座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆こうして夕があり、

2015年07月10日 17時59分38秒 | 聖書

朝があった。第一日。(創世一・五)

夕は「やみ」であり、朝は「光」であった。しかしながら、この二つを一緒にして、光のみに与えられる「日」という名称で呼んでいる。霊的経験においても、これと同じ類比がある。すべての信者の中には、やみと光がある。しかし、彼は罪をもつために罪人と呼ばれるのではなく、ある程度の聖さをもつゆえに聖徒と呼ばれるのである。
これは自己の弱さを嘆き、「私はこんなに多くのやみをもっているのに、神の子であり得るのか」と言う人々には、最も慰めとなる思想であろう。そう、あなたは日のように、あなたの名前を夕からは取らず、朝から取らなければならない。そしてあなたは、神のみことばの中においては――あなたはまもなく全く聖なるものとされるが――今、完全に聖なるものであるかのように呼ばれている。あなたの中にはなおやみがあるが、あなたは光の子と呼ばれている。あなたは、神の目から見て最も著しい性質によってそう名づけられている。そしてその性質は、いつの日にか、あなたの中の唯一の原則となる。
夕が先に来ていることに注意せよ。生来の私たちは、時の順序から言えば、最初はやみである。暗やみが、私たちの悲しみに沈む不安な心の中にあって、初めにしばしば私たちを駆り立て、深いへりくだりのうちに、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と叫ばせる。次には朝が来る。恵みが生まれつきの性質に打ち勝つ時に夜が明ける。「終わりに来るものは永遠に続く」とは、ジョン・バニヤンの尊い格言である。最初のものは、時が来れば最後のものにゆずる。しかし、最後のものの後には何も来ない。あなたの生まれつきの性質はやみであるが、一度あなたが主にあって光となるならば、その後に夕が続くことはない。「あなたの太陽はもう沈まず……。」
人生の第一日は、夕があり、朝があった。しかし第二日は、私たちが永遠に神とともにあろうとする時、夕はなく、一つの、聖く、尊い、永遠なる昼があるだけとなる。

 


「私にとっては、あなたがたによる判定、

2015年07月10日 17時57分28秒 | 聖書

あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。
事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」(Ⅰコリント4:3)

ある人が第一線でバリバリ仕事をしていた。
ところが、仕事に行き詰まり、体調を崩し、止むなく退かねばならなくなった。
その時に、ひどく落ち込んだ。
仕事が出来ていた時は、自分が価値のある者と思えていたが、何も出来なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。
非常な苦痛であり、受け入れ難い事であった。
様々な弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが、無駄だった。
仕事上の失敗を、人のせいにしようとしている自分、人を赦せない自分に苦しんだ。
御前に出て、何もかもを打ち明け心注ぎ出し祈った。
十字架が迫った。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」
主の祈りが、自分のためである事がわかった。
主の赦しの愛を全身に受け取った。そして、主は完全に赦して下さっているのに、自分が自分を赦していない事を示された。
自分を赦せた時、人も赦す事ができた。何かをしたからでなく、何が出来なくとも、このままの存在を受け入れて、愛して下さっている主の愛に癒された。
自分を裁く事を止めた時、人を裁かなくなった。
--------------
何に拠って立っているのだろう。拠り所は何なのだろう。
自分の能力なら行き詰まった時、拠り所が壊れてしまう。
附属物を全部取り去った自分そのものを愛して下さっている主の愛に感謝しよう。


今日の聖人の記念日

2015年07月10日 07時24分17秒 | キリスト教

ゴルクムの聖殉教者

16世紀

 当時、オランダでは宗教改革のさ中に、多くのカトリック信者が弾圧を受け、殺された。このとき、ゴルクム市では、4人の司祭、修道士を含む19名が捕えられ、ひどい拷問ののちに処刑された。彼らの遺体はのちにブリュッセルに移され、彼らは「ゴルクムの聖殉教者」と呼ばれ、人々から崇敬されるようになった。


◆閉ざされた心・開かれた心

2015年07月10日 07時23分06秒 | 聖書

おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、
すべてのすぐれた知性と仲たがいする。(箴言一八1)

以前「私は貝になりたい」というテレビドラマが話題になったことがあります。人々にかかわるたびに問題に巻き込まれて苦しむと、いっそ貝のように心を閉じて、人に干渉しないし、干渉されたくないという人の気持ちを表したものでしょうか。
自分の心を閉じてしまうことは、恐ろしい結果になります。独りぼっちで、ある時は劣等感に悩み、ある時は挫折感にうちひしがれます。また、独り善がりの独善家は、自分ではよいと思っても、人に捨てられるのです。開いた心が持てないで、自分のからの中に閉じこもってしまうことを悩んでいる人は非常に多いと思います。そのような閉ざされた心の一つの秘密を、聖書ははっきり語っています。それは、「自分の欲望のままに求める」ということです。
「おのれを閉ざす者」は、自分以外に他者を持たない心のことです。ここには、人間としての本質に問題があります。それは、けっして小さな問題ではありません。神は、人間を造られました。それは、人間が神に対して愛と喜びの交わりをするためであり、人を愛し、人と分け合い、助け合う、人と人との交わりのためでした。独立独歩の精神はよいでしょう。しかし、孤立独善は感心したものではありません。反対に、心が結び合って、よいことのために協力して重荷を負い合うなら、そこにこそ人生の力も喜びもあります。
アウグスティヌスは、「大きなことでは一致、小さなことでは自由、すべてのことに愛」と、人との一致と交わりの原則を教えたそうです。イエス・キリストは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ一八20)と言われました。神の愛を認め、神によって心が開かれる時、大きな祝福が与えられます。

 


◆今は聖徒たちと同じ国民であり……。

2015年07月10日 07時22分10秒 | 聖書

(エペソ二・一九)

私たちが天国の市民であることは、私たちが天の支配下にあることを意味する。天国の王であるキリストは、私たちの心の中にあって、支配しておられる。私たちの日ごとの祈りは、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」である。栄光の御座からの布告を、私たちは何のためらいもなく受け入れ、大王の命令に喜んで従う。
私たちは新しいエルサレムの市民として天国の誉れにあずかる。世を去った聖徒たちが受けている栄光は、私たちのものでもある。私たちはすでに神の子であり、王族であり、すでに汚れのないイエスの義の衣をまとっているからだ。すでに天使を従者とし聖徒を友としている。キリストは私たちの長兄であり、神は父であり、朽ちない冠は私たちの報酬である。私たちは市民の誉れをになう。天に登録されている長子たちの教会の会員となったからである。また市民として天国のすべての財産に対して共同の権利をもつ。天国の真珠の門と碧玉の城壁も、ろうそくの光も日の光もいらない天国における明るい光も、私たちのものである。いのちの水の川、またその対岸のいのちの木に結ぶ十二種の実も、私たちのものである。天上にあるもので、私たちのものでないものはない。「現在のものであれ、未来のものであれ」すべて私たちのものである。
さらにまた、天国の市民として私たちは天国の喜びを味わう。天国にいる者たちは、罪人が悔い改めた時――放蕩息子が帰ってきた時喜ぶであろうか。そうだ。私たちもまたそれを喜ぶ。彼らは勝利の恵みの栄光をたたえて歌うであろうか。そうだ。同じように私たちも歌うのである。彼らは、自分の冠をイエスの足もとに投げ出すであろうか。私たちもまた自分のもっている誉れを御前に投げ出す。彼らはイエスのほほえみに心を奪われるか。地上に住む私たちにとっても、イエスのほほえみはそれに劣らず美しい。彼らは主の再臨を待ち望むか。私たちとてそうである。
このように天国の市民ならば、私たちの歩みや行動が、それにふさわしいものであるよう心がけよう。

 


第2列王記23章1-3節

2015年07月10日 07時20分21秒 | 聖書

23:2 王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。



 ヨシヤ王は、預言者を通して語られた主の言葉を聞きました。

ヨシヤは主に対して謙遜な心を持っていたため、その罪は許されました、

しかし主は、偶像礼拝を行い続ける民の姿勢に対しては激しく怒り、裁きをもたらすと、ヨシヤは聞きました。

彼は、自分だけが救われれば良いとは思いませんでした。

そこで彼は、祭司や預言者、すべての民と共に、主の宮に登りました。

そしてそこで、先に主の宮で発見された律法の書、すなわち神様との契約の書を、皆に読んで聞かせました。

 主を知ることは、主の御心を知るということです。

そして、その主の御心を知ることは、主のみ言葉を通してなされるのです。

み言葉に聞くことが、主とその御心を知るための、基本なのです。


1歴代誌15章28~29節

2015年07月10日 07時18分23秒 | 聖書

★全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。こうして、主の契約の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。

■O:今日のコラム
第一歴代誌15章からいよいよダビデの幕屋が建てられ、絶え間ない賛美と祈りが主の御前に立ち昇り、満ち満ちた礼拝がエルサレムの中心でスタートする事となります。

旧約聖書において主の臨在が最も顕著に現される契約の箱をエルサレムのダビデの家に携え上った時、ダビデは嬉しさのあまり喜び踊り、歓声を上げて主を褒め称え、主の臨在を自分の町へと歓迎しました。

しかしサウルの娘ミカルは、そのダビデの礼拝を見てさげすみました。

私達が力いっぱい主に礼拝を捧げる時、自分の心の中にあるミカルの性質に勝利しなければなりません。時に教会の賛美の時間も「なぜ皆は熱狂して主に叫び、踊り、喜び、声を張り上げて賛美しているのか?こんな騒がしい礼拝をしても意味がない。」と、私達の内から礼拝をさげすむ思いが湧き上がって来るかも知れません。

また時には、個人の時間においても「礼拝したり、祈りに時間を割いても無駄だ。もっと自分を楽しませる事をしたい。」と思う事もあるでしょう。

この様なミカルの心に打ち勝とうではありませんか。ミカルの心を持った結果、主の為に命ある働きは何一つ生み出せなくなります。聖書には「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。」(2サムエル6:23)と書かれています。

ダビデが主に愛された理由は、ダビデ自身が何にも勝って主の臨在を慕い求め、自分の人生も命も全てをかけて主を礼拝した器だったからでした。以下の御言葉を共に心に留めましょう。

《申命記6:5》
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

《1サムエル記2:30》
それゆえ、・・イスラエルの神、主の御告げだ・・あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、・・主の御告げだ・・絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

《箴言8:17》わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

《ヤコブ4:8》
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

■A:考えてみよう
今日、御言葉を心に留めダビデの様に主を慕い求めて生きましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月9日(木)のつぶやき

2015年07月10日 01時48分04秒 | キリスト教

歴代誌 第一 13章3節(歴代誌 第一 12章) goo.gl/GCDaAE


◆主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 goo.gl/fi6Nu0


「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、 goo.gl/rcJOzB


◆神はこの光とやみとを区別された。 goo.gl/N1ym8G