座間コミニティー

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◆わたしがあなたのそばを通りかかったとき……「生きよ。」と言った。

2015年07月07日 17時03分50秒 | 聖書

  (エゼキエル一六・六)

この神のご命令の荘厳さに注意せよ。冒頭の聖句において、私たちは罪のほか何ももたず、神の怒り以外の何ものも期待できない一人の罪人を見る。しかし、永遠の王は栄光のうちにそのそばを通り過ぎ、罪人を見て、立ち止まり、そして簡潔であるが威厳に満ちた「生きよ」とのみことばを口にされる。そこにおいて神が語られるのである。神だけがこのようにいのちを扱い、また、ただ一言でいのちを与えられる。
また、このご命令の意味は広い。「生きよ」と言われた時、そのみことばは多くのことを含む。これは、司法上のいのちの意味ももつ。罪人は罪を宣告されようとしている。しかし大能者はお告げになる。「生きよ」と。そして罪人は赦されて立ち上がるのである。
それは霊的ないのちである。私たちはイエスを知らなかった。私たちの目はキリストを見ることができず、耳はその御声を聞くことができなかった。主は言われた。「生きよ」と。それによって、咎と罪の中に死んでいた私たちが生かされた。
さらに、それは栄光のいのちを含む。それは霊的ないのちの完成である。「わたしはあなたに『生きよ。』と言った。」この一言は将来に伝えられ、臨終の時にまで及び、死の陰の谷にある時にもなおこの御声が聞こえる。復活の朝、天使の長が繰り返すのも、この同じ「生きよ」との御声である。そして聖なるたましいが神の栄光のうちに、永遠の祝福を受けるために天に上る時も、「生きよ」というみことばの力による。
さらに、これは拒むことのできないご命令である。タルソのサウロは、生ける神の聖徒たちを捕えるため、ダマスコへの途上にあった。すると突然天から声があり、太陽にまさる光が輝いた。これは、自由な恵みのご命令であった。罪人は、お金ではなく、ただ神の自由な恵みによって救われる。
クリスチャンよ。恵みの債務者であるあなたの地位を考えよ。神はあなたに「生きよ」とお命じになっているのだから、真剣に生きるように努めよ。

 


「主は与え、主は取られる。

2015年07月07日 17時02分55秒 | 聖書

主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

サタンはヨブを攻撃した。しかし、それは、神の許容範囲内であった。
神がサタンに命じられた。
「持ち物は許可する。しかし、身体は許さない」
次には「身体までは良い。しかし、命には触れるな」
神の定めた限界内でしかサタンも働けない。
サタンがどう攻撃して来ようと、最終的権限を握っておられるのは神だ。
つまり目の前に起こる一つ一つの事が神から来ている。
偶然や不運ではない。
人があなたを批判し、敵対しているかも知れない。
目に見える状況に反応すると相手への憎しみ、敵対心が湧き上がる。
不満と反発心で一杯になる。しかし、それなら的はずれだ。
人しか見えていない。その背後におられるのは神だ。
そうであれば対応が違ってくるはずだ。
サタンは私達に攻撃して来る。
しかし、主権者であられる神は、サタンすら私達の益のために、成長のために利用される。
すべての最終的主権は神にある。
だからヨブは主が与え、取られたと告白した。
それを認める事、受け入れる事が信仰だ。
ヨブは、それらに神の主権を認め、ひれ伏し、礼拝した。
主を賛美し、御名を崇めた。
どんな状況でも主の御名を崇めて行く事、これは感情でなく、信仰だ。
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感情はすべてを持って反対を向いていても、痛みの中で、神に信仰を向けて行く時、不思議な御霊の領域がある。
厳しい状況のまっただ中で心に主の全き平安を経験する。


今日の聖人の記念日

2015年07月07日 07時08分11秒 | キリスト教

聖キュリロス/聖メトディオス

827年ごろ-869年/815年ごろ-885年

 両聖人は兄弟であり、東ローマ帝国の官吏の息子としてギリシャのテサロニケ(現サロニカ)に生まれた。
 当時、ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えていた。2人はスラブ人の文化に触れ、それを身につけ、のちに首都コンスタンチノープルにも遊学した。キュリロスは哲学、神学に優れ、宮廷付司祭となった。メトディオスは、官職についたが、のちに修道院に入った。

 862年、東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣した。2人は流暢なスラブ語で説教をし、文字も書物もなかったこの地にスラブ語の文字を新たに作り、聖書をスラブ語に翻訳するなど、宣教活動によって改革していった。こうしてスラブ族の大半は、キリスト教徒になった。

 2人はローマに招かれ、教皇から祝福を受けたが、キュリロスはとつぜん大病にかかり、42歳で亡くなった。その後、メトディオスはモラヴィアに戻り、宣教活動を続けるが、東フランクの聖職者の反感を買い、投獄された。しかし教皇の尽力によって873年に釈放され、その後も、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注いだ。兄弟は「スラブ族の使徒」と呼ばれている。


友はどんな時にも愛するを入力してください

2015年07月07日 07時06分21秒 | 聖書

友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言一七17)

「落ちぶれて、袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるる」、この古い歌のように、今も、しみじみとそんな経験を私もしましたという人も、多いのではないでしょうか。
ある方から聞きました。落ちぶれて死んだ夫の死の床に駆けつけた男の、ただだまってぽろぽろと涙をこぼしていた労働者のままの姿に、何よりも慰められたといいます。
私の妻の友人がこんな話をしました。「私の主人の父は、子どもたちに財産を分けて、もうたったひとりになって動けなくなると、そのだれひとりも寄りつかないのです。」スポルジョンはこう言いました。「友情、その美しさをだれもがたたえる。しかし世の友情は散りゆく枯葉、消えゆく水泡。花に群れる蜂も、花が終われば寄りつかないのに似て、夢のようだ。」
・ 無条件の愛。
人にきらわれ相手にされない時も、落ちぶれて助けの必要な時も、死の床にうめく時も変わりません。
・ 実際的な愛。
口だけの愛ではなく、時間をかけて、与えられるものは与えつくしていきます。
・ 純粋な愛。
いつまでも忍耐し、最善なものを与える賢い愛です。期待し、信頼を持ち続けます。
どこに、このような愛を持つそんな友や兄弟がいるのでしょうか。ヨハネは、イエス・キリストの中に「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と言い、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(三16)と言いました。キリストこそ、真のあなたの友、あなたの兄弟です。

 


◆兄弟たち。

2015年07月07日 07時05分30秒 | 聖書

私たちのためにも祈ってください。(Ⅰテサロニケ五・二五)

一年のうちこの朝だけは教役者のための祈りについて考え、この問題についての読者の認識を新たにしていただきたい。そして私たちは、すべてのクリスチャンの家庭に対して、最初に使徒たちによって言われ、今私たちによって繰り返されているこの聖句の熱心な訴えに、耳を傾けてほしいと懇願するのである。
兄弟たちよ。私たちの働きはこの上なく重要であり、幾千という人々の幸福と災いがこれにかかっている。私たちの語ることばは、いのちに至るいのちの香りとなるか、死に至る死の香りとなるかのどちらかである。私たちに課せられた責任は重大である。キリストの軍隊の将校として、私たちは人と悪魔の憎しみの特別の目標となる。彼らは私たちのすきをねらい、弱点を押さえようと努めている。聖職者としての召命は、あなたがたのさらされていない誘惑をも受ける。とりわけそれは、私たちが個人的に真理を楽しむことをしばしば妨げ、教役者としての立場からそれを考えるように仕向ける。私たちは、多くの困難な問題に直面して万策尽きることがある。あわれな信仰の後退者を見て心を痛め、数えきれない人々の滅びるのを見て意気消沈しがちである。私たちは説教によってあなたがたに益を与えることを願い、あなたがたの子どもたちの祝福となることを望み、聖徒にも罪人にも役立つことを求めている。
愛する友よ。私たちのためにとりなしの祈りをしてほしい。あなたがたの祈りの助けを失うならば、私たちはまことに悲惨である。しかし、あなたがたの祈りによって支えられるならば、私たちは幸福である。あなたがたは霊的祝福を受けるために、私たちを見ないで主に目を注ぐ。しかし、その祝福が神の教役者を通して与えられたことがどれほど多かったことか。
それゆえ、繰り返して、私たちが主によって福音の宝を盛られる土の器となることを祈ってほしい。宣教師、牧師、伝道者および神学生のすべてを代表し、イエスの御名によって懇願する。「兄弟たち。私たちのためにも祈ってほしい」と。

 


第2列王記22章3-7節

2015年07月07日 07時03分39秒 | 聖書

22:4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、主の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、
22:5 それを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しなさい。それを主の宮で工事している者たちに渡し、宮の破損の修理をさせなさい。
22:6 木工、建築師、石工に渡し、また宮の修理のための木材や切り石を買わせなさい。」




 ヨシヤは主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩みました。

ダビデは、神の宮を自分で建てることを望んだ人でした。

しかしその建築は、主の御心によって、息子のソロモンに委ねられました。

そこで、ダビデが行ったことは、主の宮を建てるために必要な資材を調達し、準備することでした。

彼はソロモンが宮を建てるために不自由がないよう、配慮をしたのでした。

彼は主の宮を自分で建てられなくても、そのために準備をしたということの内に、主に対する愛の心を見るのです。

主の宮が傷んだ時、ヨシヤは、その宮の修復を深く願いました。

主への愛が、ここにあるのです。


ヨハネの手紙第二5~7節

2015年07月07日 07時00分52秒 | 聖書

★そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。 

■O:今日のコラム
この御言葉は終わりの時代の聖徒のために書かれています。なぜならこれは、反キリストが出てきて、人々が惑わされるときの話だからです。終わりの時代には、選民さえも惑わそうと反キリストの霊が働きます。
 これに対する対抗策が「互いに愛し合うこと」です。何が私たちを愛し合う者にさせるのでしょう?それが1~2節に書かれています。
『長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。』(2ヨハネ1:1~2)
 真理が私たちのうちに宿る(原語では、とどまるという意味も)ことによって、私達は兄弟を愛するようになります。真理が私たちを回復させ、成長させていきます。真理の御言葉と真理の御霊です。これが豊かに私たちのうちにとどまりますように!愛し合う者として回復したいですか?ならば祈り、御言葉を読むというライフスタイルは、私たちにとって無くてはならないものです。
 互いに愛し合うとは、相手を楽にさせる、気分良くさせるということを超えて、神の回復がその人に与えられること、神の計画の道をその人が前進することだからです。
そして神の平安の中にとどまりたいですか?この世に無い平安を、主は与えてくださいます。何にも代えることのできない平安です。それは、父の愛の中にとどまる事と共に、真理にとどまることの中にあります。
『真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。』(2ヨハネ1:3)
ここに父[の愛]、子[真理の御言葉]、御霊[真理の御霊])がそろっている事になります。神はすべてをかけて私たちを回復させてくださいます。
 真理が私たちに宿る、とどまるとは、「それを知っている」という事ではありません。「それが私の生き方」という事です。その中に平安があります。決して自分勝手な妄想による安心ではありません。何ものをもってしても揺るがす事のできない平安が、神の平安です。

■A:考えてみよう
御言葉と御霊に聞き従って、兄弟を愛する。


7月6日(月)のつぶやき

2015年07月07日 01時42分41秒 | キリスト教