座間コミニティー

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◆わたしのところに来る者を、

2015年07月30日 17時16分01秒 | 聖書

わたしは決して捨てません。(ヨハネ六・三七)

この御約束には期限がない。単に「罪人が初めてわたしのところに来る時、これを捨てない」とあるのでなく、「決して捨てない」とある。このことばの原語は「わたしはしない、捨てはしない」、「わたしは決して捨てない」との意である。この聖句は、主が最初に信者を拒まれないことを意味し、最初にされないことを最後までなさらないことを言っている。
しかし、信者がキリストのみもとに来て後に罪を犯すならば、どうなるのか。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」信者の信仰が後退すればどうなるのか。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」信者は誘惑に陥るかもしれない。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
だが信者は、ダビデのように罪に陥るかもしれない。しかし主は、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」との祈りに答えてくださる。「わたしは……わたしにそむいたすべての咎を赦す。」
主は言われた。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」おお、震えるか弱き者たちよ。あなたはこのみことばに対して何と言うか。これは尊いあわれみではないか。キリストに来た者は、しばらくの間大切にされ、その後顧みられなくなるのではない。主はあなたを受け入れ、花嫁とされ、あなたは永遠に主のものとなる。では、もう恐れを抱く奴隷の霊ではなく、「アバ、父」と呼ぶ子としての霊を受けよ。おお、「決して捨てません」というみことばの中にある深き恵みよ。

 


「子よ。

2015年07月30日 17時15分09秒 | 聖書

あなたの罪は赦されました」(マルコ2:5)

ある父親が仕事だけに生きて来て、子供が警察沙汰を起こすという現実に直面した。
家庭を顧みず、子供に関わって来なかった自らの怠慢を、罪を、心から神の前に悔い改めた。
心砕かれ、くずおれた。
罪は決して甘いものではなかった。
辛い苦しい刈り取りをして行った。
仕事の上に、子供のための時間を取り、迷惑をかけた周囲への償い、できる限りの事をした。
もう精神的、時間的、体力、労力的に限界ぎりぎりだった。
数年間の苦しみは並大抵のものでなく、子供の回復をひたすら祈り続けた。
親自身が悲痛なまでの苦しみの中で変えられた。
今までの自己中心な歩みの間違いを正され、心砕かれ、神に従う事を導かれた。
主のあわれみは尽きず、祈りは聞かれ、数年後、子供は立ち直る事ができた。
その間、質的にも時間的にも子供と十分に関われ、心の通い合いが与えられた。
言い訳も弁解もできないが、主のあわれみにより、破壊的な事態が益とされた。
自らは裁かれて当然のひどい罪人だ、しかし、その裁きを、主は十字架上で代わりに受けて下さった。
罪は完璧に処分され、罪無しとして下さった。
罪が赦されたという事実が、苦しい刈り取りを成し遂げさせてくれた。
罪が赦されるとは、何という恵みであり、嬉しく有難い事だろう。
やり直せるのだから。
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順境のままにあれば自らの罪にも気づかず、また罪赦された事も覚えず人並みの信仰者のように生きているだろう。
神様の刈り取りは感謝だ。
辛くても御心の真ん中に方向変換させて下さるから。


今日の聖人の記念日

2015年07月30日 06時47分31秒 | キリスト教

聖ヨハネ・コルンビニ

1300年ごろ-1367年

 ヨハネ・コルンビニは、イタリアのシエナの貴族の家に生まれた。巨額の富を築いたが、貧しい人々を少しも心にかけなかった。ある日、妻が持っていた「エジプトの聖マリア」の伝記を読んで感銘を受け、今までの自分の態度を深く反省した。彼は、財産を貧しい人に与え、病人を世話し、泊まるところのない旅人に宿を提供するようになった。そしてついにはすべての財産を人々のために与えた。ヨハネの徳は広まり、多くの貴族が彼のもとに集まって指導を求めるようになったので、彼は共同生活を始め、修道会を創立した。会員はいつも人々を訪問するときに「イエス・キリストが賛美されますように!」と祈っており、その会は「イエズアト会」と呼ばれるようになった。

聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士

380年ごろ-451/485年

 聖ペトロ・クリソロゴ(金の言葉の意味)は、380年ごろ、イタリアのラヴェンナ(イモラ誕生ともいわれる)に生まれた。424年~431年の間にラベンナの司教に選ばれた。当時、この古い都は帝政時代の栄光期にあったが、その中で、ペトロ司教は牧者としての任務を忠実に果たし、また、優れた政治家でもあった。福音に基づいて生活へと導く彼の説教は有名で、その多くが今日まで伝わっている。そこには、同時代のアウグスチヌスのような雄弁も、レオ教皇のような神学もみられないが、彼の説得力と実生活に即した教えがあり、また飾り気がなく分かりやすい教えで、ラヴェンナの市民は高く評価していた。ペトロ司教は日ごろからこう言っていた。「民には民の言葉で話さなければならない。」

 ラヴェンナの年代史によると、ペトロ司教は451年から485年の間の7月31日に亡くなった。


◆自分の子をこらしめよ

2015年07月30日 06時46分26秒 | 聖書

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。
しかし、殺す気を起こしてはならない。(箴言一九18)

「殺す気を起こしてはならない」とは、とんでもないとお感じになるかもしれません。八つ当たり・憎しみ・やけっぱちなどのヒステリー的感情で子どもをこらしめるなといわれているのでしょう。
とにかく、「むちを控える者はその子を憎む者である」(箴言一三24)とも記されているように、子どもは、望みのある幼いうちにこらしめるべきだというのが、一貫した聖書の教えです。ところがこのごろは、子どもをこらしめられない親が、大部分なのではないでしょうか。ある女性が、しみじみとこう言われました。「私の娘は、離婚して帰ってきて、もう口もきかずにふさぎこんでいます。私が甘やかしたのが悪かったと、今になると分かるのです。」
どうして甘やかしてしまい、こらしめられないのかを考えてみました。
第一に、子どもに対する責任を自覚していないことです。神は、資格もない私たちを愛し生かし、親にしてくださいました。親として任命し、こんな資格もない者に、子どもを愛する愛を与えていてくださるのではありませんか。あなたほど、あなたの子どもを叱る責任を負わされている人は、ほかにはいないのです。
第二に、子どもの前でよく思われたいという助平根性があることです。だから、きらわれると思うと、こらしめることができません。
第三に、子どもじみた「かわいそう」という気持ちに押されていることです。そこには、猫かわいがりな自己中心の愛しかありません。手術をしなければ死ぬ時、かわいそうだからやめてと言うでしょうか。センチメンタルなことでは追いつかないのです。
第四に、根本的に何が価値あり、永遠のことかが分かっていないことです。神とか絶対とかが分からないのです。

 


◆それに思い当たったとき、

2015年07月30日 06時45分31秒 | 聖書

彼は泣き出した。(マルコ一四・七二)

ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。

 


第1歴代誌1章38-54節

2015年07月30日 06時43分47秒 | 聖書

1:51 そして、ハダデも死んだ。エドムから出た首長たちは、首長ティムナ、首長アルワ、首長エテテ、
1:52 首長オホリバマ、首長エラ、首長ピノン、
1:53 首長ケナズ、首長テマン、首長ミブツァル、
1:54 首長マグディエル、首長イラム。これらがエドムから出た首長である。



 アブラハムに、ハガルが産んだ子のイシュマエルは、後にアラブ人の先祖となりました。

また、イサクから生まれ、その家系から傍系として外されたエサウからは、エドム人が生まれました。

エドム人は、死海から南の方の地域一帯を支配した人々でありました。

後に、イスラエルの民との争いが絶えなかった人々です。

しかし、彼等も都市国家を形成して、地位を保っていきました。

ここでは、彼等の子孫の者たちの名前とともに、都市国家を形成した王たちや、首長たちの名前が告げられています。

彼等もそれぞれに土地や部族を与えられ、各地に繁栄を得て生活をしたということは、アブラハムを通して約束された神様の恵みの実現でありました。


歴代誌 第二 20章21節、22節(歴代誌 第二 19章)

2015年07月30日 06時40分46秒 | 聖書

★それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。


■O:今日のコラム
ここは、私にとって『賛美が、また、主にほめ歌を歌うことの力が、どれほど大きなことであるか』ということを、知ることの出来る、最も興奮するべき箇所の1つであります。

戦いの最前線に、屈強の戦士を行かせたのではなく、選ばれた賛美者たちが進み、主にある大勝利をおさめた、というとても有名なところです。

礼拝者が礼拝する所の天の窓は開かれ、天の軍勢はその『開かれた天』から、この地に送られて来ます。

天の軍勢が戦いに送りこまれ、霊的戦いの勝利がもたらされます。
そして、その霊的領域での勝利が、後に、この地上で目に見える形となって現れます。

賛美と礼拝は、霊的戦いの勝利の鍵です。

礼拝者が礼拝するところは、イコール、地上において圧倒的勝利がもたらされる場所であります。

17節で「この戦いはあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。」と主からの激励の言葉があったのち、19節「ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。」とあるように、彼らは「大声を張り上げて主を賛美しました。

また、22節でも「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき」とあります。
彼らの賛美は、力の限りであります。「大声を上げる」とは何百メートルも先にいる人にでも届くほどの声です。
果たして私たちの賛美はどうでしょうか?
もちろん教会によっても賛美のスタイルは違いますし、大声を出すのは、不適切な礼拝もあるかも知れません。大声を出せばいいってものでもないかも知れません。
しかしながら私たちの賛美は、このように力の限り捧げる賛美でしょうか?心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛する賛美でしょうか?

主は昨日も今日も、とこしえに変わらないお方です。
その偉大さと麗しさ、私たちの「力の限り捧げる賛美」に値する主のご性質はとこしえに変わりません。

それが例え何千回と歌ったことのある歌であったとしても、毎週のように歌われている賛美であったとしても、とこしえに変わらない主の偉大さを、力の限りたたえましょう。
日ごとに新しい主の恵みを感謝し、ほめたたえましょう。

出し惜しみはやめましょう。適当に捧げるのをやめましょう。
主に対しての正しい恐れを持ち、真心からの賛美を、力の限りの賛美をいつも捧げましょう。

賛美は、敵に対しての最大の攻撃であり、私たちには主にある喜びを与えます。いいことづくしです!

私たちの賛美が、いつも、この章に出てくる「賛美をする者」たちのように力の限り捧げられる賛美でありますように。

「それから、ユダとエルサレムの人々はひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。」(第2歴代誌20:27)


■A:考えてみよう
自分の賛美は力の限りだろうか?
真心だろうか?


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月29日(水)のつぶやき

2015年07月30日 01時43分24秒 | キリスト教