21:21 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。
21:22 「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」
さて、このイスラエルの民が通ったアルノン川と言いますのは、その流れの先が死海の中央部に通じているものですから、彼等が約束の地に入るためには、さらに北に行ってから左に曲がって、ヨルダン川を渡るという方法をとらなければなりませんでした。
今までは国境を通ってきましたが、どうしても今回は、このエモリ人の国の中を通過しなければなりませんでした。
そこで、その国の王シホンに、その国の領地を通過させてくれという申し出をしました。
その時には、畑にもブドウ畑にも入らないし、また彼等の井戸の水も飲まないという約束を告げました。
こうして彼等は、何も損害を与えないという約束の下に、通過だけをさせてくれと頼んだのです。
彼はその通過を許可しませんでした。
侵略されると危惧したのです。
恐れのあるところ、疑いが生まれるのです。
もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
あなたの力は弱い。 (箴言二四10)
苦難(ツァーラー)の日とは、逆境にある日です。逆境の時に気がくじけ、絶望したらだめだ。そこから人生がくずれてくるというのです。自動車を何かにぶつけてへこませたまま放っておいたら、そこからペンキがはげ、さびてきて、ぼろぼろになってしまいました。人生もそのとおりです。気をくじいたところからくずれてきます。
悪魔が店じまいするので、自分の道具を売りに出しました。並べられた物の中で、一番ちびた、たがね(鋼鉄製ののみ)のようなものに一番高い値段がつけてあるので、「あれは何ですか」と聞くと、「絶望のたがねですよ。これを打ちこむとたいていの魂をやっつけることができる」と、悪魔がうそぶいたという話があります。
私たちは、逆境の時はどうすればいいのでしょうか。
第一に、「逆境の日には反省せよ」(伝道者七14)、また「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ五6)と、聖書は言います。まず自分を反省して、罪があったら徹底的に悔い改めることです。すると、神があなたを強くしてくださいます。
第二に、悔い改めができたら、もう思いわずらわず、一切を神にゆだねることです。聖書は言います。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ五7)。いつまでも思いわずらっていると、心がさびて、くさってきます。大胆に神にゆだねて、過去を忘れて新しく局面に立ち向かうことです。弱さの極限に立ちながら神を信じてその力によりたのむ者に対して、聖書は言います。「弱い時に強い」(Ⅱコリント一二9―10参照)と。
だれがあなたのようであろう。主に救われた民。(申命三三・二九)
ある人は、キリスト教は人をみじめにすると断言するが、キリスト教を全く知らないためにそのように言うのである。キリスト教が私たちをどれほどの地位に高めるかを見るならば、これが人をみじめにすると言うのは的はずれである。キリスト教は私たちを神の子とする。あなたは、神がすべての幸福をその敵に与え、ご自身の家庭のためには悲しみのみを残しておかれると思うのであろうか。キリストと関係のない罪人が幸福にあふれ、私たちは、何もない、物を乞う人のように嘆いていなければならないのか。そんなことはない。絶えず主にあって喜び、私たちの相続するものを光栄に感じている。それは私たちが、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼」ぶからである。
私たちは時には懲らしめのむちを必要とする。それは私たちのために働き、快い義の実を結ばせる。そのため「主に救われた民」である私たちは、救いの神にあって喜ぶ。私たちはキリストに結ばれた。それなのに、私たちの偉大な花婿がその配偶者を長く悲しませるということがあり得ようか。私たちの心は主に結合され、主の肢体となっている。そしてしばしばかしらである主がかつて苦しまれたように、私たちも苦しむかもしれない。しかし現在この瞬間にも、主にあって天の祝福によって祝されている。私たちは、相続の手つけとしてすでに少なくない聖霊の慰めを受けている。
私たちは永遠の喜びを相続する者として、私たちに対する分け前をすでに味わっている。私たちの永遠の日の出を告げる喜びの光は、すでに現れている。私たちの富は海のかなたにあり、堅固な土台の上に立つ私たちの都は、川の対岸にある。御国からの栄光の輝きは私たちの心を励まし、かつ促して前進を続けさせる。
「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民」との聖句は、実に至言である。
21:20 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。
国境にある所を通りながら、彼等はピスガにきました。
そこからは、約束の地の方向が見渡せるところです。
また、その所にくる前に、主はこの民に井戸を示されて、その井戸から水を飲むことができるようにしてくださいました。
今まで荒れ野を通ってきた時に、のどが渇いて不平を言っていた民に、慰めを与えてくれました。
約束の地に近づくにつれて、彼等の思いも、期待に燃えたことでしょう。
その期待にあわせるように、井戸の水を備えて、主は彼等に答えてくださったのです。
ピスガというのは、それほど高い山ではありません。
800メートルほどの高さです。
しかし、そこから約束の地であるカナンが見下ろせたのです。
いよいよ、自分たちのために約束してくださった、乳と蜜の流れる地を、彼等はその所から見下ろすことができるようにされました。
神の約束の言葉が、ここで実現されようとしたのです。
神は真実な方です。
ひとたび約束してくださったことは、必ず実現してくださるお方であるのです。
21:13 さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。
民は葦の海の道を南下して、エジオンゲベルに行き、そこから再び北上しました。
エドム人との争いを避けて迂回したのです。
ところでその後、彼等は、このモアブ人とその北にいたエモリ人との国境いの所にきました。
この国の境になっていたのが、アルノン川でした。
その北側に宿泊したと告げています。
川を渡って宿泊したことを告げています。
エモリ人というのは、昔からいた民です。
いろいろな民がいた所を通過しなければならなかったことですが、あまり摩擦が立たないように注意をして、それらの民族の間の境の土地を通過して行ったのです。
私たちの人生でも、いろいろな人に遭遇いたします。
キリスト者として歓迎をしてくれる人もいますが、そうでない人もいます。
注意をしながら、主にある道を進むのです。
ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、
なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。(箴言二三31)
これは、酒に魅せられた体験者のことばではないでしょうか。そうでなければ言えないような表現です。直訳すると、「ぶどう酒が赤く、その杯の中にその目を与え、まっすぐ行く時、それを見てはならない」となります。ぶどう酒が赤く輝き、ウインクするというのです。「ウインクされても見てはならない」とは、面白い言い表し方です。
酒におぼれて家庭を破壊し、自分でも死の苦しみをする人々は案外多くいます。救世軍中将山室軍平が酒の害をあげているのを見ましょう。健康を害する。能率を減退させる。人を愚かにする。人を短命にする。人を貧窮に追いこむ。人を犯罪に追いやる。家庭を破壊する。非行少年を出す。……と読んでいくと、ちょっとこわくなります。
何年か前のこと、もう夜の十二時近かった、からっ風の吹き抜けていく駅のホームで、ぐでんぐでんに酔っぱらった中年男が哀調を帯びたスーダラ節を歌っていました。奇妙なことに、時々思い出します。
チョイト一杯のつもりで飲んで
いつの間にやらはしご酒
気がつきゃホームのベンチでゴロ寝
これじゃ体にいいわきゃないよ
分かっちゃいるけどやめられない……。
ちょっとだけ、……これは悪魔がいつも口にする、ありふれた手口ではないでしょうか。ダビデも、屋上からバテ・シェバのヌードを見た時、やはり、ちょっとだけだと、バテ・シェバを召し寄せたことでしょう。ユダが、仲間の財布から金をくすねた時も、ちょっとだけのつもりだったでしょう。しかし、ダビデもイスカリオテ・ユダも、それではすみませんでした。自分の中にあるちょっとだけという心のメカニズムを反省してみる必要があります。
(ゼカリヤ一・八)
この章の幻は、ゼカリヤの時代のイスラエルの状態を記したものである。しかし、私たちに対する意義を考えるなら、今日の世にある神の教会について述べていると言えるだろう。
教会は谷底に繁茂するミルトスの木にたとえられる。心を留めて見ないと、それは隠れていて人目につかず、誉れを求めようともしないし、また注意をひこうともしない。教会は、そのかしらである主のように栄光をもつ。しかしその栄光は肉の目からは隠されている。教会がそのすべての光彩を放つ時は、まだ来ていないからである。
またこの聖句によって、私たちは平安を教えられる。それはあらしがどれほど山頂に吹きつけようとも、谷底のミルトスの木は静かだからである。ごつごつした岩の多いアルプスの高峰で暴風雨が猛威をふるう時も、神の都を喜ばせる川の流れる谷間では、静かな岸辺にミルトスの木が茂り、猛烈な風にも揺れ動くことはない。神の教会の内部の平静はなんとすばらしいものか。反対があり迫害があっても、教会はこの世の与えることのできない、またこの世によっては奪われることのない平安をもっている。人のすべての考えにまさる神の平安が、神の民の心と思いとを守っている。
この幻は、聖徒たちの平和な不断の成長を力強く表してはいないだろうか。ミルトスの木は落葉樹ではなく常緑樹である。そして教会も、最悪の事態に立ち至ってもなお幸いな恵みの緑を失わない。否、厳寒が来れば来るほど、ますますその緑を濃くする。最も厳しい逆境の時に、教会は最も繁栄した。
それゆえ、この聖句は勝利を暗示する。ミルトスの木は平和の象徴であり、かつ勝利を暗示する。勝利者の額はミルトスの木や月桂樹をもって飾られた。そして教会も常に勝利してはいなかったか。すべてのクリスチャンは、自分を愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となるのではないだろうか。聖徒たちは生きている時は平和の中におり、死んでからは勝利の腕の中に眠る者ではないだろうか。
リストラと言えば、人員削減という意味に使われるうようになり、整理解雇とほぼ同じ意味を持つことが少なくありません。もっともリストラと言っても配転や出向の場合もあるわけで、必ずしも解雇とならないこともありますが、そうした人事措置が「リストラ」というお題目の下で、無条件に認められるわけではありません。
リストラによる配転や出向の場合でも、その目的に対して労働者の受ける不利益が著しく大きい場合や、特定労働者の排除が目的であるような場合には法的に認められないことになります。
特に整理解雇は、従業員に何らかの問題があることが理由ではなく、会社側の一方的な都合によるものですから、普通解雇に比べて、より一層強い理由が必要になります。普通解雇の場合の要件は、客観的合理的な理由と社会通念上の相当性ですが、整理解雇はより具体的に4つの要件があります。
従ってこの整理解雇か普通解雇かによって、その法的な判断も大きく異なる可能性があります。
ですから、会社の人員合理化策に従って整理解雇が進められる場合以外でも、例えば、事業再編などによって、事業の一部の廃止や縮小などに伴って余剰人員が発生し、配転などができないことから解雇に至るような場合も整理解雇として位置づけることができます。
また、出向先企業の事業縮小や閉鎖などによって、出向社員を解雇するような場合も整理解雇と解釈できる場合もあります。
いずれにしても、こうした会社の経営上の理由による解雇の場合には、労働者に何らかの非があり、それを理由に解雇する場合と異なるわけですが、そもそも解雇は会社が一方的に労働契約を解除するものですから、その理由が労働者側にあったとしても、会社都合の離職ということになります。
ちなみに労働者の非違行為が甚大で、懲戒解雇となった場合には、これも確かに会社都合の離職ですが、雇用保険を受給する上では、自己都合退職と同様の取扱になってしまいます。
会社から従来の労働条件と異なる労働条件(これはたいてい不利益な変更でしょう)が呈示され、これに同意しなければ契約は解除する、すなわち解雇であると言われることがあるかもしれません。これが「変更解約告知」と呼ばれるもので、日本ではこの解釈の仕方が分かれています。
「変更解約告知」は、条件を受け入れるか、拒否して解雇されるかの二者択一しかありません。そのため、不利益な条件変更に対して、労働者がこれを拒否すれば解雇されるため、この変更を事後的に争うことを留保しつつ、この条件変更に一旦合意して雇用を維持することができるとするのが「変更解約告知」の考え方なのです。
一方、民法528条では、「承諾者(=労働者)が申込み(会社からの条件提示)に条件(変更の合理性を事後的に争うこと)を付し、その他変更を加えてこれを承諾したときは、その申込みの拒絶」とされているため、そもそもこうした考え方が成り立たない、とする解釈があります。
これまでの裁判例では、不利益な条件変更に応じなかった労働者の解雇は、整理解雇として解釈される傾向があります。つまり不利益な労働条件の変更は、リストラの必要性が高いことが前提であるとして、整理解雇の4要件のうち、とくに解雇回避努力を尽くしたのかが問題となっています。条件変更を拒否したことをのみを持って解雇するのではなく、その前に希望退職者の募集などを行っていたのかという点が重要ということです。
ということは、変更解約告知として、会社からの一方的な条件変更呈示と、その拒否に対する機械的な解雇は、整理解雇の考え方から、解雇無効とされる可能性がきわめて高いことになります。
ちなみに労働条件の不利益変更は、就業規則の変更によって行うことで、合理性要件を満たすことを前提に、明示の合意無しに労働条件変更が可能になります。この変更解約告知は、こうした就業規則という統一的画一的なろろ労働条件ではなく、個別的な労働条件の変更に適していると考えられます。
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
民がホル山から南の方に向かう途中、民は神とモ-セに逆らいました。
マナという食べ物を与えられていたのですが、それが飽きてしまったというのです。
また、荒れ野で水がないというので、文句を言いました。
そこで、主は彼等に怒りを発せられて、燃える蛇を送られて、彼等を殺されました。
そこで民は驚いて、自分たちの罪を悔い、助けてくれと願いました。
そこでモ-セが神様に祈った時、青銅の蛇を作って、それを旗さおの上につけなさいと言われました。
そして、それを仰ぎ見る者は生きると、言われました。
実際、モ-セがそのようにしたところ、民の内でこの蛇を仰いだ人は、その滅びから助けられて、生きることができました。
神様が助けを与えてくださったのです。
イエス様は、この蛇を仰いだように、イエス様を救い主として信じて仰ぐ者は、救われることを語っています。
それは、イエス様を通して与えてくださった、罪の贖いによる、神様からの一方的な恵みなのです。
21:3 主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。
イスラエルの民が滞在していた地域に、カナン人がいました。
その王は、自分たちの住んでいる所の道にイスラエルの民が進入してくるのを知って、この民を襲ってその幾人かを捕虜としました。
そこでイスラエルの民は、神に願って、自分たちがこの民と戦って勝利を得ることができるように守ってくださるのなら、私たちは彼等を聖絶いたしますと誓って、祈りました。
主は、彼等の願いを聞き入れてくださいました。
そこで民は、彼等の地に入り込んで、彼等を滅ぼし尽くしました。
彼等はなぜここで、このカナン人を聖絶いたしますと言ったのでしょう。
それは、このイスラエルの民が、自分たちは神に仕える民であるという認識を改めて持つためでした。
つまり、本来彼等は、あまり武力を持たない民でした。
しかし、主が共にいてくださるならば、何も恐れるものはないという信仰を、ここで表したのです。
わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
ゆえなく傷を受ける者はだれか。
血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、
混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。(箴言二三29―30)
酒に、自分というものの支配権・コントロール権を売り渡してしまった酔っぱらいの姿が、絵のように描かれています。故人となった落語家の圓生あたりにこの聖書のことばをテキストとして演じさせたら、泣き上戸・けんか上戸・ぐち上戸の目の血走った姿を、さぞかしじょうずにやってのけるだろうと思います。
二三章の後のほうを見ますと、異様なものを見たり聞いたりする幻聴幻覚、ねじれごとをしゃべる放心状態、もうどうにもならないのにもっと飲みたいという飢餓状態も描かれています。「一杯人酒を飲み、二杯酒酒を飲み、三杯酒人を飲む」とは、うまいことを言ったものです。酒は口から飲むのに、全身にまわって、手も足も口も酒が支配し、手が舞い足が踊り口が歌い出します。ギリシャの賢人ダイオゼニスは、つがれた酒をすぐ地面にこぼして捨てるので「惜しいじゃないか。むだにして」ととがめられ、「それでも酒を飲んで、私と酒の両方をむだにするよりましだ」と言ったと聞きました。
新約聖書は、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(エペソ五18)と言っています。神の御霊に満たされて酔え、酒に酔っぱらうなというのです。しかし、エゴが支配していてはできないことです。
口は賛美の歌うたい
手は喜びの舞いを舞い
足は奉仕の道を行く
人は、陶酔を求めます。神の愛と喜びの中に、最も高貴な陶酔があるのではないでしょうか。
イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ三・二六)
私たちは信仰によって義と認められたため、神との平和をもっている。良心はもはや私たちを責めず、さばきも今や罪人に不利とはならない。記憶は過去の罪を顧みて深くそれを悲しむが、来るべき罰を恐れない。キリストが神の民の負債を支払って、神の領収書を受け取ってくださったからだ。だから神が一つの負債に対して二重の支払いを求めるほど不条理な方でない限り、キリストが身代わりになって死なれたたましいが、一人でも地獄に落ちることはあり得ない。
神を義なる方であると信じることは、御霊によって啓発された性質の根本原則の一つである。私たちは神が義でなければならないと感じる。これは初めは恐怖をもたらす。しかし、神は義であるというこの同じ信仰が、後に私たちの確信と平安の柱になるとは驚くべきことである。神が義であられるなら、罪人であり、身代わりのない私は滅びるよりほかはない。しかし主は私の代わりに立ち、私のために罰を受けられた。それゆえに、神が義であるならば、キリストにあって立つ罪人の私は、今や罰せられることはない。主が身代わりとなられたたましいに律法を適用する余地はなく、神はそのたましいの前に態度を変えられるのである。
罪の結果当然受けねばならない神の怒りのすべてを、主が身代わりになって受けられたために、信者は「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」との勝利の叫びをあげることができる。訴えるのは神ではない。神は私たちを義とされた。訴えるのはキリストでもない。主は私たちのために死に、よみがえられた。
私は自分が罪人でないから希望をもつのではない。私は罪人であり、主が私のために死んでくださったので、希望をもつのである。私の信頼は自分の聖さにではなく、主が汚れている私の義となられたことにある。私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんなことをなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある。義の獅子の背に、希望という美しい少女が女王のように座している。
真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と悟りも。 (箴言二三23)
私は、このことばを読んですぐ、イエス・キリストのなさったたとえ話を思い出しました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ一三44)。持ち物全部を売り払っても買いとるべき、人生の宝とは何でしょうか。イエス・キリストはそれを「天の御国」と言い、この箴言では「真理」と言っています。
岡井久子さんという方は、現代のヨブとでもいうべき方です。脳性麻痺とてんかんと筋ジストロフィーの三つの病気を負っておられます。幼い時に父に捨てられ、唯一の友だった亀にも死なれ、ただ一人のたよりだった母親にも先立たれました。天涯孤独となって、施設のベッドに横たわるだけの人生でした。
ところが、この岡井久子さんが病床で、一つの真理を発見したのです。神がいらっしゃる。神が愛していてくださる。私を生かして、尊い使命を与えていてくださる。やがて神が、苦しみも暗やみも涙もない、永遠の輝く御国に自分を連れていってくださる。――キリストにあってこの神の愛の真理を見いだした時、岡井さんは絶望をふりすてて、希望を手にしました。うらみや嘆きに代えて歌をとりもどしました。無為に過ごす代わりに、祈りを与えられました。病床でつづった数々の輝かしい詩は、『ヨブの涙』という本になって出版され、療養者文学賞まで獲得しました。イエスが言われたとおり、岡井さんを「真理が自由にした」(ヨハネ八32参照)のです。
この無上に尊い真理は、金や努力や知識で買うのではありません。神なき自我の道からまわれ右して信じるという、悔い改めと信仰という値を払えば、金なくして、だれの手にも入るものなのです。
20:25 「あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。
20:26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」
先の箇所で、モーセとアロンが神様の栄光を表すことしなかったために、カナンの地に入ることができないと言われました。
そして今、そのアロンが死ぬ時を迎えることとなりました。
エドムの土地にある、ホル山に登るように命じられました。
その時に、アロンの息子のエルアザルを連れて行くように命じられ、彼にアロンの服を着させるように命じられました。
大祭司としての職務を、彼に継承させるためでした。
アロンはその山で死にました。
アロンのような大きな働きをした人が、約束の地を見ることができないということはつらいことです。
しかし、彼はその責務を問われたのです。
彼が救われなかったというのではありません。
これから新しい地に入っていく時に、主は、主の御心に従って歩むところの人を改めて立てて、民の心を備えさせたのです。
主の御心に従って歩む人が、新しい歩みで、求められたのです。