエス様との交わりなので、毎回新しいのです。だから、今日1日も、主との親しい新鮮な時間をもっていきましょう。


■A:考えてみよう
新しい朝を感謝しましょう。
今日の一つ一つの出来事を喜びましょう。今日の一つ一つの出来事のために祈りましょう。今日の一つ一つの出来事を感謝しましょう。主と共に過ごす時間を楽しんでいきましょう。主に新しい礼拝をささげていきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月28日(火)のつぶやき

2015年07月29日 01時43分50秒 | キリスト教

◆巡り歩いて良いわざをなし……。

2015年07月28日 17時09分25秒 | 聖書

(使徒一〇・三八)

ことばは短いが、これは主イエス・キリストの絶妙な縮図である。字数は少ないが、巨匠の表現である。このみことばは、ただ救い主に関してのみ、最も深く、最も広く、無条件に真理なのである。
「巡り歩いて良いわざをなし……」との記述から、主がご自身で直接良い働きをされたことは明らかである。福音書記者は、くり返して次のように告げる。――主はご自身の指で重い皮ふ病の人に触れられた。主は盲人の目に手を触れられた。「みことばを下さい」と遠くから求められても、たいていそのようにはされず、親しく病床を訪れていやされた。このことは私たちに、もし良いことをしたいと思うならば、自分自身でそれをなすべきことを学ばせる。自分の手で施しをなせ。親切なまなざしやことばは、その贈り物の価値をいっそう高めるであろう。あなたの友に、たましいについて語れ。あなたの愛の訴えは、多くのトラクトにはるかにまさる効果をもたらすであろう。
主は絶えず活動することで、良い働きをされた。それが主のとられた方法であった。主は、みもとに来る者に善をなさっただけでなく、あわれみを施すために「巡回」をされた。ユダヤ全土にわたって、主の喜びを目にしない村はほとんどなかった。このことは、多くの信仰告白者がぐずぐずして動かないで主に仕えているのを叱責するものであろう。私たちは心の腰に帯を締め、善をなしてうむことのないようにしよう。
次にこの聖句には、主が良い働きをするためには回り道もされたという意味がないであろうか。「巡り歩いて良いわざをなし……。」主は、危険や困難のためにちゅうちょされることは決してなかった。主は、恵みを施す目的を探し出された。私たちもそのようでなければならない。もし私たちの古い方法が役に立たないとしたら、新しい方法も試みなければならない。
主の忍耐と、その目的の一貫性もここに暗示されている。その問題を実際に応用することは次のみことばにまとめられている。「キリストも……その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

 


「彼の打ち傷によって、

2015年07月28日 17時08分27秒 | 聖書

私たちはいやされた」(イザヤ53:6)

十字架で死ぬために、生まれて下さった主イエス。
近づく事もできない光の中に住まわれ、人が誰一人見た事もない、見る事もできない、永遠の主権者であられる御父。
もし、光まばゆい栄光の御父だけなら、私達はとても近づけない。
人となって下さり、輝きも見栄えもなく、人々から蔑まれ、除け者にされ、顔をそむけられ、足げにされた、そんな主ゆえに私達でも近づく事ができる。
人間は人から傷つけられると、人を傷つけて行ってしまう。物ではだめで、人格に受けた傷は、人格を傷つけて、その傷を癒すと言われている。
日常でよく目にするだろう。
人に当たるのだ。自分のイライラやストレスを、人にぶつけて発散させる。
きつい言動や態度で相手に害を加える。
夫は妻に、妻は夫に、親は子に、上司は部下に当たる。
実は目前の些細な事ではなく、自分の内にある処理できない問題のためだ。
自分で自分の責任を取る事をしない。
自分の感情の責任は自分にあるのに、その責任を相手になすりつける事だ。
主はその傷を受けるためにご自身を献げられた。
十字架上で「わたしを打て」と言っておられる。
人にでなく、自分にでもなく、主にぶつける時、不思議だが心が癒される。
これが主を信じる信仰だと言っておられる。
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人は心があるから様々な事で傷つき疲れる。
主を知っている私たちは幸いだ。
主が全てを受け止め癒して下さるからだ。
この方が私達のために、打たれ十字架に掛かられるために生まれた。


今日の聖人の記念日

2015年07月28日 06時57分17秒 | キリスト教

聖ナザリオと聖チェルソ殉教者

2/4世紀ごろ

 キリスト教迫害が始まったころ、ナザリオとその妻は自らの危険を顧みず、熱心に宣教をしていたが、仲間の計らいによってローマから出ることができた。ゴールに逃れたときに、そこでチェルソという子どもの世話を頼まれた。ナザリオは、チェルソに洗礼を授け、その後ドイツで宣教をした。そしてミラノで捕えられ、処刑された。

 4世紀にミラノの司教聖アンブロジオは、彼ら殉教者の遺体を発見し、それをミラノの教会に移した。のちにこの教会はナザリウスの教会と呼ばれるようなった。


◆なまけの診断表

2015年07月28日 06時55分42秒 | 聖書

怠惰は人を深い眠りに陥らせ、
なまけ者は飢える。        (箴言一九15)

箴言には、なまけ者に対する警告が何回も出てきますが、中にはユーモラスなものがあります。「なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む」(六9―10)。子どものころ「少年クラブ」の投書欄で読んだ、「凸坊は、夜ねて朝ねて昼にねて、時々起きて居眠りをする」という狂歌をふっと思い出すような箇所です。
だれでも、「私もそんななまけ者ではないかしら」と反省する心がどこかにあるかもしれません。なまけ者とはいったい何なのかと考えてみました。
第一に、目標がないことです。重荷を感じ、チャレンジを感じ、生きがいを感じる目標がなければ、人はなまけ者になります。
第二に、自主性がないことです。「これは、自分が進んでやらなければ大変なことになる。自分が必要とされている。自分の責任だ」と進んで取り組む自主性がなければ、なまけ者になります。
第三に、生活にリズムがないことです。昔から、「よく学び、よく遊べ」といいます。働く時、休む時、遊ぶ時、――その一つ一つにけじめ、節目をつけなければ、生活がずるずるべったりになってしまいます。
第四に、低血圧の人が朝起きられないように、心に愛とか希望とかのエネルギーがないと、ずるずるべったりのなまけ者になってしまうのではないでしょうか。
なまけ者は、いつも心の底に、悔いと不満足とを合わせ持っています。キリストは、こんな私たちに、目もさめるような愛とよみがえりの力を与えてくださる方です。神を待ち望む者は鷲のように翼をかってのぼり、走っても歩いても疲れないと聖書は言うのです(イザヤ四〇31参照)。

 


◆私は、そんなに愚かで、

2015年07月28日 06時54分53秒 | 聖書

わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。(詩篇七三・二二英訳)

これは神のみこころを求めていた人の告白である。そして彼はその内面生活を語って、「私は、そんなに愚かで、わきまえもなく……」と記している。「愚か」ということばは、普通考える以上の深い意味をもつ。アサフはこの詩篇の前半に「私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見た」と書いている。これは、彼の愚かさの中に罪が含まれていたことを示している。彼は愚かであったと書いているだけでなく、「そんなに」と、それを強調している。それは罪深い愚かさであった。弱さのゆえであると大目に見るべきものではなく、そのかたくなさとわがままな無知のために責められねばならないものである。彼は不敬虔な者たちの繁栄を見、いかに恐るべき末路が彼らを待ち受けているかを忘れて、彼らをねたんだからである。
私たちは、アサフにまさって自分が賢いと言うことができるだろうか。完全の域に達したと明言できるだろうか。あるいはまた、神から懲らしめを受けた結果、そのむちがすべてのわがままを取り去ったと公言してもよいだろうか。ああ、これは実に高慢なことである。もしアサフが愚かであったとすれば、自らを顧みる時、私たちはさらに愚かではないか。
信者よ。過去を思い出せ。神があなたにこよなく忠実であられた時、あなたは神を疑った。神がさらに大いなる祝福を与えようとしてあなたに一時的な患難を与えられた時、あなたは愚かにも「父よ。そうしないでください」と叫んだ。またしばしば神の摂理を悟ることができず、神のみこころを誤解して、すべてのことを働かせて益としてくださるのに、「こんなことがみな、私にふりかかってくるのだ」とうめいた。いかにしばしば快楽のために罪を選び、その快楽があなたの苦痛の原因となったことか。
私たちが自らの心を知るならば、必ずその罪深い愚かさを認めるだろう。そして自分の愚かさを知ったならば、アサフの「私をさとして導き……」との堅い信念を自分のものとしなければならない。

 


第1歴代誌1章17-28節

2015年07月28日 06時52分38秒 | 聖書

1:17 セムの子孫は、エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム、ウツ、フル、ゲテル、メシェク。
1:18 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。



 ヤペテとともに父のノアから祝福されたセムは、かつてのチグリス・ユーフラテス川沿いに、また現在の中近東の地に広がっていきました。

そこで強力な文明が栄え、豊かな国が生まれました。

その子孫の中には、アッシリヤ人、ヘブル人、アラビヤラ人などが生まれていきました。

ノアが語ったとおりに、神様の祝福に預かったのです。

特に際立つことは、セムの子孫からアブラハムが生まれたことです。

神様はアブラハムをウルの地から召され、彼にご自分のご計画と召しを与えられて、神の民の形成と、カナンの地の所有の約束をされました。

こうすることによって、救い主の誕生への道を開いてくださったのです。

このアブラハムの子からイサクが生まれ、さらにイサクからヤコブが生まれ、主の民イスラエルの12部族の民が形成されていったのです。