悟りのある者を一度責めることは、
愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。(箴言一七10)
「悟りのある者」とは、けっして頭のいい利口者ということではありません。
アウグスティヌスは、一流の少壮学者として修辞学では令名をはせていました。しかし当時の風潮のまま、ある女性と道ならぬ関係を続けていたのです。ところがある日、イチジクの木の下でふと聖書を手にして、ローマ人への手紙一三章から読みました。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(12―13節)。ひとことが、ぐさっと深く魂の底まで届き、彼は神の前に悔い改めて、まわれ右をして神に従いました。その日から、アウグスティヌスは新しい人になりました。
神のことばは、失敗を通して語りかけることも、友やいろいろの事件を通して語りかけることもあります。それに対して柔らかい心を持つ人こそ、悟りある人ではないでしょうか。大分前のこと、私の職場である老牧師が、愛に満ち、しかも私たちの心を探る鋭いメッセージをしてくださいました。その聖書のことばの語りかけに対して、私たちはみな、涙にくれながら神のみ前にひれ伏し、悔い改めて祈りました。ところが、中に一人だけ、平気な人、いいえ、私たちを見て嘲笑っていた人がいました。しばらくして、その人は大きな罪を犯していたことが明るみに出て、職場を去らなければなりませんでした。利口な人でした。しかし、心のからが硬く、神のことばも人のことばも、その人の心の奥底まで届かなかったのです。
心が柔らかくて、神の叱責も人の叱責も心の底で受け止めて悔い改める人は、それゆえ、愛に成長する人です。そんな悟りのある人となりたいと思います。