14:33 「あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。」
神様を信じるということは、人を信頼することとは違います。
人は無知で無力ですから、その語ったことが、そのまま実現するかどうかはわかりません。
しかし、主は異なります。
全能、全知の方でありますので、ひとたび語られ、約束されたことは、必ず実現します。
従って、その神様が語られ、約束されたことを信じないということは、不信の態度です。
また、その約束の言葉はすべての民に与えられたのではなく、特別にイスラエルの民に与えられておりました。
ですから、それを信じないということは、神様への背信の行為でありました。
ですから主は、その責任を問う、と言われるのです。
不信仰な姿勢に対しては、神様は激しい憤りをもたれます。
それは、神様のご人格を否定することにつながるからです。
ですから、二人を除いてすべての人々が、荒れ野で死んで、約束の地を見ない、と言われたのです。
14:23 「わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」
主は、モ-セの執り成しの祈りを聞かれて、彼等を滅ぼすことはしないと言ってくださいました。
しかし、彼等は、主の約束とその約束を実現してくださる神様の誠実さと力を信じることをしないで、神様を侮ったため、罰を受けることとなりました。
その刑罰は、彼等は約束の地に入ることができないということでした。
この荒れ野で滅びてしまうことでした。
ヨシュアとカレブは、約束の地に入ることができると告げられました。
それは、彼等が主の約束を信じて、主の言葉を信頼していこう、と民に勧めたからです。
信仰の人だったからです。
私たちもイエス様を信じる信仰によって罪の許しを受け、約束の地である神の国に入ることができることを告げられています。
ところがその約束を受け入れないで、神の約束に頼るのではなくて、自分たちが築いた道、すなわち知恵や知識で御国に入ろうという人々がいます。
こうした人は、神様を侮る人である、と言われるのです。
おこりっぽい者と交わるな。
激しやすい者といっしょに行くな。
あなたがそのならわしにならって、
自分自身がわなにかかるといけないから。(箴言二二24―25)
ある尊敬している先輩が、いかにも優しく柔和なまなざしで、「あの青年はすばらしい男だけれど、まだまだ怒りっぽいからだめだ」と言っていることばを聞いて、「ああ、私のことを言っている」と深く感じたことがありました。私は上州長脇差、激しやすいのは私の身上などと思ったこともなきにしもあらずですが、「おこりっぽい」ことはみじめです。
不正や、不義不法な圧迫に対して、聖なる怒りを感じないような者にはなりたくないと思います。しかし、私たちが「おこりっぽい」のはいつも、私たちを取り巻く親しかるべき身近な人に対してではないでしょうか。怒りっぽい人には、いつも次の二つの洞察が欠けているように思われます。
第一に、自分自身に対して神が怒りっぽく、すぐ結論を出したり、さばきや仕返しや断罪をも行ってしまうならどうでしょうか。この世に、神の断罪を免れる人が一人でもいるでしょうか。神は、私のような偽り者・自分勝手な者・罪深い者にも、深い愛と忍耐を持っておられます。私のために、ゆるしもきよめも新しい人生をもみな備えて、そうです、キリストの十字架の中に備え整えた上で、忍耐深く待っていてくださるのです。このことが分からない時、人は怒りっぽくなるばかりか、怒りに任せて怒りといっしょに「行ってしまう」のです。つまり、そういう人は自分自身に対する洞察に欠けています。
第二には、どれほど怒っても怒り足りないような人でも、神の恵みと力によって、正されゆるされ新しくされる可能性があることを知りません。しかも、自分の人間としての力や知恵の中に、人を変える力がないことを悟りません。さばきと救いの力は神にあるという洞察に欠けています。
わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ三三・三)
この聖句には、種々の異なった訳がある。「わたしは、あなたに大いなる、防備されている事を示す」とも、「大いなる、保留されている事」とも訳されている。クリスチャンの経験の中には特別に保留されたものがある。霊的生活のすべての発展は、どれも容易に到達できるものではない。
悔い改め、信仰、喜び、希望などの共通な心の状態や感情がある。これらはすべての神の家族が経験しているものである。しかし、あふれる喜び、霊の交わり、キリストとの一体の意識などの高次の段階については、それがすべての信者に共通なものとはとても言えない。私たちのすべてが、イエスの胸によりそったヨハネのような高度の特権をもっているのではなく、パウロのように第三の天にまで上げられるのでもない。神に関する経験的知識の高さは、わしのような鋭い目をもっても、哲学的な思想をもっても、決してうかがい得ない。神のみが私たちをそこへ伴ってくださる。
そして神が私たちをそこへ連れられる車と、それを引く火の馬は、熱心な祈りそのものである。熱心な祈りは恵みの神に勝つ。ヤコブは「その力の神と争った。彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はべテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた」。熱心な祈りはクリスチャンをカルメルに伴い、彼をして天を祝福の雲でおおい、地をあわれみの洪水でおおうことを得させる。熱心な祈りはクリスチャンを高くピスガに運び、彼のために備えられている資産を示す。それは私たちをタボルにまで高め、私たちを聖化して主の御姿に似たものとし、この世にあっても主のようにするのである。
あなたが普通の卑しい経験よりも高いレベルに達することを願うならば、あなたよりはるかに高い岩であるキリストを見上げ、執拗な祈りの窓から信仰の目をもって見つめよ。窓を自分の側から開けさえすれば、窓の向こう側は開け放しになっているのである。