座間コミニティー

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◆いつまでも主に信頼せよ。

2015年07月05日 16時54分07秒 | 聖書

ヤハ、主は、とこしえの岩だから。(イザヤ二六・四)

私たちは、信頼すべきこのような神をもっているゆえに、すべてを任せよう。すべての不信仰を決然と追い出し、私たちの慰めをだいなしにする疑いと恐れを取り除くように努力しよう。神が私たちの信頼の基礎であられる以上、恐れを許容する口実はないからだ。
慈愛に富む両親は、その子どもが信頼しないならば非常に悲しむ。私たちが、これまで決して私たちを見捨てず、これからも決して見捨てられない天の父に、ほとんど信頼を置いていないことは、どれほど卑劣で不誠実なことだろう。神の家族の中から疑いが追放されるならば、それは実によいことである。しかし、詩篇記者が「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか」と尋ねた時と同様に、現在においても不信仰が活発に働いているとは恐るべきことである。
ダビデは、巨人ゴリヤテの大いなる剣を久しく使っていなかった。にもかかわらず、「それは何よりです」と言った。彼は若いころ、戦いに勝った時にそれを一度試みただけだった。そしてその剣が良いはがねであることを知った。その後もそれをほめ続けた。
私たちが、私たちの神について語る時にも、そのようでなければならない。天上でも地上でも、主と比べ得るものはない。ヤコブの岩のような岩はほかにない。私たちの敵はそのことを知っている。私たちは、心の中に疑いが巣くうことを許すことなく、エリヤがバアルの預言者たちにしたように、すべての忌まわしい仲間を川のほとりに伴って殺すであろう。私たちは彼らを殺す場所として、救い主の傷ついた脇からほとばしり出た聖き流れを選ぶ。
私たちはこれまで多くの試練に会った。しかし私たちの神の中に、必要とするすべてを見いだせないところに投げ出されたことは、一度もない。だから勇気を出そう。永遠に主に信頼し、主の不朽の御力がこれから後も私たちの助けであり、支えであることを確信しようではないか。

 


「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

2015年07月05日 16時53分19秒 | 聖書

(マタイ19:19)

全世界を愛するのは簡単だ。
抽象的、観念的な頭の中だけの愛だ。
結局は愛してなどいない。
全人類は愛せるが、目の前の人を愛することができない。
愛したくない自分に出会う。
どれだけ頑張っても愛せない。
強烈な自我に阻まれる。まずその事を神の御前に認めることだ。
ある人が、職場に、どうしても嫌いな相手がいた。
心は悶々と苦しい。
職場を辞めようかと思うが、逃げても次の職場に、必ず別の「あいつ」がいる。
逃げる事はすまいと思った。しかし、「愛せるように」と幾ら祈っても聞かれない。
ある時、祈っていて自分の本音に気づいた。
「愛したくありません。嫌です」と正直に自らの本音を告白した。
その時から、祈りが聞かれた。自分が変えられて行った。
祈りつつ御霊に示されるよう行動し接して行った。
愛するとは、感情でなく、信仰による行動だと学んで行った。
すると、不思議に感情も変えられて行き、相手が嫌でなくなった。
愛する事は幾ら頭の中で考えていてもわからない。
どうにもならない。御言葉に従い、実際に行動する時、わかってくる。
愛するとは、感情を横において、信仰により行動して行く事だ。
神はそれを、愛したとみて下さる。
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ペテロは感情に関わらず、主のお言葉ゆえに網を下ろした。
感情と思いは反対向いていたかも知れない。
でも、主に従い行動した。
ペテロは変えられた。
愛することは、感情でなく信仰による行動だ。


「主を待ち望め。

2015年07月05日 16時51分44秒 | 聖書

その道を守れ」(詩篇37:34)

待つことほど難しい事はないが、しかし、主を待ち、主の時を待つことは真に大切だ。
なぜなら、主を待たずに肉で動くとイシマエルを生み出してしまうからだ。
肉はどうしても動こうとする。
待つ事は難しく動く事は簡単だからだ。
自分で目の前の問題をどうにかしようとする。
アブラハムは待てずに、大失敗をした。
神から約束を受けながら、状況は何一つ動かない。
そこでサラの申し出を聞き入れ、ハガルによりイシマエルをもうけた。
その蒔いた種で、現在まで悲惨な争いが続いている。
自分で動くならイシマエルを生み出し、苦しい重大な刈り取りをする事になる。
サウルも、サムエルが来るのを待てずに、全焼のいけにえを自分で献げてしまった。
このためにサウルは王位を失った。
主を待つのは、主ご自身が動かれる「時」があるからだ。
「神の時」があり、主がその事態に介入される「時」がある。
主ご自身が成就される。
私達は自分で動かず、その時を待つことが大切だ。
今、大きな悩み、苦しみの中にいるだろうか。
自分で立って動き回るのではなく、静まって主を待とう。
自分の思いを置いて、主が動き、介入される時までじっと待とう。
今のあなたに必要な事は、主を信頼し、「待つ」ことではないだろうか。
主を待ち望め。ひたすらその道を守れ。
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主を待つことは、主を信頼することだ。
待つことで、主への信頼をお献げする事ができる。
待つ時間に信仰が練られ鍛えられ成長させられる。
主は信頼する者に決して恥を見させられない。


今日の聖人の記念日

2015年07月05日 16時50分20秒 | キリスト教

聖アントニオ・マリア・ザカリア司祭

1502年-1539年

 アントニオは、イタリアのクレモナで生まれた。パドバの大学で医学を学び、医師となった彼は、肉体的な病ばかりでなく、司祭となって精神的に苦しむ人々をも導き助けたいと思った。司祭になってからのアントニオは人々の救いのために働き、1530年、同じ志をもった数人の司祭とともに、使徒パウロを模範とする修道会「聖パウロの律修聖職者会」を創立した。この会は、活動の拠点となった聖バルナバ教会にちなんで「バルナバ修道会」と呼ばれ、人々の魂の救済に力を尽くした。

   神の命令は難しく、骨が折れるように見えるが、愛があれば容易になる。
   道はけわしく、進んで行く気力がないときでも、勇気をふるって進むとき、
   栄光に達することができる     (聖アントニオ)


◆初 動 が 大 切

2015年07月05日 16時49分20秒 | 聖書

争いの初めは水が吹き出すようなものだ。
争いが起こらないうちに争いをやめよ。(箴言一七14)

堤防のすきまの一点からちょろちょろ水が流れ出していたのが、やがて大きく破れ、どっとあふれる場景が目に映るようです。
ある夫婦は、夫が妻の親戚の悪口をひとこと言ったのがもとで大げんかとなり、それがたび重なって、とうとう離婚をしました。あるグループは、講演会の席に造花を飾るか生け花にするかで争い、ついに真っ二つに割れました。争いの初めは小さくても、その結末は大きな破滅です。
「人生、神に背き、神に敵対していると大変です」とお話ししたら、「先生、わしゃ大丈夫。神に敵対なんかしちゃいません。『触らぬ神にたたりなし』で祭りあげていますよ」と答えた中年の男性の方がいました。多くの人は、神に背いたりなどしていないと考えているかもしれません。放蕩も強盗殺人も詐欺もせず、人さまに迷惑をかけずに生きている。――そのとおりでしょう。しかし、神をそっちのけにし、自分の欲望のままに生き、おれがおれがとエゴのために生きて、神は祭りあげています。それが神との争いの初めであり、ちょろちょろと、すでに水は吹き出しています。やがて、堤防が決壊するのです。水がもれていることを早く認めて、手当てしなければなりません。
今は亡き升崎外彦先生から、こんなお話をお聞きしました。彼の教会に出入りしていた、みんなからばかにされていた男が、漁師の手伝いに雇われて漁に出かけました。船は大しけに会い、全速力で港に帰ってきました。ところが、その男一人が見当たりません。よく捜してみたら、何と船底で、その男は死んでいたのです。そして、腕一本全部を船底に開いた穴に突っこんで、水を防いでいました。
キリスト・イエスの十字架こそ、神のさばきをふさいでくださる神の愛の腕だったのです。

 


◆召された聖徒たちへ。

2015年07月05日 16時48分36秒 | 聖書

(ローマ一・七)

私たちは、使徒時代の聖徒が、他の神の子たちと異なる特別な「聖徒」であるかのように考えやすい。しかし神が恵みをもって召し、御霊をもってきよめられた者はすべて「聖徒」である。私たちはともすると、使徒たちが特別な人であったように思い、自分のように弱さをもち、誘惑に陥りやすかったとは考えない。
なおそれに加えて、次の真理も忘れている。すなわち、人が神に近く生きれば生きるほど、自分の心の邪悪さを痛切に嘆くようになり、彼が主に対してなす奉仕に主が誉れを与えられれば与えられるほど、肉の欲が夜昼彼を責めさいなむということである。
もし私たちがパウロに会うならば、彼が他の聖徒たちと非常によく似ていることを知るだろう。彼と語ったとすれば、私たちは「彼の経験は私たちと少しも異なっていない。彼は私たちより忠実であり、さらに聖潔であり、さらに深く学んでいる。しかし私たちと全く同様の試練を受けている。否、ある点では、むしろ彼のほうが激しく試みられている」と言うであろう。
それゆえ、昔の聖徒が弱さや罪から除外されていたと思ってはならない。昔の聖徒に神秘的な尊敬を払うことにより、偶像礼拝者になってはならない。彼らの聖潔は私たちにも到達できるものである。彼らが尊い召しを受けたその同じ声により、私たちも聖徒として召された。聖徒たちの真髄に達することは、クリスチャンの義務である。そうして、もしこれらの聖徒がその到達点において私たちよりすぐれているなら――たしかに彼らはすぐれているが――彼らに追いつこう。彼らの熱情、聖潔に劣らないよう努力しよう。彼らの受けたその同じ光をもつ私たちは、彼らと同じ恵みに近づくことができるのである。
天的な品性において彼らに匹敵するまで、どうして安んじてよいだろう。彼らはイエスと共に生き、イエスのために生きたゆえ、イエスのように成長した。
私たちも彼らと同じ御霊によって生き、「イエスから目を離さない」ようにしよう。そうすれば私たちが聖徒であることも、まもなく明らかになる。

 


第2列王記21章19-26節

2015年07月05日 16時46分24秒 | 聖書

21:21 彼は、父の歩んだすべての道に歩み、父が仕えた偶像に仕え、それらを拝み、
21:22 彼の父祖の神、主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかった。
21:23 アモンの家来たちは彼に謀反を起こし、その宮殿の中でこの王を殺した。



 マナセは悪しき王でした。

しかし彼は、55年間にわたってユダの王でした。

その長い期間の間に、多くの悪しきことを行いました。

その彼が死んだ後、アモンが22才で王となりました。

彼は、先代の王に習って、主の目の前に悪を行った人物であったと語られています。

なかなか人は良き歩みを学ぶことをしませんが、悪いことはすぐ身についてしまうのが、人の現実です。

こうした生き方をアモンも持ってしまったのです。

その結果、彼は先代の王のように、長い間王として君臨することは出来ませんでした。

彼は2年間、王としての地位を保ったのみでした。

その地位は、彼の家来達によって、宮の中で殺害されることによって、奪われてしまいました。

支配の期間の長短は、事の判断に関係はなかったのです。


ガラテヤ5章16-17節(1歴代誌5,6章)

2015年07月05日 16時42分36秒 | 聖書

★…御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

■O: 今日のコラム
「自分のしたいと思うことをすることができないのです。」
「自分のしたいこと」、とはなんでしょうか?
肉には肉のしたいことがあり、御霊には御霊のしたいことがあります。
私たちは、どちらがしたいでしょう?

肉は、私たちの生まれつきの性質に属し、自分や、自分に属するものの栄光を求めます。

自分の家庭や仕事など、自分が任されている領域を、主の栄光のために忠実に治め、そこが結果的に繁栄することをは素晴らしいことです。
でも、私たちが、自分の家族、仕事、教会、グループ、自分が関わっているミニストリーの祝福を優先して、自分たちを誇って他を見下したり、他のグループを批判したり、妬んだり、裁いたりする時、また、自分の意見、やり方、こだわり、好みを押し通そうとする時、たとえ良い働きをしていたとしても、肉に従っていることになります!(今、自分自身に向かっても、「気をつけよう!」と書いています!)
御霊は神様御自身、また神の国に属し、神様の栄光を求め、神の国の支配を求めます。

肉に支配されるなら、イエス様を信じていても、敵意や、ねたみ、憤り、見下すこと、さばくこと、分裂、競争、欲の戦い、などが行いに出てきます。
しかし、御霊に支配され、導かれ続け、御霊によって、肉を治めて行くなら、時が来て、実がなります。
喜びと平安が心を治め、主の恵みによって、へりくだった砕かれた心が与えられ、感謝と愛があふれます。
義理や義務感や競争心からではなく、神様の愛を勝ち取るためでもなく、純粋な、自由な心で、親切で忠実な奉仕ができるようになると信じます。

■A: 考えてみよう 
クリスチャンでも、イエス様を本当に信じていても、「まだ肉に属している」ということはありえます。そして、そうである場合、その人は「キリストにある幼子」であるそうです。(1コリント3章1-4節)
信じてからどれくらい年数が経っているかとか、どんな役職についているかとか、どれほどの賜物や能力があるか、とかも、あまり関係ないようです。

私たちの行いの中に、「不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興…そういった類のもの」があれば、私たちは肉に属する、キリストの幼子、だと聖書は教えています。

白い犬と黒い犬がけんかをした話を聞いたことがありますか?どちらが勝ったかご存知ですか?
正解は:
「ご飯を食べた方!」
だそうです。

今日も、御霊に属する人、私たちの内に住んでくださる聖霊に属する「内なる人」に食べ物を与え(賛美、祈り、御言葉、主の御心を行う)、御霊の筋肉を鍛え(御霊により、信仰により、恵みにより、御言葉を実行する)ましょう!

■P: 祈り
聖霊様、助け主よ、あなたを歓迎します!
今日、あなたが私を満たし、治め、導いてください!
イエス様につながっているもの、御言葉の川、聖霊の川のすぐそばに植わり、御霊の実を結ぶものとしてください。


7月4日(土)のつぶやき

2015年07月05日 01時44分10秒 | キリスト教

ガラテヤ人への手紙4章7節(歴代誌第一3,4章) goo.gl/6SD967


◆真理によって彼らを聖め別ってください。 goo.gl/XevAdj