最初に訴える者は、
その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(箴言一八17)
古い落語に「帯久」というのがあります。
帯久という駆け出しの呉服屋は、金に困っては、人のいい同業者から、二十両、五十両と借金します。優しい甚兵衝は、気持ちよく、無利子・無証文で貸してやりました。最後に百両を借りた帯久は、それを返しに行きます。甚兵衛が出かけてしまったので、いったん返した金を猫ばばして帰り、それを元手に大もうけをします。一方、親切な甚兵衛は火事で焼け出され、十年も長患いして、落ちぶれはててしまいます。ところが、訪ねてきた甚兵衛を、帯久はなぐるけるのろうぜきをして追い出します。よほど腹にすえかねたのでしょう。苦しまぎれに甚兵衛は、帯久の家に火をつけました。帯久は、甚兵衛を町奉行に引っ立てて訴えます。火つけの刑は、火あぶりです。
初めは、奉行の目にもだれの目にも、帯久の訴えのほうが正しく、甚兵衛は悪く見えました。しかし、詳しく調べた名奉行が、帯久の悪心を見抜き、正しい判定をするというペーソスにあふれた話です。
私たちは、不平や不満を訴えられるものなら、人にも言いたい、神にも申し上げたいということが時々あります。私なども、妻に対して「こうしてくれてもよさそうなものだ」とか、「分かってくれないのかな」と、正直なところやはり時々思います。
ところでこれは自分の体験です。自分の心の訴えとか心の不平不満は、初めに自分ひとりで訴えている時は、いつも「自分が正しい」「相手が悪い」のです。しかし、落ち着いて相手の気持ちになって考え、第三者の目、ことに神の目から自分の心の訴えを見てみると、実にばからしくなります。愚かなのは、この私だと分かるのです。自分の罪と弱さを知ると共に、神を知り、神を恐れ、神の目で自分も人も見られるようになるところに、平和と祝福と愛があるのです。