座間コミニティー

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◆もし耐え忍んでいるなら、

2015年07月03日 17時25分17秒 | 聖書

彼とともに治めるようになる。(Ⅱテモテ二・一二)

私たちがキリストの中にいないならば、自分の苦しみがキリストのためであり、キリストとともに苦しんでいると考えてはならない。愛する友よ。あなたはイエスだけを信頼しているか。そうでないならば、この地上でどれほど嘆き悲しまなければならないとしても、あなたは「キリストとともに耐え忍んで」いるのでなく、天においても主とともに支配する希望はない。
私たちは、クリスチャンのすべての苦しみが、キリストとともなる苦しみであると結論すべきではない。最も大切なことは、私たちが神によって苦難に召されているかどうかというところにあるからである。
もし私たちが無分別によって摂理も恵みも及ばないような窮地に陥るならば、自分がイエスと交わりをもっているかということより、自分が罪を犯しているのではないかと反省しなければならない。判断力を用いずに感情に走り、聖書の権威によらず、自我の支配にゆだねるならば、主の戦いを悪魔の武器によって戦うわけだから、自分の指を切ったとしても驚くにはあたらない。さらに、私たちが罪の結果苦しみを招いたとしても、キリストとともに耐え忍んでいると夢見てはならない。神が喜んで受け入れてくださる苦しみは、神の栄光そのものを目的としているものである。
さらに必要なことは、イエスに対する愛、およびイエスに選ばれた人々に対する愛が、常に私たちの忍耐の原動力とならなければならないということである。私たちは、柔和、温順、また人を赦すことにおいて、キリストの霊を現さなければならない。
私たちが真にイエスとともに耐え忍んでいるかどうか、自分の心をさぐってみよう。そして、真にイエスとともに耐え忍んでいるならば、私たちの「軽い患難」は、主とともに支配者になることに比べて何であろう。おお、キリストとともに炉に投ぜられ、さらし台に立つことは、たぐいない名誉である。私たちは期待より無限にまさる永遠の報酬をもつ。それなら喜びつつ十字架をとって進むべきではないか。

 


第2列王記21章10-15節

2015年07月03日 17時24分12秒 | 聖書

21:13 「わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。 21:14 わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。」



 サマリヤは、偶像礼拝によって主の怒りを買い、その結果、アッシリヤの国に滅ぼされてしまった国でした。


このユダの国王マナセも、北のサマリヤと同じように偶像礼拝を行い、主が拒まれることを無視して、違反の行動を積極的にとってきました。

彼は歴史にも学ぶことをしなかったのです。

そこには、彼自身の政治的な意味での思惑があったことでしょう。

しかし、神の民の王として求められていることは、主の言葉に聞くということであり、またそのみ言葉を通して語られている主の御心に従うということでした。

王にとっても、主と主の心から離れては、どこにも幸いはないからです。


「そのために私は、高ぶることのないようにと、

2015年07月03日 17時21分25秒 | 聖書

肉体に一つのとげを与えられました」(Ⅱコリント12:7)

パウロは肉体に病、障がいを負っていた。
とげが与えられていて、辛く苦しいものであった。
それが取り去られるように真剣に祈った。
これさえ無ければ、もっと主のためにスムーズに働けるのにと。
しかし、主の答えは「ノー」だった。取り去らないと。
それがある方が、もっと神の栄光が現われると。
パウロは驚くべき奇跡を行った。病気を癒し、悪霊を追い出し、ユテコという青年を生き返らせた。
人を癒したのに、自分の病は癒されなかった。
しかし、パウロはそれを主の御心と受け入れた。
そして結果的に、取り除かれるより遙かに大きな祝福と恵みに浴した。
その弱さの内にこそ、神の力が完全に現わされ、キリストの力におおわれ、神の臨在という恵みにあずかった。
私達も苦しみや悩みを受ける。理不尽な事態もやって来る。
私達にも「とげ」は、形はそれぞれ違うが存在する。
そのとげがあるからこそ神の力を経験する。
そして、そのとげによりパウロは高慢にならないよう守られた。
高慢になれば主の働きが出来なくなるからだ。
パウロほどの人物だ。高慢の誘惑は人一倍大きかったろう。
第三の天まで見たのだ。私達も高慢は心の奥からムクムクと湧き上がり、自分でどうにもできない。
とげによって高慢から守られる。与えられた「とげ」を受け入れよう。
そのとげはあなたを高慢から守ってくれる。
高慢から守られるとは、何という測り知れない恵みだろう。
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自分でへりくだってもそれも高慢であり、自分でどうにもできない。
神にしかできない。だからとげを与えて下さっている。
高慢の恐ろしさを思う時、とげが感謝に変わる。恵みに変わる。


今日の聖人の記念日

2015年07月03日 08時16分16秒 | キリスト教

聖トマ使徒

1世紀

 イエスの弟子であるトマは、「ディディモ」(双子の意)とも呼ばれている。トマは、イエスが復活して現われたと聞いたとき、イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じないと言った。そのため、「疑い深いトマ」として知られている。しかし、イエスが再び使徒たちに現われて彼もそこに居合わせたとき、「わたしの主よ、わたしの神よ」と自らの疑い深さに気づき、イエスからも「見ないで信じる者は幸いである」と諭された。
 その後、トマはインドに宣教に行き、マイラポールで殉教したと伝えられている。インドの信者たちは自分たちを「聖トマのキリスト信者」と呼ぶことが多いそうである。


◆愛を追い求める者

2015年07月03日 08時15分10秒 | 聖書

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。
同じことをくり返して言う者は、
親しい友を離れさせる。       (箴言一七9)

私が米国の神学校で学んでいた時に聞いた、ある教授の告白を忘れることができません。その教授は七十歳に近い白髪の方でした。彼がまだ若い駆け出しの大学教師のころ、その大学に、一人の年とった牧師が来て全学の学生の前で話しました。愛に満ちた真実みのある彼の話に、学生たちは大きな感銘を受けました。でも、教養のないこの老牧師は、ところどころで、学問的に間違ったことを言ったのです。若い大学教師は、学生の前でこの老牧師の無教養をあばいて、老牧師を笑いものにしました。ところが家に帰ってから、良心のとがめを感じました。自分の心が何とみにくいごうまんなものかが分かったのです。彼は大決心をして、心からのおわびの手紙をこの老牧師に書きました。すると、しばらくして、返事が来ました。今も、それを宝物のように持っているとのことでした。
 Dear Charles,
 Forgiven forgotten forever.
  Your loving friend, James.
と、たった三行でした。しかしそこには、ほんとうの愛がありました。ほんとうの愛は、背きの罪をおおいます。それは、ゆるす愛ともいえます。素直に忘れて何も言わない愛なのです。
イエスの目には、私たちの偽りやけがれや背きなどの罪は、もう一目瞭然でしょう。しかしイエス・キリストは、何一つ責めず恥をかかせず、その十字架の血潮で、だまって私たちの罪を全部おおってくださいました。その愛によって私も生かされました。あなたも生かされるのです。
自分のことは棚にあげながら、人の欠点や失敗や罪をくどくどと何回も言う人は、愛がありません。そのため、妻や子どもや兄弟姉妹を含めて、親しい友人を失うことになります。

 


◆パロは夢を見た。……

2015年07月03日 08時14分24秒 | 聖書

醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。(創世四一・一、四)

パロの夢は、私が目覚めている時にしばしば経験したことであった。私の怠慢の日々は、私が熱情を傾けて努力し達成したすべてのものを無残に破壊し、冷淡の時は、私のすべての熱心を凍らせ、時々の俗悪な思いは、聖い生活に進んでいた私を押し戻してしまった。私はやせた祈り、やせた賛美、やせた働き、やせた行いを警戒しなければならない。なぜならこれらのものは、私の慰めと平安の脂肪を食い尽くすからである。
たとえ片時たりとも祈りを怠るならば、私はこれまでに達成した霊性の一切を失う。もし天より新しい賜物を求めないならば、私の倉にある古い穀物は、私のたましいの怒り狂う飢きんによって、たちまち失われる。無関心のいも虫と世俗のしゃくとり虫と放縦の毛虫が、私の心をくまなく食い荒らして私のたましいを衰えさせる時、どれほど恵みに成長し多くの実を結んでいても無益である。やせた日と不快な時をもつことのないようにしなければならない。もし望むゴールを目ざして日々旅を続けるならば、私はすぐにそこへ着く。しかし後退するならば、私の尊い召しの報酬からはさらに遠ざかることになり、これまで苦心を重ねて成し遂げた進歩もたちまち奪い去られてしまう。
私たちの日々を肥えた雌牛とする唯一の道は、主の牧場で草を食み、日々を主とともに、奉仕に、交わりに、主を恐れつつ主の道に過ごすことである。どうして私たちの一年一年が、愛において、役立つことにおいて、喜びにおいて、過ぎた年にまさるものとならないでよいだろうか。私は天国の丘に近づきつつあり、主をより多く経験している。そして私はさらに、これまで以上に主に似た者とならなければならない。
主よ。私を守って、たましいのやせ衰えた者としないでください。私が「忌まわしいものだ。私はやせた。私はやせた」と叫ぶことのないようにしてください。否、私があなたの家にあって肥え太り、あなたの御名をほめまつることができるようにしてください。

 


第2列王記21章1-9節

2015年07月03日 08時12分30秒 | 聖書

21:5 こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。
21:6 また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。



ヒゼキヤに告げた主の裁きの現実は、すぐに現れて参りました。

彼の後を継いだマナセ王の行いに現れていました。

父親が信仰の深い人であったにもかかわらず、その息子の彼は、まことにひどい偶像礼拝者であって、バアル礼拝を復興させ、アシュラの像を宮に安置し、自分の子供を火にくぐらせるということまでもしました。

その心は全く主から離れ、偶像に結びついてしまったのです。

これは彼自身の責任です。

しかし、彼がそのようになってしまったということには、父親が彼を教えようとはせず、また彼も父親の姿勢を見ていなかったという現実によって起こされたものであることを見るのです。

人は悪へとすぐに転化してしまうものです。

ですから、いつも主を愛することを教え、教えられる必要があるのです。


ガラテヤ人への手紙3章11節(歴代誌第一 2章)

2015年07月03日 08時10分06秒 | 聖書

★ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。

■O:今日のコラム
この「義人は信仰によって生きる。」は、ローマ人への手紙1章17節でも語られていて、もともとは旧約のハバクク書2:4の『見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』から引用されています。

この「信仰」の語源はヘブル語で「エムナ」であり、「信じる」または「信頼する」と言う意味を持つことを、先日、メッセージを通して知ることが出来ました。

『義人は信仰によって生きる』とは、つまり「主の御前に正しいとされる者は、神に信頼することによって生きる」とも言うことが出来ます。

神に信頼すること。
私たちが誰かを信用する時、信頼する時、その人がどんな人かを知らなければ、信頼することは出来ません。
他の人から、その方がどれほどに信頼するに価するかを聞いたり、信頼した結果、信じた通りになった、という実績を聞いたら、信頼することも出来るでしょう。
しかしながら、1番の信頼はその人との関係の中で築き上げられていくのではないでしょうか。

私たちは、神の家族の証しを聞きます。それによって、主がどれほどに信頼に価する方を知ることが出来ます。けれども、神様との直接の関係の中で、主がどれほどに信頼に価するお方であるかを、自らが体験し、知り悟ることほど強いものはありません。

一流のシェフの作った料理を、「お腹を壊したりしないか…」と臭いを嗅いだり、怪しみながら食べること
はしません。シェフの腕を信頼しているからです。

美容院で、ハサミを入れる度に、「そこを切るのは大丈夫ですか?」と、美容師にいちいち尋ねることはしません。美容師に信頼し、任せているからです。

私たちには全能の神、天の父がおられます。それであるなら、何を恐れてこの人生を歩む必要があるでしょうか。
私たちが恐れるは主お一人です。

私たちは、もっと天のお父さんを信頼して生きることが出来ます。
私たちは神の子どもです。

マタイ7:11で主が言われたように、
「どうして、天の父が下さらないわけがあるだろうか?」という絶大な信頼と安心感を私たちはもっと持とうではありませんか。

赤ちゃんを見ると可愛くて心が溶けます。幼い子どもが泣いていても、ついつい泣き顔が可愛くて笑ってしまうことはないでしょうか?

それが天のお父様の私たちを見る目です。天のお父さんは、そのように私たちを見ておられます。
何をしていても、愛おしい。頑張る姿は、たとえ失敗していたとしても、主の目には、愛おしく映っているのです。

なかなか、天の父との距離が縮まらない。
天の父が遠い存在、と感じるのであれば、是非祈りの中で、自分の1番呼びやすい呼び名「天のお父さん」「父よ」「パパ」「アバ」などで、親しみを込めて呼び続けてみて下さい。

主は求めない者には押しつけません。
求める者に、天の父は応えて下さいます。とてもシンプルな原則です。

神の子としての自覚を得るために、是非天のお父さんとの関係を、祈りの中で深めていきましょう。


■A:考えてみよう
主以外に、自分が恐れているものはあるだろうか。自分にとって天の父はどのようなお方だろうか。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月2日(木)のつぶやき

2015年07月03日 01時43分16秒 | キリスト教

◆まことに私たちの心は主を喜ぶ。 goo.gl/xEVc9J


「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。 goo.gl/7vkZkg


◆主よ。私はあなたに呼ばわります。 goo.gl/1iX3BR