16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。
16:32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。
神様がどのように裁きを行われるのかは、よくわからなかったかもしれません。
しかし裁きは、実際に主が語られたとおりに行われました。
モーセが彼等に、あなた方が主を侮ったことを知らなければならないと言った時、地面が割れて、主による裁きが行われました。
地面が割れることによって、彼等は皆、地に飲み込まれてしまいました。
後には、あの250名の人々も、主から火が出て、焼き滅ぼされてしまいました。
神による裁きがどのように行われるのは、私たちにはわかりません。
わかることは、その裁きは、確実に行われるということです。
従って大事なことは、裁きが行われる前に、悔い改めて主に立ち返るということです。
裁きがいつ来るのかといって侮っていると、とんでもない時にその時を迎えることになるからです。
ですから、いつも主を見つめて、主と共に歩むべきなのです。
16:26 そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」
ダタンとアビラムの所にいた会衆達に、モ-セは告げました。
この悪者どもの天幕から離れよと。
それは、神様が彼等を滅ぼされるからでした。
彼等と一緒にいた人々は、モ-セの声を聞いて、その天幕から離れ去りました。
当初は、ダタンらの声が耳に入りましたが、今はモ-セ達の語る声を聞いて、それに従ったのです。
ですから、彼等はその天幕から離れたのです。
神様は、人を裁かれる方です。
しかし主は、まず御言葉によって、忠告を与えられます。
罪を犯し続けて、それを悔い改めないならば、裁かれると告げるのです。
バプテスマのヨハネも忠告をしました。
悔い改めよと。
そして、その声を聞いて罪を悔い、主の言葉に聞き従った人々は、救いを得ました。
私たちもそうです。
罪を聖書から指摘された時に、その罪を悔いて、イエス様による罪の赦しを信じて、頼っていく時に、赦されるのです。
16:22 ふたりはひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」
神様はモーセとアロンに、神の御心を無視するコラとダタンとアビラムや、その反抗に手を染めている人々のみならず、イスラエル民全体を裁かれることを告げました。
しかし、そのことを聞いたモ-セは、神様に祈って、一人の人が罪を犯せば、民全体が滅ぼされるのですかと言って、他の関わりのない人々の滅びを取り消してくださるよう、神様に訴えました。
その結果、神様はその願いをお聞きくださって、関わった人々のみを滅ぼされることを告げました。
人間の罪に対する裁きは、すべての人が罪を犯していますので、逃れることはできません。
罪を犯した魂は死ぬと言われているとおりです。
しかし、実際的な個別の罪に対しては、その罪を犯した人が、責任を負うことが語られています。
つまり神様は、それぞれに個別に犯した私たちの罪に対しても、責任を問われるのです。
逃れるすべはありません。
イエス様の下に、すぐ行くべきです。
16:16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、主の前に出なさい。」
多くの人々から反抗を受けたことは、モ-セとアロンにとっては、不快なことでありました。
しかし、自分でこの働きについたわけではありません。
主がそのように命じた結果、こうした立場にたたされたのです。
モ-セは、当初はこうした働きは自分にはできないといって、召してくださった主に断ったほどでした。
従って、どちらが正しいのかという判断は、主がそのように立たせたのですから、主に訴えて、主によって裁いていただくほかはありません。
そこで、モ-セはこのことを、主に裁いてくださいと申し出たのです。
私たちにも、教会でいろいろな問題が出る時があります。
そうした時の裁きと判断の基盤となるのは、世の常識でも、あるいは学識ある人の判断でもなく、神の言葉です。
つまり、聖書です。
聖書を通して、御言葉による理解から、信仰的な判断を得ることが必要です。
それができるように、いつも御言葉に親しむことです。
貪欲な人の食物を食べるな。
彼のごちそうをほしがるな。
彼は、心のうちでは勘定ずくだから。
あなたに、「食え、飲め。」と言っても、
その心はあなたとともにない。 (箴言二三6―7)
森の石松の「さあ、食いねえ飲みねえ。神田の生まれだってね」とは違った「食いねえ。飲みねえ」が描かれています。それにひっかかって、思わぬ疑獄事件に連なり、牢獄の中で悔やんだ人もありました。
ここで「貪欲な人」と訳されている原語は、「善意の人」が「目の良い人」であるのに対し、「目の悪い人」ということばです。そういう人は、自分の肉の欲望に目がくらまされているので、人の心の中の必要も、自分の心の奥底にある必要も、神も永遠も見えません。そのような人は「勘定ずく」の人ですし、「その心はあなたとともにない」人なのです。
私は、「勘定ずくでない人」「その心が、私の心と共にいてくださる人」にお会いしました。そして、新しい人生の夜明けを知ったのです。争いの絶えない冷たい家庭の中で、何のために生きるのかが分からず、私は、むなしい寂しい心でいました。そのために極度に人間ぎらいになり、神や仏まで、「勘定ずくだ」と考えていました。十六歳の春の雨の晩に、思いきって入ってみたいなかの教会で、私を愛し、そして愛するあまり、私の罪の身代わりになってくださったお方にお会いしたのです。
ペテロも、そのお方に会って、こう告白しています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ二22―24)。
(詩篇一一二・七)
クリスチャンよ。悪い知らせを恐れてはならない。もしあなたが悪い知らせに悩むとすれば、未信者よりも劣るからである。彼らは、あなたのように逃れることのできる神をもたない。またあなたのように神が忠実であることを体験していない。彼らがおびえ、恐怖のために取り乱すとしても当然である。あなたは彼らと異なった存在であると公言している。あなたは生ける望みの中に新たに生かされ、すでに心は天上に生き、地上のことに煩わされない者とされている。それなのにあなたが未信者のようにおじまどうならば、その受けたと公言する恵みの価値はどこにあろう。所有しているという新しい性質の力はどこにあろう。
さらに、もしあなたが他の人々のようにあわてふためくとすれば、試練の中にいる人が犯す罪に必ず陥るであろう。不信仰な人たちは、悪い知らせに圧倒される時に神に逆らう。彼らはつぶやき、神が虐待するのだと思う。あなたも同様な罪に陥ることを望むのか。彼らのように主なる神の怒りを買うことをしたいのか。
まだ回心していない人々は、悪い手段に訴えることによって困難から逃れようとする。あなたの場合も、もし現在の圧迫に敗れるならば、同様の結果を見ることになるだろう。主に信頼を置いて、忍耐強く主を待て。あなたにとって最善の道は、モーセが紅海でしたように「しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見る」ことである。なぜなら、あなたが悪い知らせを聞いて恐れるならば、自分の義務を自覚し、逆境に耐え、冷静に事に当たることができなくなるからである。もしあなたが臆病風に取りつかれるならば、どうして神の栄光を現すことができよう。聖徒たちはしばしば猛火の中にあって神を賛美した。しかし、何ものも頼りにならないかのように、疑い、気落ちしているとすれば、あなたはいと高き方をあがめることになるだろうか。雄々しくあれ。あなたの契約の神の誠実に、さらにより頼め。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」