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民数記16章12-14節

2012年09月14日 09時11分44秒 | 聖書

16:12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。」


コラが250人の人々と共に、モ-セとアロンに逆らいました。

同じレビ族として、特に祭司の職務に関係しての指導権争いでした。

そこでモーセは、レビ族ではない、ダタンとアビラムのところに人を遣わしました。

彼等は、ルベン族に属しました。

レビ族とは関係のない人々でした。

 ところが彼等も、モーセに逆らいました。

コラ達のように、祭司としての職務に反対したのではありませんでした。

彼らは、モ-セが民を指導する立場にあることに、反発を持ったのです。

なぜ、あなた方は自分たちの上に立って君臨するのかと、文句を言ったことです。

 アロンとモーセは、主への奉仕者としての祭司職の面からも、また政治的な意味で指導者としての面からも、反感を持たれてしまったことでした。

あなただったらどうするのかと、今、問われるのです。


民数記16章1-11節

2012年09月14日 09時09分57秒 | 聖書

16:9 「イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。」


レビ族のコラという人が扇動して、250人の人々と共に、モ-セとアロンに逆らいました。

モーセのいとこでした。

身近な自分なのに、また自分たちもレビ人として聖なる者とされたのに、あなた方も同じレビ族の一員であるのに、なぜ、あなた方は自分たちの上に立って指導をするのかというのです。

 モーセもアロンも、自分でその務めについたわけではありません。

主が彼等をその務めに召されたので、その働きについたのです。

彼にとっては、ただ主の取り計らいのみが、判断の基準でした。

 偉さというのは、人の前での評価を得ようと考えると、ほしくなります。

しかし、人のことではなく、神様のことを考えると、それはどうでも良いことです。

ただ、主の御心に従うということが、大事なことだからです。



◆富を得ようと苦労するな

2012年09月14日 09時05分24秒 | 聖書

富を得ようと苦労してはならない。
自分の悟りによって、これをやめよ。(箴言二三4)

ある雑誌で、「幸福な家庭生活のための三本柱」を特集し、アンケートを有名人に出した結果をのせていました。多くの人が、「安定した経済」を三本柱の一つとしてあげていました。一生懸命働いて家族の生活を支え、病気や不時の災害に備え、人さまの世話にならず、かえって人さまの世話までできるようにするのは、うるわしい必要なことでしょう。
しかし、自分のために金をためることだけを人生の目標にしている人々も、世の中になくはありません。落語に、「黄金」というのがあります。金をためるためにのみ生きた男が、病気になり、死んでその金が人手に渡るのを惜しんで、あんころもちの中に金をくるんで飲みこみ、ついに窒息して死んでいく話です。
聖書の中でもヤコブは、金持ちになるために人生のあらゆるエネルギーを消費する、そのような金持ち志願者たちに、こう警告しています。少々長いのですが、読んでみましょう。富を得ようと苦労する者の後ろ姿が明らかです。「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました」(ヤコブ五1―5)。
キリスト・イエスは、私たちを富ますために貧しくなってくださった方です。

 


◆舟に乗っておられるままで、

2012年09月14日 09時04分09秒 | 聖書

イエスをお連れした。(マルコ四・三六)

その夜、イエスは海軍提督として、親しく一隊の船団を守られた。舟がどれほど小さくても、主と共に航海するのはまことによい。私たちがキリストの群れに加わって航海する時も、なぎばかりとは限らない。時には主ご自身の乗っておられる舟すら大風にもまれることがあるからである。したがって、私たちの小舟が波にもてあそばれることが少ないことを期待してはならない。私たちがイエスと共に行くならば、彼と同じ境遇に満足しなければならない。波がイエスに荒ければ、私たちにも荒いであろう。私たちが陸地にたどり着くのは、以前主が経験されたように、あらしの中を通って木の葉のように波にもてあそばれた後である。
あらしが暗いガリラヤ湖上に吹いたとき、人々は顔色を失い、今にも舟が難破するのではないかと恐れた。こうして一切の人間的な頼みの綱が切れたとき、眠っておられた救い主が起き上がって、一言で大あらしを静められた。そのために主が乗っておられる舟も、その他の舟も共に安きを得た。
イエスは海の星であられる。私たちの心がイエスをいかりとし、舵とし、灯台とし、救助艇とし、港とすることができますように。
主の教会は、提督の乗られる旗艦である。私たちはこの教会の集いに出席し、この旗艦の将校である教職者を励まそうではないか。常に私たちはイエスの航跡に従い、信号に注意し、主の海図に従って舵をとり、呼べば答えられる所におられる主を覚えて、決して恐れないようにしたい。護送船団のうち一そうたりとも、難破するものはない。大提督がすべての舟の一つ一つの舵をとり、目指す港へ安全に伴われるのである。
信仰によって、私たちはいかりづなを解いて航海に出る。そしてイエスと共に苦難の海に乗り出す。風波は容赦しないだろう。しかし、それらはすべてイエスに従う。だから、外にどんな突風が吹いても、信仰により、内には幸いな平和がある。ゆえに、私たちは主にあって喜ぼうではないか。主の舟はすでに港に入った。こうして私たちもまもなく港に入るであろう。

 


●解雇に関する基本的な考え方●

2012年09月14日 08時50分58秒 | 労働法

 解雇とは、会社からの一方的な労働契約の解除で、労働者の同意なく行われるものです。労働者から同意が得られた場合には、これは解雇ではなく、同意退職となります。もっとも会社からの退職勧奨に応じた結果退職となった場合には、その退職勧奨を強く行うなど、会社からの働きかけに従業員が応じざるを得ないような状況があったのであれば、その退職に従業員が不満を持ったときに、トラブルとなる可能性があります。
 しかし退職に同意した従業員が、後日改めて退職届を自発的に提出するなど、冷静に事態に対処したと認められる言動があれば、不当な退職勧奨であったと主張する余地は小さくなります。同意退職なのか、解雇なのかは、問題を解釈する上で極めて重要な判断となります。
 同意退職であれば、その同意に至るプロセスの問題であって、退職勧奨に行き過ぎが無かったのか、退職勧奨の方法が問われることとなります。
 一方、解雇と判断された場合には、解雇の理由が客観的かつ合理的であり、その解雇が社会通念相当であることが求められ、そうした要件を満たさないときには、解雇は無効という判断が法的になされます。
 この解雇の有効か無効かの判断は、最終的には裁判によって決着がつくもので、解雇された従業員がそうした法的解決手段を用いない場合には、会社の解雇は問題が無いことになります。また、その解雇に対して解雇された従業員が解雇予告手当の支払いを求める場合には、解雇を受け入れたものと判断する考え方もあります。それは解雇予告手当は、解雇を前提とした場合の労基法上会社が負う義務だからです。
 ですから解雇通告を受けた場合に、その解雇を受け入れられない労働者は、解雇の無効と、通常の賃金の支払を求めることになります。これに対して会社が解雇を主張する場合には、解雇予告手当を支払ってしまうことで、解雇を既成事実とさせると考える向きもありますが、解雇予告手当は解雇をする場合の労基法上の会社の義務であって、解雇の有効性判断とは関係がありません。
 もっとも解雇をしておきながら、解雇予告手当を支払わないような場合には、労基法違反であるだけでなく、解雇の有効性判断において会社が不利になる要素となる余地もあるでしょう。