座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

民数記15章37-41節

2012年09月13日 11時43分43秒 | 聖書

15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。」


イスラエルの民の着物というのは、通常、多くの時、1枚の布をとって、中央を丸く切ってからそれを頭からかぶり、腰のところでひもで結ぶ、そのような服でした。

 その服の四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけよというのです。

白い生地に青い色の糸でありますので、よく目立ちます。

青い色というのは、当時は高貴な色と受け取られていました。

ですから、そのことによって、神と神の戒めを思い起こすためであったのです。

 忙しくしていると、人は神様のことやその御心などを忘れてしまうことが多くあります。

そんな時、着物のふさについている青いひもは、自分たちが何を大事にしなければならないかということを、思い起こさせたのです。

 着物の房のところにつけることが、求められています。

人は歩く時、また働く時、よく下を見ます。

働いていても休んでいても目につくところにつけ、神の戒めに従って生きるべき自分が、そこで意識されたのです。


民数記15章32-36節

2012年09月13日 11時41分41秒 | 聖書

15:35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」


故意に罪を犯した者に対する刑罰は死刑であることの例証が、ここに語られています。

十戒では、安息日を聖としなさいという命令がなされていました。

それは同時に、その日は何も働いてはならないと言われていました。

神様を礼拝して、神のことを覚える聖なる日として、他の日から分けて守ることが命じられていました。

ところが、その日に薪を集めている人がいたのです。

彼は自分のために働きに出ていたのでした。

 この人に対する主の判定は、死刑でした。

律法の1点1画でも守られないことは、主の前では死刑に値するのです。

このような裁きに、人は耐えることができません。

義人は一人もいないからです。

神の前では、主の求める通りに律法を守り得る人はいないのです。

神の御子であられるイエス様は、私たちのために身代わりになって死んでくださいました。

刑罰を受けてくださったのです。

私たちが義とされるのは、ただこのお方の犠牲の死の故なのです。


◆まやかしの食物

2012年09月13日 11時35分31秒 | 聖書

あなたが支配者と食事の席に着くときは、
あなたの前にある物に、よく注意するがよい。
あなたが食欲の盛んな人であるなら、
あなたののどに短刀を当てよ。
そのごちそうをほしがってはならない。
それはまやかす食物だから。 (箴言二三1―3)

「目黒のサンマ」という話をご存じでしょうか。よく労働して体を動かし、健康な食欲があるなら、どんな質素なものを食べてもおいしく、栄養となるものです。しかし、ぜいたくな飽食は、のどに短刀を押しつけるような、人生のまやかしなのです。
私は、旅から旅の生活が多く、さまざまな家庭の食卓にも着かせていただきます。山海の珍味のおもてなしも、お心尽くしを感じてうれしいものです。しかし、そんなごちそうも、二度三度と続くと、すぐ体の調子はもちろんのこと、心のはずみまで狂ってしまいます。貧しいといっていいほどの質素な食卓を、神に感謝しつつ家族といっしょに楽しくかこんでいただく祝福を、私は、人一倍感じています。
私の尊敬する友人、イギリスのジョン・ストット博士から、「今度、シンプル・ライフ・スタイル(質素な生活態度)についてのカンファレンス(話し合い)をするから出席してください」というお招きを、一九八〇年の初めにいただきました。参加はできませんでした。しかし、神を知り、神の愛を知る者として、地球上に住む三分の一の人々が今も飢えている現状と、主キリストすら自らを喜ばすことをされなかったことを思う時、やはり、このシンプル・ライフ・スタイルの大切さを感じています。
イエス・キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一28)と言われました。しかし、またこうも言われたのです。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(一一29)。

 


◆彼らは涙の谷を過ぎるときも、

2012年09月13日 11時33分23秒 | 聖書

そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(詩篇八四・六)

この聖句は、一人の人の慰めがしばしば他の人に役立つことを教える。それはあたかも、泉が後に来る人々によって用いられるのに似ている。私たちは慰めに満ちた書物を読み、ヨナタンの杖のように蜜のしたたるような感を受ける。ああ、私たちは兄弟が先にここへ来て、自分たちのため、また私たちのためにこの泉を掘ったことを思う。多くの『嘆きの夜』『夜半の音楽』『永遠の日』『運命の曲折』『悲しむ者の慰め』などの書物は、巡礼者が自分のために掘った泉であるが、それが他の人にとってもきわめて有用であることが明らかになった。特に「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」とのことばで始まる詩篇を読む時、この感をいっそう深くするのである。旅人は人のいない岸を行くとき、人の足跡を見つけて楽しむ。そのように、涙の谷を過ぎる私たちは、そこに巡礼者たちの道しるべを見いだすのを喜ぶのである。
彼ら旅する者は泉を掘るが、不思議にも泉は下からわき上がらず、上から満たされるのである。私たちは手段をこらす。しかし、祝福は手段からはわき上がらない。私たちは泉を掘る。しかし、天が雨をもってそれを満たすのである。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。手段は目的に関係があるが、目的を生み出すものではない。見よ。天来の雨が池に満ち、泉に満ちて水をたたえ、私たちに役立つのである。骨折りは単なるむだではないが、それは神の助けに代わるものではない。
恵みは、その純潔において、蘇生させる力において、またそれが上からだけ下ることにおいて、その下るか否かが人の思いによらないことにおいて、雨にたとえられる。読者よ。あなたが祝福の雨を浴び、その掘った泉があふれるばかりの水をたたえるように。
ああ、天来の微笑みがなくて、手段や儀式に何の効果があろう。それらは、雨のない雲であり、水のない池である。愛の神様。天の窓を押し開いて、私たちに祝福を注いでください。