座間コミニティー

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今日の聖人の記念日

2015年07月04日 08時00分13秒 | キリスト教

聖エリザベト(ポルトガル)皇后

1271年-1336年

1271年-1336年 エリザベトは、スペインのアラゴニア王ペトロ3世の娘として生まれ、12歳のときに、ポルトガル王デニスと結婚した。皇后となったエリザベトは、法律の制定や孤児の救済に力を尽くした。国王の女性問題から宮廷を追放されたが、王が病気になって死にゆくときには、今までの仕打ちを赦し、自ら王の看病に当たった。王が死去したのち、彼女はフランシスコ第三会に入った。コインブラに修道院を創立して、そのそばの小屋で祈りと黙想に専念し、修道女たちの世話をしながら生涯をささげた。


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◆悟  り  は  宝

2015年07月04日 07時59分05秒 | 聖書

悟りのある者を一度責めることは、
愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。(箴言一七10)

「悟りのある者」とは、けっして頭のいい利口者ということではありません。
アウグスティヌスは、一流の少壮学者として修辞学では令名をはせていました。しかし当時の風潮のまま、ある女性と道ならぬ関係を続けていたのです。ところがある日、イチジクの木の下でふと聖書を手にして、ローマ人への手紙一三章から読みました。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(12―13節)。ひとことが、ぐさっと深く魂の底まで届き、彼は神の前に悔い改めて、まわれ右をして神に従いました。その日から、アウグスティヌスは新しい人になりました。
神のことばは、失敗を通して語りかけることも、友やいろいろの事件を通して語りかけることもあります。それに対して柔らかい心を持つ人こそ、悟りある人ではないでしょうか。大分前のこと、私の職場である老牧師が、愛に満ち、しかも私たちの心を探る鋭いメッセージをしてくださいました。その聖書のことばの語りかけに対して、私たちはみな、涙にくれながら神のみ前にひれ伏し、悔い改めて祈りました。ところが、中に一人だけ、平気な人、いいえ、私たちを見て嘲笑っていた人がいました。しばらくして、その人は大きな罪を犯していたことが明るみに出て、職場を去らなければなりませんでした。利口な人でした。しかし、心のからが硬く、神のことばも人のことばも、その人の心の奥底まで届かなかったのです。
心が柔らかくて、神の叱責も人の叱責も心の底で受け止めて悔い改める人は、それゆえ、愛に成長する人です。そんな悟りのある人となりたいと思います。

 


◆真理によって彼らを聖め別ってください。

2015年07月04日 07時58分12秒 | 聖書

(ヨハネ一七・一七)

聖潔は新生に始まる。神の御霊は人のうちに新しい生活の原則を注ぎ込み、それにより彼は、キリスト・イエスにあって「新しく造られた者」となる。新生に始まるこの聖潔の働きは、二つの方法によってなされる。――一つは克己であり、肉の欲を制してこれを従わせること。他の一つは霊的生命の付与である。つまり、神が私たちのうちに置かれたいのちが泉となってわきいで、永遠のいのちにまで至る。これは、日々神の「永遠の保証」によって行われ、これによりクリスチャンは恵みの状態に保たれ、神を賛美し、神の栄光を現す良いわざに富む者とされる。さらにこれは「栄光」の中にあって絶頂に達し、完成されるのである。全く聖められたたましいは、その時いと高くいます大能者の右に、聖なる方とともに住むために上げられる。
このように神の御霊は聖潔の導き手であられるのだが、そこには目に見える仲保者が必要であることを忘れてはならない。イエスは、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」と言われた。私たちを聖める手段が神のみことばであることを証しする聖句はきわめて多い。聖霊は私たちの心に真理の教えをもたらし、力強く迫られる。それを私たちは耳で聞き、心に受け入れる。そしてそれは私たちのうちに神のお喜びになることをしようとする思いを起こし、かつ実行にまで至らせる。真理は聖めるものである。しかし、もし私たちが真理に目や耳を貸さないならば、聖潔における成長は見られないであろう。私たちがこのことを深く悟ってこそ、生活においても進歩が可能になるのである。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との聖句について「そんな意見もあるのだ」というような誤った考えを抱いてはならない。判断が誤っているならば、行為もいつしか誤ったものとなる。真理を堅く保て。真理を堅く保つことによってこそ、あなたは神の御霊によって聖められるのである。

 


第2列王記21章16-18節

2015年07月04日 07時56分48秒 | 聖書

21:16 マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。



 マナセは、主の御心を覚えない、偶像礼拝を行う、またその結果として民も彼の指示の元で偶像礼拝を行うという、まことに主の前に大きな罪を犯させた王でした。

 こうした主を愛さない、また主の御心を顧みない王であったということは、宗教的な面での誠実さを持たないということのみでなく、倫理的な意味でも、規範を失ってしまう現実を生じさせることを見るのです。

彼は、自分の思いに反する者を皆殺害してしまうという、恐ろしい行為を平然と行う者となってしまいました。

主は、義と正義を愛される方です。

ですから、その方を礼拝することを見失うならば、その人の行為も同じように正しさを失って、人の命を軽視する者となってしまうことを見るのです。

主を見失うことによって、自分の心や生き方を導くところの方を失ってしまうのです。



ガラテヤ人への手紙4章7節(歴代誌第一3,4章)

2015年07月04日 07時54分08秒 | 聖書

★ですから、 あなたはもはや奴隷ではなく、 子です。 子ならば、 神による相続人です。

■O:今日のコラム
世の中でも親子の関係は切っても切れない関係です。どんなに否定しても、自分を産んでくれた父と母は変えることができません。

今日のみことばは、「あなたは子です」と書かれています。誰の子でしょうか。神の子です。自分があの聖い神様の子どもなんて信じられない、受け入れられないと考えるかもしれません。しかし、あなたの考えに勝っている真実は聖書のみことばです。そのみことばが「あなたは神の子」と言っているので、これは紛れもない事実です。

なぜ、罪のある私たちが全く罪のない神様の子どもになりえるのでしょうか。それはただ、イエス様の十字架によるのです。

「しかし定めの時が来たので、 神はご自分の御子を遣わし、 この方を、 女から生まれた者、 また律法の下にある者となさいました。」(ガラテヤ4:4)

天の父は、大切な御子キリストを、処女であるマリアに聖霊によってみごもらせ、完全な人であり神である方としてこの地に送って下さいました。イエス様は罪は持っていませんでしたが、それ以外では私たちと全く同じ肉体を持った存在としてこの地に来て下さいました。その目的は何だったのでしょうか。

「これは律法の下にある者を贖い出すためで、 その結果、 私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」(ガラテヤ4:5)

律法の下にある者とは誰でしょうか。第一義的にはイスラエルの民ですが、私たちもそこに含まれます。この地に住む全ての人は律法の下に置かれています。その律法の下にあるものに届くためには、同じように律法の下に入らなければなりません。

例えば、アリの世界があったとします。そこに私たち人間が「危ないよ!この前を進むと大水の流れがあって、流されて死んでしまうよ!」と言ってもアリにはこの言葉は届かないでしょう。アリの姿をとって、その列の先頭に行きこの事を告げるとアリにこのメッセージは届きます。

次元は違いますが、神様も同じような事をされました。神は聖いお方なので、罪のある私たちは神を見ると、そのあまりの聖さに死んでしまいます。ですから、神様は私たちの考えを遥かに超える知恵と持って御子イエス・キリストを送って下さいました。この方は神であり人であるお方なので、私たちに届くことが出来ます。

イエス様が来られた目的は先のみことばにあるように、律法の下にある私たちを贖い出す、別の言葉で言えば買い戻すために来て下さいました。私たちの命を買い取るにはお金では買い取ることが出来ません。命には命で買い取らなければなりません。それ故に、イエス様は十字架の上で命である血を流され、私たちを罪の、律法の奴隷から買い戻してくださったのです。

その結果、何が起こったでしょうか。私たちは神の子としての身分を受け取ることが出来ました。それを悟らせ、確認の印として遣わされたのが聖霊様です。

「そして、 あなたがたは子であるゆえに、 神は「アバ、 父」と呼ぶ、 御子の御霊を、 私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

ここに父、御子、御霊が書かれています。私たちは神の子とされているがゆえに、御子キリストのゆえに、聖霊によって天の父を「アバ!(お父ちゃん!)」と親しく呼ぶことが出来るのです。何という素晴らしいことでしょうか。

みことばが私たちは神の子だというのであれば、私たちがどんなに否定してもその関係は崩れることはありません。王の王なる方の子とされたのであれば、それにふさわしい歩みをしようではありませんか。もう、私たちは以前のように惨めな奴隷の生活の中に閉じこもって生活する必要はありません。御霊があるところに自由があります。私たちは自由にされました!神の子とされていることを喜びましょう!


■A:考えてみよう
私の生活は神の子としてふさわしいだろうか。私たちが神の子であるということを悟らせるのはみことばです。このみことばに知恵と啓示の御霊、聖霊様によって光が照らされる時、いままで悟る事ができなかったみことばが開かれていきます。みことばが生きて私たちに語りかけてきます。
祈りましょう。みことばを読みあさりましょう。暗闇はどんどんと勢力と勢いを増し、私たちを覆ってきています。しかし、私たちは神の子であり、光の子です。闇はどんな小さな光にも打ち勝つことが出来ません。
みことばの真理にしっかりと立ちましょう。それがこの終わりの時代を生き抜く唯一の方法です。もっぱら祈りと、みことばの生活を送ることが出来るよう、時間の使い方を考え、第一のものを第一としていきましょう。
そして、毎日声に出して宣言しましょう。「私は神の子です!」と。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月3日(金)のつぶやき

2015年07月04日 01時43分58秒 | キリスト教