19:20 「汚れた者が、罪の身をきよめなければ、その者は集会の中から断ち切られる。その者は主の聖所を汚したからである。汚れをきよめる水がその者に振りかけられなかったので、その者は汚れている。」
主は、死体によって汚された者が、その清めのために準備してくださった汚れを清める水を用いないで、清めないならば、その者は罪の汚れをそのまま負って、集会の中から断ち切られると告げられました。
それは、その人が主の聖所を汚したからである、と言われるのです。
ここで主は、汚れに染まっているということは、罪であると語っています。
つまり、神への犯罪となっているというのです。
神様がきよい方であり、またその聖所は清い所であるからです。
ですから、その汚れた人が清められて、主との交わりである集会に集うことができるように、主御自身が清めの水を準備してくださったのです。
しかし、それを用いないで、その汚れを取らないとするならば、罪の責任をその人が負うとおっしゃっているのです。
イエス様による救いは、神様からの一方的な恵みです。
その恵みを否定するならば、罪の清めはないのです。
19:19 「身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。」
人が天幕の中で死んだ時はどうするのかが語られています。
病やいろいろなことで死ぬ時があるからです。
そこにいる人は、死体に触れることになりますので、汚れた者とされます。
また、その天幕の中の、口の開いた器も汚れた物とされます。
そこで身のきよい人が、まず先の灰を取って湧き水の中に入れ、その水を死体と天幕の中の汚された器と、死体に触れた人に振りかけなさいと言われます。
また身を汚した人には、それを3日目と7日目に2度行い、それによって清められた人は、着ている服を洗い、水を浴びなさいと言われます。
そうすることによって、主の前に清められると言われます。
死ぬということは、人にとって当たり前だと思ったりします。
しかし主は、それは汚れているいうのです。
それによって、人は本来、死すべきものとして造られたのではない、と主が語っておられることを知るのです。
あなたを生んだ父の言うことを聞け。
あなたの年老いた母をさげすんではならない。(箴言二三22)
聖書は、徹底的に、「父を敬い、母を敬え」と言っています。しかしこの世には、父を敬えない人が実に多くいるのではないでしょうか。私の知っている女性は、母といっしょに、小さい時に父に捨てられました。やっと高校を出て、銀行に就職しましたが、職場で得た男友達からも、肉体をもてあそばれた上で捨てられたのです。彼女は、徹底的に男性不信に落ち入り、自分の生涯の目標を男に、父親に復讐することに決めてしまい、みじめな人生を送るようになりました。
私自身も、争いの絶えない家庭にあって、父を尊敬できなかった者です。父を憎み、父を抹殺したい思いすらありました。この父の子として生を受けたことをのろいました。
しかし、そんな父を徹底的に愛し、そんな私を徹底的に愛してくださる神を知りました。神の愛は、すばらしいから愛するとか、よくやっているから愛するというのではありません。罪深い弱い者も愛し、生かしてくださいます。私の父を通して、私をこの地上に生かしてくださった神とその愛を見いだした時、人間の尊敬とか愛とかの背後にある、運命的ともいうべき崇高なものが分かるような気がしてきました。そして、父のために祈っているうちに、父のよさが分かり、その偉大さが分かり、父の人間性がだんだんと分かってきて、私の心に、父を敬う心がわいてきたのです。人の親となって、自分もけっして尊敬される資格のある父親でないことが分かると、いよいよ父を慕い敬う気持ちが尊く分かるような気がするのです。
老人をさげすみ、自分の親をさげすむ生き方は、その終点が、自分もまたさげすまれ孤独となる確かな道ではないでしょうか。「父を敬う」道は、神を恐れ神を愛し従う道と、もとが一つであるような気がするのです。
(詩篇一四九・二)
信者よ。心から喜べ。そしてその喜びは神からわき出ることを知れ。あなたは喜ぶべき多くの理由を神のうちにもち、詩篇の作者のように「私の最も喜びとする神」と歌うことができる。喜べ。主が支配者であられることを。また主が王であられることを。主が御座に座しておられること、すべてを支配されることを。
神の性質の一つ一つは、私たちの喜びの日光の新たな光線となるべきである。私たちは自分の弱さのために震えおののくので、神が力ある方であることは私たちの喜びとなる。神が永遠にいます方であることは、私たちが草のようなはかない存在であることを知る時、私たちの喜びとなる。神が変わらない方であることは、常に私たちに歌をもたらす。私たちは時々刻々変わるものであるから。神が恵みに満ち、しかもあふれるばかりに満ちておられること、そして契約においてその恵みが私たちに与えられていること、私たちがきよめられ、守られ、聖別され、完全な者とされ、栄光に導かれていること――これらのすべてによって、私たちは神を喜ぶべきである。
この神にある喜びは深い川のようだ。私たちはただその水際に触れたにすぎない。その清らかな甘美な天国の流れを少しは知っている。しかし水際から進むにつれ、川は深くなり、流れはさらに喜びにあふれる。
クリスチャンは神がどのような方であるかを喜ぶだけでなく、神が自分のためにこれまでになしてくださったことを喜ぶ。詩篇は、神の民がその昔、神のみわざを深く考える習慣があったこと、そしてその一つを詩に作ったことを示す。そのゆえに、主の民に、今主のみわざを追憶させよ。彼らの主の力強いみわざを語らせよ。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められた」と彼らが歌うことをやめさせてはならない。新しい恵みは、日ごとに彼らの上に注がれて尽きないため、主の摂理と恵みの愛のみわざを喜んで、不断に感謝をささげなければならないからである。
シオンの子らよ。喜べ。そしてあなたの神、主を楽しめ。