座間コミニティー

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民数記15章1-10節

2012年09月10日 09時18分08秒 | 聖書

15:4 「そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを主にささげなければならない。」


イスラエルの民が約束の地のカナンに入る時、そこで捧げるべき、火による捧げ物のことを語っています。

火による捧げ物は、特別の誓願や自発的な捧げ物、なだめの香りを捧げる時になされる、捧げ物です。

しかし、その時に次のものも捧げなさいと言われるのです。

それは穀物の捧げ物として、小麦粉10分の1エパを加えなさい、と語っています。

 雄羊を捧げる場合には、小麦粉10分の2エパを捧げ、若い牛を捧げる場合には、小麦粉10分の3エパを捧げなさいと命じられています。

 これらの物は、彼等が約束の地に着いてから捧げるものでした。

荒れ地ではこうしたものが手に入りませんし、主がマナを与えて民を生かしてくださっていたので、その必要がなかったからです。

しかしカナンの地に入ったならば、肉の捧げ物のみではなく、穀物の捧げ物を捧げなさいと命じました。

祭司たちに与えるためでした。


民数記14章39-45節

2012年09月10日 09時15分55秒 | 聖書

14:41 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。
14:42 上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。」


荒れ野で滅びると言われた時に、それを聞いて悲しんだ人々がいました。

その結果、彼らは、以前神様が命じられたように、入っていこうと言いました。

ところがモ-セは、今はもう、神様は彼等をそこに入らせないと言われたのであるから、そのようなことをしても、神様は共にはいてくださらない、だから止めるようにと諭しました。

それにもかかわらず、彼等は昇っていきました。

そのために、彼等はその地で、殺害されてしまいました。

 主は約束を与えていないのに、それを信じろと言われるのではありません。

また命令もないのに、それに従えと言っておられるのでもありません。

主が求めておられることは、約束が与えられ、また命令が与えられたならば、それに従いなさいと言うのです。

御言葉への服従が求められているのです。

それが、信仰の現れなのです。


◆保証人となるべきか

2012年09月10日 09時05分15秒 | 聖書

あなたは人と誓約をしてはならない。
他人の負債の保証人となってはならない。
あなたに、償うものがないとき、
人があなたの下から
寝床を奪い取ってもよかろうか。(箴言二二26―27)

昔から、人の保証人になったために一生立ち直れないような打撃に会った人の例は、多くあります。あなたの身近にも、そんな人がいるかもしれません。いいえ、あなた自身、そのような苦しい経験をしたことがおありかもしれません。
リビングバイブルでは、この聖書のことばをこうパラフレーズしています。「余分に払える金も持っていないのに、他人の保証人になるな。持ち物全部を犠牲にするのか。人はお前のベッドまで持ち去る」(英訳)。うかうかと、他人の保証人になってはなりません。もしなるのでしたら、三つのことを考えるべきです。
・ 最悪の場合、保証した額を自分で全部払えるか。
・ 自分が保証人になり、あるいはまた、払ってあげることで、その人がほんとうに助けられるのか。
・ その人をこのように助けるために、自分や家族の生活と将来とを犠牲にしてよい覚悟があるのか。
こう考える時、私たち一人一人のために、保証人となってご自分のいのちをかけ、十字架の上で血の値を払って、私たちを死とさばきから救い出してくださったイエス・キリストのことを思って愕然とするのです。そして、使徒ヨハネのことばを、かみしめてみます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ三16)。このことばと箴言のことばの間を、行ったり来たりしてみる必要を感じます。そして神の知恵をいただかなければならない必要を感じます。
自分の力や富のことだけを考えるなら、他人の保証人にならないほうが、やはり知恵なのではないかと考えます。どうでしょうか。

 


◆さて、イエスは山に登り、

2012年09月10日 09時03分36秒 | 聖書

ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。(マルコ三・一三)

ここに主権がある。性急なたましいは、しきりに心はやり、伝道の高い位置に召されていないことを怒るかもしれない。しかし読者よ。イエスが、お望みになった者たちを召されることを喜べ。もし私を主の家の門番とされるならば、私はお役に立つことができた恵みを思い、喜んで主をあがめるであろう。クリスチャンの主への奉仕の召命は上から来る。
イエスは山の上に立たれ、聖潔と熱心と愛と力とにおいて、常に世に抜きん出ておられる。主に召された者は、山によじ登って主のみもとに行かなければならない。不断に主と交わる生活をすることによって、主のレベルに到達することを努めなければならない。彼らが必ずしも大芸術家、大学者になれるとは限らない。しかしモーセのように山に登り、見えない神と親しく交わらなければならない。そうでないと、決して平和の福音を宣べ伝えるにふさわしい者とならないだろう。
イエスは父なる神と親しく交わるために孤独になられた。私たちも、もし同胞に祝福を与えることを願うならば、同様な神との交わりに入らなければならない。イエスと共に山上にいた使徒たちが下山した時、新たな力を受けていたことは驚くに当たらないことである。今朝、私たちは霊の交わりの山に登ることを努めなければならない。そこで、私たちが聖別された生涯の事業に任ぜられるためである。今日イエスにまみえるまでは、人の顔を見ないようにしようではないか。
イエスと共に過ごした時には幸いな利益がついてくる。もし私たちが、キリストのみが与えることのできる聖なる力を受けて世に出るならば、私たちも悪霊を追い出し、奇蹟を行うことができるであろう。私たちが天上の武器を入手するまでは、主の戦いに加わってもむだである。私たちはイエスにまみえなければならない。これを欠くことはできない。私たちは、ご自身を世に現されない主の顕現に接し、心から「私たちは聖なる山で主イエスとともにいた」と言うことができるまで、恵みの御座を去らないようにしよう。