それは、はからずもエリメレクの一族に属す
るボアズの畑のうちであった」(ルカ2:3)
ルツは、夫の死後、自らの実家へ帰るようにとの、姑ナオミの強い勧めにも関わらず、ナオミについて、ベツレヘムにやって来た。
それは「あなたの神は、私の神」と、ナオミの背後の、まことの生ける神を見ていたからであった。
戻ったが、生計を立てねばならず、ルツは落ち穂拾いに出ることを申し出た。
ナオミの了承のもと「たまたま」入った畑が、ボアズの畑であった。
しかし、この背後に神の大いなる御手が働いていて、神の摂理のもとにあった。
やがてルツの真摯に働く姿がボアズの目に留まり、ボアズの親切と好意を受けることになる。
そして、最終的には結婚に導かれる。
これらすべての事が、背後にある神の導きであり、ご計画であった。
神に立ち返ろうとナオミが決心し、行動を起こした時が、「たまたま」大麦の刈り入れの始まった時期であり、ボアズの畑にいると、普段は来ないボアズが「たまたま」やって来て、ルツと出会う。
すべてがパズルのようにつながって行く。
私たちの信仰人生も同様だ。
大いなる御手の支配の中に置かれている。
今置かれている場、出会う人々、目の前に与えられた仕事、起こる出来事、一つ一つが「たまたま」「はからずも」の積み重ねだ。
それら一つとして偶然は無く、神が目的と意図を持ってそうされたのであり、ご計画だ。
そこに視点を向ける時、大いな御手を見、大いなる愛に出会う。
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一羽の雀さえ、父の許しなければ地に落ちず、一つの偶然もなく、人生のいっさいがっさいが、完璧な御手の内とは、何と平安だろう。
主の愛に包まれている。
一歩先しか見えないがご計画を信じている事ができる。
聖アントニオ修道院長
251年ごろ-356年
アントニオは、エジプトの裕福な地主の家に生まれ、信仰深く育てられた。18歳で両親に先立たれた後、キリストの生活に倣おうと、遺産を貧しい人々に与え、砂漠に行き隠遁生活を始めた。祈りと黙想をし、そして手仕事によってわずかな日用の糧を得ていた。彼は、孤独と禁欲の苦行のなかにあって、度々襲ってくる誘惑を常に克服していった。また多くの隠遁者を訪ね、彼らの長所に倣おうと努めた。アントニオの評判は広まり、人々が指導を求めて集ってきたので、隠遁者の集落ができた。これはまだ組織化されていなかったが、キリスト教修道生活の基盤となり、隠遁者の集落から次の段階の共同生活をする修道院となる時代へと移ってゆく。
アントニオは、アレキサンドリアの司教アタナシオと親交があり、アリウス派の異端に対して正統信仰を擁護した。アタナシオが著わした『聖アントニオ伝』(357年ころ)は、修道生活の理念を西方に伝えたものとして重要であり、アントニオは「修道生活の父」といわれている。
思慮があなたを守り、
英知があなたを保って、…… (箴言二11)
分別とは、表面だけでなくて、中味が分かる心です。あの人はカンカンに怒っているけれど寂しい人だ。あの人はいばっているけれど、不安な人だ。愛してあげよう、ゆるしてあげよう、助けてあげようと、中味が分かる心です。
C・H・トイという人は、思慮とは「物事を計画する心である」と言いました。究極的な目的を見極めて、それに向かって手を打っていく心です。
こんな話を聞きました。アメリカのニューオーリアンズで孤児院を経営していたアルゲリートという勇敢な女性の話です。
孤児院の経営は大変なことでした。ある日彼女は、町の酒場へ寄付をつのりに行きました。一人の酔っぱらいが「うるせぇ。人がせっかくいい気持ちでいるところへ、そんな不景気なつら出すな」と叫んだとたんに、コップが飛んできました。アルゲリートの額に当たりコップは割れ、額は血だらけになったのです。彼女は血をハンカチでぬぐい、壊れたコップをハンカチで包みました。そして、「ありがとうございました。このコップは私への贈り物としていただきました。さて、身寄りのない孤児のために何をいただけるでしょう」と、にこやかに話しかけました。人々は先を争ってお金を出し始めました。その酔っぱらいは席を立ちましたが、「孤児のために」と書いた多額のお金がテーブルの上に残されていたそうです。
私たちは、かっとなってすぐ怒ったり、ちょっとのことで失望してしょげかえります。しかし神を心に受け入れるなら、思慮が与えられ、人生ががっちりと守られ、生きがいが分かってきます。
主にある友よ。ここにあなたの喜びがある。あなたは小羊を知り、また見た。涙に曇った目で、世の罪を取り除く神の小羊を見た。だから喜べ。やがてあなたの目から涙がぬぐわれる時、同じ小羊が王座に座しておられるのを見るだろう。日ごとにイエスと交わるのはあなたの心の喜びであるが、天においてさらに深くその喜びを味わうだろう。あなたは絶えずイエスの御前にあり、永遠にイエスと共に住むのである。
「私は見た。見よ。小羊が……立っていた。」それもそのはず、小羊は天そのものであられる。ラザフォードが言ったように、天とキリストは同じである。そして、キリストと共にいることは天にいることであり、天にいることはキリストと共にいることである。主のために囚人となった一人の人は、その熱情あふれる手紙の中で、次のような美しいことばを記している。
「私の主キリストよ。もし私があなたなしに天上にあれば、それは地獄です。もし私が地獄にあり、あなたと共にあるならば、そこは私にとって天国です。あなたが、私の求めている天国であられるからです。」
これは真理である。主にある友よ。そうではないだろうか。あなたのたましいはそう言わないのか。
神がその住居を移されたら
またその御顔を隠されるなら
天上のすべてのたてごとも
そこを天国にすることはできない
あなたを幸福にするために必要なものは「キリストと共にある」ことである。
16:7 そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。」
王のアサは、北の国の侵入をダマスコの王に頼んで防いだことで、戦略勝ちをして気分が良かったことでしょう。
ところが、預言者のハナニが彼の元に来て、彼を責めました。
あなたはアラムの王により頼むことによって、主により頼むことをしませんでした、と告げたのです。
私たちは主にお願いしつつ、力のある王により頼むということをしたのであろうと思うのです。
いわば現実的な力関係を見て、それに頼ったということを見るのです。
ところがハナニは、それは不信仰であると告げました。
主により頼むということは、主にのみより頼むということだと語ったのです。
そして苦しくても、自ら主を頼って戦うことでした。
主の方にのみ心を向けている人を主は喜ばれる、と告げたのです。
イスラエルの民は、主を礼拝しながら、同時に偶像に寄り頼むこともしました。
これと同じ行為であったのです。
★私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ』と言われた。
■O:今日のコラム
自分の家族全員を連れ、全財産を持って、ラバンの所から逃げ出したヤコブ。
ラバンに追いつかれてしまいますが、なんとその前に、神様御自身がラバンに圧力をかけて(!)くださり、ヤコブは何の害を受けることもありませんでした。
アブラハム、イサクと同様、ヤコブも神様の好意を受けた人でした。
ヤコブは、なぜ、これほど神様の好意を受けていたのでしょう。
兄のエサウとのやりとり(創世記25:31-34)を思い出すと分かりますが、ヤコブは霊的な事柄に関心があり、「長子の権利」の価値をよく分かっていました。
ある聖書解説には、「長子の権利」=二倍の相続権、家督権、霊的リーダーの権威、とありました。
ヘブル12:23には「天に登録されている長子たちの教会」という表現もあります。
とにかく、長子の権利とは、神様の視点で見ると非常に重要な事柄なのだと思います。
さらにヤコブは、ヤボクの渡しで神と格闘し、その時も、「私を祝福してくださるまでは離しません」と言っています。
神様の好意を受けていた人、ヤコブは、神様からの霊的な報いを求めた人でした。
神様の祝福がどうしても欲しかった人でした。
地上の富や特権を自己中心的に得ようとする人は、他の人からは浅ましいと思われ、神様の祝福も逆に逃してしまいますが、霊的な事柄は違います。
マタイ11:12
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
神様は求める者を喜び、報いてくださるのです。
神様の約束を大切にし、神様からの報いに価値をおいて、それを求める人を、神様は祝福し、好意を注いでくださいます。
ある伝道者の話を読みました。
その人は、失われ行く魂に対する憐れみの心と情熱に燃え、あらゆるものを犠牲にして、何時間もかけて険しい道を旅しては、神が示してくださったそのグループの人たちに福音を伝え続けたそうです。
ある時その人の友人が、「よくそこまでするね。自分だったら、◯○ドル(数字を忘れましたが、何千万円のような多額の金額)もらっても、やらないよ。」と言った時、その伝道者は、「ぼくだって、○○ドルじゃやらないよ。」と答えたそうです。
この伝道者は霊的な報いの価値を知っていました。
彼が求めていた霊的な報いとは、失われて行く魂を御父の元に連れ帰る、刈り取る、という祝福だったと思います。
ヤコブが求めていた霊的な報い、神様からの祝福とは何だったのでしょう。
ヤコブは、祖父アブラハム、父イサクが神様を信じ、愛し、従い、神様の祝福がその生活すべての領域に及ぶことを見ました。(あるいは伝え聞きました。)その上で、彼はこの神様の祝福が自分も欲しい、と願ったのです。
ヤコブには、苦しいこと、辛い事、大変なこと、ショックを受けること、痛みを感じることもたくさんありました。でも、彼は、神様がよい方であることを疑って、祝福を手放したくなかったと思います。
そして、その信仰の通りに、神様はヤコブに好意を注ぎ、祝福を与えてくださいました。
■A:考えてみよう
今、辛いこと、苦しいこと、痛みのあること、大変なことがあるだろうか。神様はヤコブを通して、自分に何を教えようとしてくださっているのだろうか。
■P:祈り
全能の造り主なる偉大な神様。憐れみ深く情け深い、真実な、良き父なる神様。
私の人生を祝福してください。
私はあなたからのよいものを受けるにふさわしい者ではありませんが、あなたの義のゆえに、あなたの真実のゆえに、イエス様の十字架のゆえに、私の病を癒し、心を癒し、人間関係を回復し、経済を祝福し、健康になるようにしてください。
心に神様からの義と、喜び、平安、愛があふれ、行くところどこにおいても、天の御国の祝福を輝かせることができますように。
また、私が福音を伝える時に、伝えるべき人のところに導かれ、その人に語るべき言葉が与えられますように。聖霊の力によって、主の癒し、解放、慰め、知恵、助けが与えられ、神様が生きておられその人を愛しておられることを、その方が知り、その方もイエス様を信じて救われますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン