座間コミニティー

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◆神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。

2015年07月27日 16時19分58秒 | 聖書

(ローマ八・三三)

これは最も尊い挑戦である。これに答えることはできない。選ばれた者のすべての罪は、彼らの救いの偉大な擁護者の上に置かれ、贖いのわざによって取り去られた。そしてもはや神の記録の書には、神の民の罪は一つも記されていない。神はヤコブに罪を見ず、イスラエルに悪を見られない。彼らは、キリストにあって永遠に義とされている。
罪が取り去られる時、罪の罰も除かれる。クリスチャンに対して、神の怒りの御手から打撃が加えられることはもはやない。信者は、父なる神によって懲らしめられるかもしれない。しかし審判者である神はクリスチャンに対して、「わたしはあなたを赦した。あなたは無罪放免だ」としか言われない。クリスチャンにとって、罪の罰としてのこの世における死も第二の死も存在しない。
彼は罪から解放されるとともに、罪の罰からも完全に自由にされる。そして、罪の力もまた取り除かれる。罪は私たちの前に立ちふさがり、絶えず戦いを挑んで私たちを動揺させるかもしれない。しかし罪は、イエスと結合されたすべてのたましいにとっては征服された敵である。クリスチャンがもし神により頼むならば、打ち勝つことのできない罪は一つもない。天において白い衣をまとっている人たちは、小羊の血によって打ち勝ったのであり、私たちも同様に勝つことができるのである。どのような肉欲も強すぎることはなく、どれほどつきまとう罪も振り落とせないものはない。私たちはキリストの御力によって打ち勝つことができる。
クリスチャンよ。これを信ぜよ。あなたの罪の判決は終わった。もがくことがあるかもしれないが、罪の死は定まっている。神はその額にすでに罪の宣告を書き記された。キリストは、それを十字架につけられた。「十字架につけてしまったのです」と記されている。行け。そして罪を克服せよ。主があなたを助け、主を賛美するために生きさせてくださるように。なぜなら、罪はそのすべての咎と恥と恐れとともに去ってしまったからである。

 


「すべての懲らしめは…

2015年07月27日 16時19分11秒 | 聖書

悲しく思われるものですが…訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)

愛とは、暖かさ優しさと同時に、厳しさがある。
親は子供を愛しているからこそ、正しくしつける。
子供が要求するからと、何でもかんでも子供の意のままに与えはしない。
子供にとっての益を考える。
神はその愛する者を懲らしめ、訓練されると、はっきり言われている。
訓練とは心地良いものではない。
楽で快適なら訓練になどならない。
訓練とは心身圧迫され、厳しく辛いものだ。
どこが神の愛と思えるほどのものだ。
好き勝手、気ままにしたい自我が、厳しい訓練を受けて初めて、自制、柔和、従順に変えられる。
懲らしめは、決して喜びではなく、痛く悲しいものだ。
厳しく苦しい、辛い、悲しい所を通ってこそ「平安な義の実」、真実な平安を知る。
そして、痛い、苦しい試練の中で、初めて御言葉の意味を知る。
御言葉が命であり、力であり慰めだ。
御言葉そのものが食べ物だ。
御言葉によって生きる。
これは苦しみの中でしか経験できない。
荒野で「苦しみ、飢えさせ、マナを食べさせられた。
人は主の口から出るすべてのもので生きる」事を体得させるためだ。
それは真の「平安」に至る。これ以上無い苦しみ悲しみの中で、本当の平安、本当の喜びを知って行く。
神の愛だ。
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訓練の中で神の愛の厳しさを知る。
愛とは厳しいものだと思う。
しかし、砕かれ、造り変えられる。
本当に感謝しかない。
訓練が無ければ人間ですらもあり得ないと感じる。


今日の聖人の記念日

2015年07月27日 06時25分07秒 | キリスト教

聖パンタレオン

?-305年ごろ

 パンタレオンは、ニコメディアのローマ貴族の家に生まれた。父の意思によって医学を学び、またある司祭との出会いからキリスト教について学び、洗礼を受けた。医者となってからは、人々からも慕われ、評判が高まり、時の皇帝の宮廷づき医師となった。そして父の財産を継ぐと、それを貧しい人々や病人、孤児などに与えた。

 ニコメディアでキリスト教の迫害が始まると、彼の名声をねたんでいた医師たちは、彼がキリスト信者であると訴えた。そのため、彼は残酷な拷問を受け、処刑された。パンタレオンは、その名(憐れみに満ちるという意)が示すとおり、医学と愛の行いによって多くの人々を信仰に導いた。医師の守護の聖人とされている。


◆妻をめとらば

2015年07月27日 06時23分52秒 | 聖書

家と財産とは先祖から受け継ぐもの。
思慮深い妻は主からのもの。    (箴言一九14)

日本人に生まれるのも、男や女に生まれるのも、貧乏人や財産家に生まれるのも、頭がよく生まれるのも、ハンサムに生まれるのも、人間にはすべて選択がききません。神のおぼしめしのままです。ところが結婚は、人間にできる大きな選択のチャンスです。ですから、大いに心して結婚相手を選び、結婚がなされなければなりません。
箴言にも、けんかと争いの絶えない妻といっしょに暮らすのは、雨もりの家に住むようだと言っています(一九13)。立っていても座っていても、仕事をしていても眠っていても、その不運から逃れられないのです。また聖書は、そんな妻といっしょに住むより、屋根の片すみに住み、荒野にひとり住むほうがましだとも言っています(箴言二一9、19)。逆にいえば、思慮深い妻を得た者の人生は祝福です。
ところで聖書は、この自由選択できると考えられる妻についても、「思慮深い妻は主からのもの」と語ります。この「主からのもの」ということばは、もとの文では非常に強調されています。人間は、容貌とか、財産・門地・学歴などで配偶者を選んでいるかもしれません。しかし、やはり神が、最もよい適当な配偶者を与えてくださるのです。アブラハムは息子の妻を捜した時、ひたすら神に祈り、財産や門地や容貌ではなく、神の導く人を求めました。そして息子のイサクも、この問題を自分の判断や欲求に任せたのでなく、ひたすら神から待ち望んだのです。配偶者について、そのように神に伺い、神の目にかなった人を神に従ってめとるという態度をとるべきことを知りましょう。
もうおそすぎると言わないでください。ご自分の息子娘たちのために、ほんとうに虚心坦懐に神の前に出て、よりたのむべきではないでしょうか。

 


◆尊い、

2015年07月27日 06時23分09秒 | 聖書

すばらしい約束が私たちに与えられました。(Ⅱペテロ一・四)

もしあなたが実際に神の御約束の尊さを知り、心にそれを楽しみたいと願うならば、神の御約束を熟考せよ。御約束は酒ぶねの中のぶどうのようだ。それを踏めば果汁が流れ出る。聖なるみことばをくり返し熟考することは、しばしばその成就への序曲となる。御約束を思い巡らすうちに、あなたの求める恵みが、知らぬうちにあなたを訪れる。多くのクリスチャンが御約束を探して聖書を熟読しているうちに、御約束を保証する恵みがいつしかたましいの内部に浸透してくるのを経験した。そして彼らは御約束を心の近くに置くように導かれたのを喜んだ。
しかし、御約束を静思するだけでなく、それを神のみことばとしてたましいに受け入れなければならない。そしてたましいにこのように言え。「もし私が人と約束するならば、相手の能力、品性を注意深く考える。神の御約束についても同様である。私は恵みの偉大さに目を見張ってはならない――その結果よろめくかもしれない。むしろ約束した方の偉大さに目を留めなければならない。そうすれば勇気が与えられるであろう。私のたましいよ。おまえに語りかけておられるのは神であり、おまえ自身の神、偽りを言うことのできない神なのだ。おまえが今考えている神のみことばは、神の存在が真実であるように真実なのだ。神は変わることのない方である。一度言われたことを取り消されたことはなく、慰めのみことばのただ一つでも撤回されたことはない。また力において欠けているところはない。おまえにこのように語っておられるのは、天地を造られた神である。神はまた知恵において欠けておられない。恵みを与える時期を誤ることもなさらない。神は恵みを与えるべき時と、保留すべき時とを知っておられる。したがって、御約束が真実不変な全知全能の神のみことばであるのを見る時、私は御約束を信じるのであり、また信じなければならないのだ」と。
私たちがこのように御約束を黙想し、御約束の与え主に思いをいたすならば、その御約束の美しさを経験し、その成就を得るであろう。

 


第1歴代誌1章8-16節

2015年07月27日 06時21分46秒 | 聖書

1:8 ハムの子孫は、クシュ、ミツライム、プテ、カナン。



 歴代誌の系図はアダムから始まっています。

人類の祖先であるとともに、人の世界に罪をもたらした人です。

その結果として、人の世界に死が到来しました。

彼の後、ノアが挙げられています。

神の約束を信じて、主の御言葉に従った人物です。

新たな人類の出発をした人です。

その彼からセム、ハム、ヤペテの3兄弟が生まれました。

ヤペテは、セムと共に父の裸を見ないで、被いを持ってその裸を隠したために、父から祝福を受け、神がヤペテを広げるといわれました。

その結果、彼に関わる領土は広がり、また民族は大きくなりました。

カスピ海や黒海、そして地中海沿岸地方など、インドやヨーロッパ系の言葉を話す人々がその子孫です。

他方、ハムは、父の醜態を兄弟に告げて、父の怒りを買いました。彼の子孫は、カナン、ミツライムすなわちエジプトへと南へと広がっていきましたが、主の民を苦しめる者となったのです。

系図を読む人に、それらを思い起こさせるのです。


2歴代誌12章14節

2015年07月27日 06時18分24秒 | 聖書

★「彼は悪事を行った。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった。」

■O:今日のコラム
ソロモン王により異教の神々がイスラエルに入り込みました。
息子のレハブアムも王位が確立すると、主の律法を捨て去ったとあります。

ダビデ王とは違い、ソロモンもレハブアムも主を悲しませる者となってしまいました。
ソロモン王は最初は良かったのですが。

今日の箇所ではレハブアムのことが描かれています。
レハブアムが主の律法を捨て去ることになった原因はどこにあるのでしょうか?

2歴代誌12章14節
「彼は悪事を行った。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった。」

この箇所から、レハブアムの失敗の大きな原因は「心を定めて常に主を求めることをしなかった」
ことに原因があります。

一時的に主に立ち返り、その父ダビデの道に歩んだこともありましたが、
絶えず主を求めることはしませんでした。

国の指導者である王は民の心を主に向けさせる必要があります。
ダビデはそのような王でした。ダビデの晩年の最後までイスラエルの民に
主を礼拝させることを止めませんでした。

1歴代誌29章20節
そして、ダビデは全集団に向かって、「あなたがたの神、主をほめたたえなさい」と言った。
すると全集団は、父祖の神、主をほめたたえ、ひざまずいて、主と王とを礼拝した。

このように人々の心を主に向けさせることができるリーダーが、
教会の中に数多く立ち上がることを心から願います。

レハブアムの失敗から私たちは多く学ぶことができます。
その中でも人が成功しているときにこそ一番の注意が
必要であることが学び取れます。

レハブアムは王位を確立してどんどん力を増して行きました。
しかし、このような祝福は全て天の父から頂いたものです。
その栄光をまるで自分が成し遂げたかのように錯覚してしまうと大変なことになります。

レハブアムは高ぶってしまい、主の律法を捨て去ってしまいました。
王が悪くなると、それに続く民も王のすることを真似するようになります。
こうして全イスラエルも主の律法を軽んじるようになって行くのでした(2歴12:1)

私たちはこのような一連の流れを見るときに、ダビデの姿を真似る必要があります。
ダビデはとにかく主の御心を第一に求め、主の律法を絶えず愛していた器です。
ダビデはあらゆるときに主を褒め称えていました。
サウル王に追われて絶対絶命のときにも主の律法を愛し、主の御心を求めていました。
また、ダビデが王になり富と栄誉が神様から与えられ、繁栄しているときも主と御言葉を愛すること
を止めませんでした。


■A:考えてみよう
私たちの心に高ぶりが無いか、絶えず確認しましょう。


■P:祈り
主よ感謝します。
ときが良くても悪くても、常に主を求めることを選択することができますように。
私の心をお守りください。
イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン


7月26日(日)のつぶやき

2015年07月27日 01時44分25秒 | キリスト教