13:22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。
彼らは偵察のために上っていって、南のネゲブからヘブロンへと入りました。
偵察した人がまず見たのは、そこに住んでいる民のことでした。
彼らは、アナク人の子孫であったと語っています。
アナク人というのは、巨人と言われた人々のことです。
首が長く、背の高い人々であったようです。
ヘブロンの町は、アブラハムなど族長の人々が葬られた所ですが、そこはまた同時に、このアナク人が建設した所でした。
また、さらに彼らが見たものは、豊かな果物でした。
いろいろな果実の他、大きなブドウの房のついた枝を見つけて、それを担いで持って帰りました。
彼らがすることは偵察です。
よく調べることです。
従って、大きなブドウの実は、1つの強い証拠になります。
しかし同時に、持ち帰ることができないことは、彼らが見たことを民に告げることによって、報告されました。
13:17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、
13:18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。」
モーセによって、12部族の代表である族長たちが遣わされたのは、彼らが民より先に約束の地であるカナンに入って、様子を偵察させ、その結果を報告させるためでした。
偵察の内容は、住んでいる住民のこと、土地のこと、町のこと、肥沃さや、木々の多さのことでありました。
その報告によって、主の民がこの地に入る時にどのように入ったらよいのか、またどのような決意が必要なのかということを、知るためでもありました。
神様がその地を与えてくださるという約束が既にあるのですから、調べるということは、その地に入る時に、どのような方法と決意とを持っていけばよいのかという戦略の問題であり、その備えをするためでありました。
つまり偵察の目的は、「いよいよ入るのだ」という、民の決意をさらに強めるためのものでした。
耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。
あなたの心を私の知識に向けよ。
これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。
これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。
あなたが主に拠り頼むことができるように、
私はきょう、特にあなたに教える。(箴言二二17―19)
神のことばに心の耳を傾けよ。神のことばを心の中にためておけ。いつもそれを口に唱えることができるように、暗唱せよ。そうすれば、いつでも神によりたのむことができて、力強く生き抜くことができる。――このようにいわれています。
神によりたのんで生きることを、多くの人は弱々しい女々しい生き方だと思っています。しかし、策略・金権・エゴなどの人間的な力にたよらないで、目には見えませんが、主の正しさ・きよさ・愛にのみよりたのんで生きることほど、勇敢で力強い生き方はないと、私は心の底から思います。
さて、いつでも神を神として認め、どんな時にも神によりたのむ方法があります。第一に、普段から神のことばに耳を傾け、第二に、その神のことばを心の中に蓄え、第三に、自然とくちびるにのぼるよう暗唱しておくことだと思います。
有名な、古い話があります。四十歳くらいの実業家が破産して、にっちもさっちもいかなくなりました。ある夜、神戸の六甲山で、いよいよ自殺を決行しようとしたのです。しばらく瞑想していると、自然に「すべて労する者・重荷を負う者、我に来れ、我なんじらを休ません」ということばが、くちびるから出てくるではありませんか。いったい、だれのことばだろう。いったいだれがこう言っているのだろう。――考えていると、やっと分かりました。何年か前、神戸の湊川の教会へ行って覚えた、聖書にあるイエス・キリストのことばだったのです(マタイ一一28)。その人は、自殺を思いとどまって帰り、また教会に行きました。そして、力強い新しい人生に向かって出発したのです(箴言三5―6参照)。
彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ二・一五、一六)
私たちは物を明白にするために光を用いる。クリスチャンはこの世において光り輝き、一週間も相手と共にいるならば、必ず福音を知らせるというようでなければならない。彼の会話は、それを聞く者のすべてが、彼はだれのものであり、だれに仕えているかを明確に知り得るものでなければならない。また日々の行動には、イエスの御姿が反映していなければならない。光は導くためにある。私たちは暗黒にいる周囲の人を助けなければならない。彼らにいのちのことばを伝えなければならない。罪人に救い主を指し示し、疲れた者に聖なる安息所を教えなければならない。人々は聖書を読みながらも、その意味を理解できない場合がある。ピリポのように、私たちは問う者に対して、いつでも神のみことばの意味と救いの道と信仰生活の何たるかを答える準備ができていなければならない。
光はまた警告のために用いられる。岩の多い所や浅瀬には必ず灯台が建てられている。クリスチャンは、この世の至る所に多くの偽りの光が輝いていることを知るべきである。したがって、正しい光が必要である。サタンの配下は、常に諸方を巡り、不信仰な者を快楽の名のもとに罪に誘惑している。偽りの光を掲げている。私たちは、すべての危険な岩に真の光を掲げ、あらゆる罪の一つ一つを指摘し、その結果がどれほど恐ろしいかを告げ、すべての人の血に対して責任のない者となり、世の光となって輝かなければならない。
光はまた人を非常に力づける。クリスチャンもそうである。口には親切なことばをもち、心には同情を抱いて人を慰める者でありたい。行く所に光をもたらし、周囲に幸いをまき散らさなければならない。
恵みの御霊なる主よ。私に宿ってください
そうすれば、私も恵みに進み
人を助け、いやすことばをもって
あなたのいのちを内に現し
雄々しく、柔和な行いで
救い主キリストを証しします
人事異動に関しては、会社からの命令であって「有無を言わさず」的なもののように感じますが、そのすべてが法的に有効とは必ずしも言えません。が、一般的には就業規則などに、従業員の配転命令に対する応諾義務などが規定されていることが契約上の根拠となります。
しかし契約上の根拠が就業規則に求められるとしても、その配転が組合員に対する不当労働行為となるものであったり、労基法3条の国籍、信条、社会的身分を理由とする差別的取扱いであるような違法なものであれば無効となります。
また、個別の労働契約で、職種や勤務地の限定がある場合には、会社による一方的な配転命令が認められません。しかしその限定があったのかについて、明確認められないケースも多く、これまでの配転の実態から、その合理性が判断されることもあります。
法律上、契約上の問題が無かったとしても、配転命令が認められない場合があります。それは、権利濫用となる場合です。
配転命令は会社の人事権限の範囲として、広くその裁量が認められていますが、だからと言っていかなる配転命令も有効であるわけではありません。このあまりに行き過ぎな配転命令については、権利濫用として無効と判断される場合があります。
この権利濫用かどうかの判断は、これまでの裁判例などから、次のようは基準が考えられています。
それは、業務上の必要性、労働者の受ける不利益の程度、不当な動機・目的の有無、配転命令に至る手続がきちんととられていたのか、などです。
こうした法律ではないが裁判で採用される考え方を「判例法理」と言います。これが極めて重要です。