朝があった。第一日。(創世一・五)
夕は「やみ」であり、朝は「光」であった。しかしながら、この二つを一緒にして、光のみに与えられる「日」という名称で呼んでいる。霊的経験においても、これと同じ類比がある。すべての信者の中には、やみと光がある。しかし、彼は罪をもつために罪人と呼ばれるのではなく、ある程度の聖さをもつゆえに聖徒と呼ばれるのである。
これは自己の弱さを嘆き、「私はこんなに多くのやみをもっているのに、神の子であり得るのか」と言う人々には、最も慰めとなる思想であろう。そう、あなたは日のように、あなたの名前を夕からは取らず、朝から取らなければならない。そしてあなたは、神のみことばの中においては――あなたはまもなく全く聖なるものとされるが――今、完全に聖なるものであるかのように呼ばれている。あなたの中にはなおやみがあるが、あなたは光の子と呼ばれている。あなたは、神の目から見て最も著しい性質によってそう名づけられている。そしてその性質は、いつの日にか、あなたの中の唯一の原則となる。
夕が先に来ていることに注意せよ。生来の私たちは、時の順序から言えば、最初はやみである。暗やみが、私たちの悲しみに沈む不安な心の中にあって、初めにしばしば私たちを駆り立て、深いへりくだりのうちに、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と叫ばせる。次には朝が来る。恵みが生まれつきの性質に打ち勝つ時に夜が明ける。「終わりに来るものは永遠に続く」とは、ジョン・バニヤンの尊い格言である。最初のものは、時が来れば最後のものにゆずる。しかし、最後のものの後には何も来ない。あなたの生まれつきの性質はやみであるが、一度あなたが主にあって光となるならば、その後に夕が続くことはない。「あなたの太陽はもう沈まず……。」
人生の第一日は、夕があり、朝があった。しかし第二日は、私たちが永遠に神とともにあろうとする時、夕はなく、一つの、聖く、尊い、永遠なる昼があるだけとなる。