見よ。私たちの尊い骨肉であられるイエスは、私たちを決して恥とされることはない。なぜなら、この二重の関係で、主は喜びのうちにおられるからである。英欽定訳には「私の」ということばが二度出ている。これは、キリストが教会を所有することをどれほど喜ばれるかを示すようである。
「わたしは……人の子らを喜んだ。」これらの人の子らは、イエスご自身が選ばれたのだから。羊飼いなる主は、羊を尋ね求められた。彼らは主の羊であるから。主は「失われた人を捜して救うために」出て行かれた。なぜなら失われたものは、失われるはるか以前に主のものであったから。教会は主にのみ属するものである。他の何ものも、教会を主と共有し、教会の愛の分け前を得ることはできない。
イエス様。あなたの教会はそれを喜びます。すべての信仰者に、これらの泉から慰めを飲ませてください。
私のたましいよ。キリストはあなたと血縁を結ばれ、あなたの近くにおられる。結婚によって、キリストはあなたにとっていとしい方となられた。そしてあなたも、キリストにとっていとしい者である。
見よ。主はその両の手をもってあなたの両手を握り、「私の妹、花嫁」と言われる。主があなたを二重に所有される二つの聖なるつながりに心を留めなさい。主はあなたを去らせることがおできにならず、またそうしようともなさらない。この主の聖なる愛に立ち返るのにためらってはならない。