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民数記21章31-35節

2012年09月27日 14時45分06秒 | 聖書

21:33 さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。


イスラエルの民は主の助けによって、彼等の通過を遮るエモリ人の王シホンを撃破しました。

そして、さらに北へと向かいました。

ところが、そのことに気がついた、エモリ人の北方に位置していたバシャンの王オグが、このイスラエルの民の侵入を食い止めるために、攻撃を仕掛けて参りました。

イスラエルの民に取りましては、戦いになれている民ではありませんから、多くの不安があったことです。

しかし主は、民に向かって戦えと言われました。

主が共にいて勝利を賜るからだと言われるのです。

彼等はそれを信じて戦いました。

その結果、ついにその民をも滅ぼして、その地を征服しました。

エモリ人との戦いといい、またバシャンの民との戦いといい、彼等には思いもかけない戦いであったでしょう。

しかし、主が助けてくださったのです。

信仰の戦いも同じです。

時には、多くの困難を目の前にします。

しかし、主の約束を信じて、戦うのです。


民数記21章21-30節

2012年09月27日 14時42分39秒 | 聖書

21:21 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。
21:22 「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」


さて、このイスラエルの民が通ったアルノン川と言いますのは、その流れの先が死海の中央部に通じているものですから、彼等が約束の地に入るためには、さらに北に行ってから左に曲がって、ヨルダン川を渡るという方法をとらなければなりませんでした。

今までは国境を通ってきましたが、どうしても今回は、このエモリ人の国の中を通過しなければなりませんでした。

そこで、その国の王シホンに、その国の領地を通過させてくれという申し出をしました。

その時には、畑にもブドウ畑にも入らないし、また彼等の井戸の水も飲まないという約束を告げました。

こうして彼等は、何も損害を与えないという約束の下に、通過だけをさせてくれと頼んだのです。

 彼はその通過を許可しませんでした。

侵略されると危惧したのです。

恐れのあるところ、疑いが生まれるのです。


◆気落ちするな

2012年09月27日 14時34分45秒 | 聖書

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
あなたの力は弱い。        (箴言二四10)

苦難(ツァーラー)の日とは、逆境にある日です。逆境の時に気がくじけ、絶望したらだめだ。そこから人生がくずれてくるというのです。自動車を何かにぶつけてへこませたまま放っておいたら、そこからペンキがはげ、さびてきて、ぼろぼろになってしまいました。人生もそのとおりです。気をくじいたところからくずれてきます。
悪魔が店じまいするので、自分の道具を売りに出しました。並べられた物の中で、一番ちびた、たがね(鋼鉄製ののみ)のようなものに一番高い値段がつけてあるので、「あれは何ですか」と聞くと、「絶望のたがねですよ。これを打ちこむとたいていの魂をやっつけることができる」と、悪魔がうそぶいたという話があります。
私たちは、逆境の時はどうすればいいのでしょうか。
第一に、「逆境の日には反省せよ」(伝道者七14)、また「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ五6)と、聖書は言います。まず自分を反省して、罪があったら徹底的に悔い改めることです。すると、神があなたを強くしてくださいます。
第二に、悔い改めができたら、もう思いわずらわず、一切を神にゆだねることです。聖書は言います。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ五7)。いつまでも思いわずらっていると、心がさびて、くさってきます。大胆に神にゆだねて、過去を忘れて新しく局面に立ち向かうことです。弱さの極限に立ちながら神を信じてその力によりたのむ者に対して、聖書は言います。「弱い時に強い」(Ⅱコリント一二9―10参照)と。

 


◆しあわせなイスラエルよ。

2012年09月27日 14時33分34秒 | 聖書

だれがあなたのようであろう。主に救われた民。(申命三三・二九)

ある人は、キリスト教は人をみじめにすると断言するが、キリスト教を全く知らないためにそのように言うのである。キリスト教が私たちをどれほどの地位に高めるかを見るならば、これが人をみじめにすると言うのは的はずれである。キリスト教は私たちを神の子とする。あなたは、神がすべての幸福をその敵に与え、ご自身の家庭のためには悲しみのみを残しておかれると思うのであろうか。キリストと関係のない罪人が幸福にあふれ、私たちは、何もない、物を乞う人のように嘆いていなければならないのか。そんなことはない。絶えず主にあって喜び、私たちの相続するものを光栄に感じている。それは私たちが、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼」ぶからである。
私たちは時には懲らしめのむちを必要とする。それは私たちのために働き、快い義の実を結ばせる。そのため「主に救われた民」である私たちは、救いの神にあって喜ぶ。私たちはキリストに結ばれた。それなのに、私たちの偉大な花婿がその配偶者を長く悲しませるということがあり得ようか。私たちの心は主に結合され、主の肢体となっている。そしてしばしばかしらである主がかつて苦しまれたように、私たちも苦しむかもしれない。しかし現在この瞬間にも、主にあって天の祝福によって祝されている。私たちは、相続の手つけとしてすでに少なくない聖霊の慰めを受けている。
私たちは永遠の喜びを相続する者として、私たちに対する分け前をすでに味わっている。私たちの永遠の日の出を告げる喜びの光は、すでに現れている。私たちの富は海のかなたにあり、堅固な土台の上に立つ私たちの都は、川の対岸にある。御国からの栄光の輝きは私たちの心を励まし、かつ促して前進を続けさせる。
「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民」との聖句は、実に至言である。