座間コミニティー

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◆互いに押し合わず、

2015年07月18日 17時33分25秒 | 聖書

めいめい自分の大路を進んで行く。(ヨエル二・八)

いなごは常にその列を守る。その数は多いが、互いに押し合って隊列を混乱させることはしない。動物の世界にこの驚くべき事実があるということは、主がいかに徹底的に、ご自身の創造された宇宙に秩序を与えられたかを示す。微々たる生物も、天体の運行やセラフィムなどと同様に秩序を保っているからだ。
霊的生活のすべての面において、信者がこれと同様な秩序に支配されるのは賢明なことである。彼らの徳の一つが、他の徳の領域を侵害するようなことがあってはならず、また一つの徳が目的を遂げるために、他の徳の生命を食い尽くすようなことがあってはならない。愛情が正直を窒息させてはならず、勇気が弱さを押しのけてはならない。また謙遜が活力を突き出しても、忍耐が決断を殺してもならない。
私たちの義務に関してもこれと同様であり、一つの義務が他の義務を妨げてはならない。公に有用であることが、一個人としての敬虔を害してはならない。また教会での活動が家庭礼拝をすみに押し込めてはならない。他の義務の血で汚された義務を神にささげるのは、悪いことである。各々が節度を守ってこそ美しい。
イエスが、「ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません」と言われたのは、パリサイ人に対してであった。同様の規則は、私たち個人にも適用される。私たちは、自らの立場を知り、それを負い、それを保つことに心を用いなければならない。聖霊が私たちに与えられた能力に従って奉仕し、私たちの友である神のしもべの領域に侵入してはならない。主イエスは、高い地位を欲しがることなく、喜んで兄弟の中の最も小さい者になれと教えられた。だから、人をうらやんだり、野心を抱いたりすることなく、主のご命令のように、隊伍においてのそれぞれの立場を守っていこう。
今夜私たちは、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を保っているかどうかを見ようではないか。そして、主イエスのすべての教会において、平和と秩序が保たれるように祈ろう。

 


「この命令で、王は神のみこころをそこなった。

2015年07月18日 17時32分26秒 | 聖書

神はイスラエルを打たれた」(Ⅰ歴代21:7)

サタンがダビデを誘い込んで人口を数えさせた。
ダビデが心密かに持っていたものは、神よりも目に見えるものに、兵力に頼る罪であった。
目に見えない神よりも軍事力に頼りたい。
又、神が任せられた軍事力を自分のもの、自分の力と勘違いして、高慢に陥る罪であった。
高慢の行き着く先は滅びだ。
以前はゴリアテとの戦いで、主への信頼により勝利したダビデであり、信仰の人であった。
ダビデが滅びに至るのを神がお許しにならず、介入された。
これは神の深い愛だ。
私達も目に見えるものに頼っているだろうか。
神が下さった成功を自分が奪い、自分の栄光に、自分の所有にしていないか。
目に見えるものは強烈な影響力がある。
依存してしまう。富が幸せをもたらしてくれると頼り、又、人が幸せにしてくれると、依存するならそれは偶像だ。
心の奥では何を求めているだろう。
人は宝のある、その所に心がある。
ダビデは自らの罪のために多くの人々を巻き込んでしまった。
罪には結果が伴う。
その責任を取らねばならない。
ダビデは主の手に陥る事を選んだ。
ダビデは厳しい苦しみと痛みの中で、主の手に陥る事で、主への信頼を学んで行った。
主の憐れみは深く、どんな時も尽きることがない。
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「不信仰」による失敗をも、主の手に陥る事によって刈り取らせ、その中で主への深い「信頼」を再度学ばせて下さる。
主の愛と憐れみはどこまでも尽きない。愛されている。


今日の聖人の記念日

2015年07月18日 10時20分49秒 | キリスト教

聖パンボ修道士

4世紀

 彼は、砂漠の教父たちの中でも最も偉大な教師の1人であった。あるとき、詩編39の第1節「わたしの道を守ろう。舌で過ちを犯さぬように」という言葉を聞いて以来、沈黙が彼の最も大きな徳となった。総司教から、感動すべきことをいうようにと頼まれたとき、「総司教がわたしの沈黙に感動されなければ、わたしの演説にも感動しないでしょう」と言った。また、彼は師父から習った「自分の正当さを信頼してはいけない。過ぎ去ったことを悲しんではならない」ということを心に納め実践した。砂漠の教父たちの生活実践と教えは、修道院制度の確立と発展の基礎を築いた。


◆豊かな者は、より豊かに

2015年07月18日 10時19分43秒 | 聖書

悟りのある者の心は知識を得、
知恵のある者の耳は知識を求める。(箴言一八15)

イエス・キリストは、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです」(マタイ二五29)と言われました。金持ちは、持っている資本を動かしてどんどん金持ちになる。ところが貧乏人は、持っていないから手も足も出ず、持っているものまで失ってしまう。――これは、資本主義社会の悲しい姿です。ところでイエス・キリストは、金や物ばかりでなく、愛・喜び・平和・人生の祝福・人生のエネルギーまで、持てる者は雪だるま式にもっと豊かに持つようになり、持たざる者は、いよいよ失ってみじめになると言われたのでしょうか。そうだとすると、悲しい、精神的資本主義とでもいえそうです。
しかし、きょうの箴言のことばは、イエス・キリストの、また聖書の言いたいほんとうのことを示しています。それは、真実の知恵やほんとうの人生の祝福を求めて飢え渇く者が、いっそう満たされることです。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない」(Ⅰコリント八2)と、パウロは言いました。
私は昔、おなかがすいたので途中で今川焼を三つも食べて家に帰ったら、その晩にかぎって用意されていた夕食のステーキが、食べられなかったという経験があります。心の中を、つまらないものやくだらないもので満たしていては、ほんとうのすばらしいものを食べる気もしません。
詩篇の詩人は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇四二1)と歌いました。パウロは、キリストを知ることのすばらしさのゆえに、今まで大切に思っていたこともちりあくたのように捨て、より高いより真実ないのちを、キリストの中に見あげて追求しました。

 


◆彼らはその旗に従って最後に進まなければならない。

2015年07月18日 10時18分50秒 | 聖書

(民数二・三一)

イスラエルの軍勢が前進するとき、ダンの宿営に属する者はしんがりを務めた。ダンは軍の最後尾を進んだ。しかし、先頭に進む部族も同じ軍勢の一部であるから、その位置を気にする必要はない。彼らは同じ火の柱、雲の柱に導かれ、同じマナを食べ、同じ霊の岩から飲み、同じ相続地を望みながら旅を続けた。私の心よ。たとえおまえが最後尾につく最も小さい者であっても、勇気を出せ。軍隊の一員となり、先頭を行く者と同様に進むのは、おまえの特権である。だれかがイエスのために卑しい仕事をしなければならない。それならば、それに私が当たるのが、なぜいけないのか。私は人里離れたところにあっても、あるいは身に危険を感じるようなところにあっても、主のために働き続け、「その旗に従って最後に」進むのである。
ダンの部族はしんがりにあって、非常に有用な役割を務めた。行軍中に、落伍者を助けなければならず、遺失物も拾い集めなければならなかったからである。火のように燃えるたましいは、前人未踏の地に突入して新しい真理を学び、多くのたましいをイエスのもとに獲得するかもしれない。しかし用心深いたましいは、教会にその昔の信仰を思い起こさせ、息の絶えるばかりの神の子たちを回復させることができる。すべての地位にはそれぞれ果たすべき義務がある。そして遅々たる歩みの神の子たちも、その歩みが全軍の祝福となっていることを見いだす。
しんがりは危険な位置である。敵は私たちの前にいるが、また後ろにもいる。攻撃はどこから来るかわからない。アマレク人がイスラエル人の背後を攻撃し、最後部の者を殺した例もある。経験を積んだクリスチャンは、信仰、知識、また喜びにおいて、しんがりの、あわれな、疑い深い、元気のない、動揺している人々を助けることができる。彼らを見捨ててはならない。そのためには、よく訓練された聖徒たちがしんがりにあって、旗を掲げていなければならない。
私のたましいよ。今日、心して列の後ろの者を助けよ。

 


第2列王記24章18-20節

2015年07月18日 10時17分43秒 | 聖書

24:19 彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目の前に悪を行った。
24:20 エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。



 ゼキデヤは、バビロンに連れ去られたエホヤキンに代わって、王として立てられた人物です。

この人物も、主の目の前に悪を行ったということが告げられています。

敵の侵略にあって多くの人々が補囚とされたのに、彼は、誠の神の下にへりくだって罪を悔い、主により頼むことをしようとはしませんでした。

彼は、政治的な意味での力関係に事の解決を図ろうとしたのです。

この時ユダの国は、言わばバビロンの支配の下におかれて、植民地のような状態でした。

そのことに不満を持っていたゼデキヤは、ある時、バビロンの要求に逆らう姿勢に出ました。

その結果、自ら防備を固めて、バビロンに対峙するという姿勢をとったのです。

力の比べようもない状況にあったにもかかわらず、彼は愚かな行為に出たのです。


エペソ4章27節(1歴代誌 27章)

2015年07月18日 10時14分51秒 | 聖書


★悪魔に機会を与えないようにしなさい。

■O: 今日のコラム
「悪魔はいます」
ある人たちは、悪魔や悪霊、霊的戦いをあまり気に留めていません。
自分の日常生活とかけ離れていて実感がなかったり、クリスチャンはもう救われていて守られているから悪霊の攻撃や影響は受けない、と思っているために、無防備な場合があります。
中には、極端に霊的なことを強調し過ぎる人たちにつまずいて、そのような話題にアレルギー反応を示している人もいます。

しかし、人がどうとか、現実がどうとか、ではなく、私たちは聖書を基準として歩みましょう。
聖書には、神様がおられるように、悪魔もいる、と書いてあります。神様が今も生きて働いておられるように、悪霊も働いていて、私たちは霊的な戦いの中にいる、と書かれています。

「恐れる必要はない」
しかし、だからといって、悪魔や悪魔の攻撃を恐れる必要はありません。
私たちのうちにおられるキリストは、この世の君であるサタンよりも強いし、私たちが主の安息の中に隠れているなら、私たちは主によって悪いものから守られています。
むしろ、神の子の本来ある姿は、悪魔に恐れられる存在になるべきなのです。

「侮ってはいけない。機会を与えないように!」
しかし!
侮ってはいけません。
クリスチャンであっても攻撃は受けますし、隙があるなら、敗北する事も現実にあります。

パウロも、エペソ書のこの箇所で「悪魔に機会を与えてはいけない」と言っています。
では、それは具体的にどういうことでしょうか。

「足がかり」
昔最初に聞いたのは、「機会を与えない=足場を与えない」であり、「うっかりセールスマンにドアを開けすぎて、隙間に足を入れられる」ように、サタンの足がかりとなるようなドアを開かない、隙を与えない、という説明でした。
確かに、兄弟姉妹に対する苛立ち、すぐに赦さない心、処理しなかった失望、落胆、不満、意図的で継続的な罪、そのようなものを放っておくなら、悪魔が心に入り込んでくる足がかりとなってしまうでしょう。

このような霊的な傷や病気(罪)は、すぐに主のところに持って行って、出来るだけ早く悔い改め、癒し直していただいて、悪魔に隙を与えないようにしましょう。

「事務所/店舗」
ある先生は、「機会」はギリシャ語の「topos」で「事務所」「お店」というような意味もある。悪魔が自分の中に事務所や店舗を開設して仕事をしていたらいやですね、と言われましたが、本当にその通りです!

この「topos」には、さらに色々な意味があるそうです。
周囲と区別するために印をつけて取り置かれている区画、都市や村、地方、のようなだれかが住んでいる領域、そこにいる者が権能を発揮する機会、チャンス、などなど…。

自分の内側、主から任されている領域に、悪魔の住まい、悪魔の棲む都市、村、場所、土地を与えるな、という意味があると理解を深めました。

悪魔が、自分や、自分の家族、自分の教会…に、「ここは俺たちの本部。(あるいは支部、支店)とばかり、居場所を作って、そこで勝手な策略をめぐらし、神の国の建設、拡大を、妨害したりしていたら、なんと嫌なことでしょう!
そのようなことのないように、しっかりと見張っていきましょう。

■A: 考えてみよう 
悪魔は現実に存在します。
神の子が増え、神の御国が拡大しないように、いつも獲物を狙って、弱っている者、傷ついているもの、つまずいている者はいないか、教会の中に弱いところはないか、ゴシップしている人たち、赦さない人たち、隠れて罪を犯し続けている人たちはいないか、家庭の中に不一致はないか、探し求めて歩き回っているのです。

ですから、目をさましていましょう!
心を見張り、悪魔に足がかりとなる場所を渡さないように、まして、自分の中、家族の中、教会の中に、悪魔の事務所が開設されて、そこで打ち合わせど始められないように、しっかり見張っていきましょう!

■P: 祈り
助け主なる聖霊様。
私たちの霊の目を開いてください。自分の中、家族や教会の中に、悪魔に扉を開いている場所がないか、示してくださり、その破れをすみやかに塞ぐことができるように助けてください。
悪魔に、大切な宝を盗まれたり、大切な人たちを殺されたり、破壊されたりすることがないように、しっかり見張っていることができるように、助けてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


7月17日(金)のつぶやき

2015年07月18日 01時46分22秒 | キリスト教