座間コミニティー

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◆私の妹、花嫁は……。

2016年01月07日 16時33分01秒 | 聖書
(雅歌四・一二)
 
天のソロモンが、花嫁なる教会を、いかに優しく呼んでいるか。「私の妹」、血縁によって結ばれ、思いやりを分け合う者である。「私の花嫁」、愛の優しいきずなによって結ばれた、最も近く、いとしい、主の半身。「私の妹」、主の受肉により主の骨の骨、主の肉の肉となった者。「私の花嫁」、天来の婚約により、義において主がめとった者。私の妹は、幼い時からの遊び友達であり、小さい時から見守ってきた者、私の花嫁は、多くの娘たちの中から選ばれ、愛の腕に抱かれ、永久に私と一体とされた者との意味である。
見よ。私たちの尊い骨肉であられるイエスは、私たちを決して恥とされることはない。なぜなら、この二重の関係で、主は喜びのうちにおられるからである。英欽定訳には「私の」ということばが二度出ている。これは、キリストが教会を所有することをどれほど喜ばれるかを示すようである。
「わたしは……人の子らを喜んだ。」これらの人の子らは、イエスご自身が選ばれたのだから。羊飼いなる主は、羊を尋ね求められた。彼らは主の羊であるから。主は「失われた人を捜して救うために」出て行かれた。なぜなら失われたものは、失われるはるか以前に主のものであったから。教会は主にのみ属するものである。他の何ものも、教会を主と共有し、教会の愛の分け前を得ることはできない。
イエス様。あなたの教会はそれを喜びます。すべての信仰者に、これらの泉から慰めを飲ませてください。
私のたましいよ。キリストはあなたと血縁を結ばれ、あなたの近くにおられる。結婚によって、キリストはあなたにとっていとしい方となられた。そしてあなたも、キリストにとっていとしい者である。
見よ。主はその両の手をもってあなたの両手を握り、「私の妹、花嫁」と言われる。主があなたを二重に所有される二つの聖なるつながりに心を留めなさい。主はあなたを去らせることがおできにならず、またそうしようともなさらない。この主の聖なる愛に立ち返るのにためらってはならない。
 
 

「わたしは、あなたの神、主である。

2016年01月07日 16時32分20秒 | 聖書


わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」(イザヤ48:17)

神の導きを求める時の原則だ。
神は、常識を超越してみわざをされる。
又、信仰は、時に常識を越えることがある。
しかし、神は非常識な方ではない。
そして混乱の神ではなく、秩序をもったお方である。
クリスチャンにとって、常識は大事だ。
「よく考えなさい」Ⅱテモ2:7神は理性と知性を与えて下さった。
神を愛するにも、知性は必要だ。
「…知性を尽くして、主なる神を愛せよ」
「主は…理解する力を…与え」られる。
御霊により理解する力、判断する力を与えて下さる。
些細な事柄については、与えられた常識と理性で判断すればよい。
今日はどの色の服を着るべきか、時と場所、場合にふさわしいものを選べば良い。
コーヒーか紅茶か、好きな方を選べば良い。
又、神は私たちの環境を支配し、常に働いておられるので、そこに神を認め、状況をよく見極め、しっかり考え、判断する事が大切だ。
大きな事柄、大切な事柄に関しては、よく祈って導きを求める必要がある。
御言葉と、祈りによる御霊の平安があり、環境が開かれていたなら、前進して行けばよい。
御言葉、祈りによる平安、環境の3つが揃うことだ。
心に不安があるなら、まだ待ってよく祈った方がよい。
御心なら不安を取り去って下さる。
それらが揃った上で前進し、もし万一違っていたら、それも神が止めて下さる。
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自分の生涯の責任はすべて神様にお任せしているのだから、必ず最善へと導いて下さる。
右へ行くにも左へ行くにも御心にある道なら深い平安のうちに導かれる。


今日の聖人の記念日

2016年01月07日 06時47分43秒 | キリスト教

聖ライムンド(ペニャフォル)司祭

1175年ごろ-1275年

 ライムンドは、スペインのカタロニア州ペニャフォルで生まれた。バルセロナで勉学を始め、イタリアのボローニャ大学で民法と教会法を学んだ。1220年に卒業し、同大学で教鞭を取ったが、2年後にドミニコ会に入会した。祈りと修行に励み、修練期を終えてからは、説教と宣教活動を熱心に行った。

 当時、スペインはイスラムの脅威にさらされており、ライムンドはキリスト教の擁護とイスラムの人々の改宗に努めた。1230年に、教皇グリゴリオ9世はライムンドをローマに招き、教皇付司祭に任命し、教会法の権威者である彼に「グラティアーヌス教令集」を編纂させた。以後、それは教会法の最初の完成本として高く評価された。

 その後ライムンドはスペインに戻り、1238年にドミニコ会の総長に選ばれ、会の刷新に貢献し、会憲を整えた。2年後、総長職を退いてからは、ユダヤ教徒、イスラムへの宣教に身をささげた。

 ライムンドは教会法、教会学者の守護の聖人とされている。


◆神のあざけり

2016年01月07日 06時46分28秒 | 聖書

あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、
わたしの叱責を受け入れなかった。
それで、わたしも、
あなたがたが災難に会うときに笑い、
あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。(箴言一25―26)
 
一昨日、箴言一章二二節では、神はあざけらない嘲笑しないとお話ししましたが、ここでは、神ご自身が、笑うあざけると宣言しておられます。このつきつめたような神のことばから、私は二つのニュアンスを感じとります。
第一、お前が私の言うことを聞かないなら、お父さんはもう知らない、勝手にしなさい。
ある小説の中で、登山中に高山病になって眠りかけている息子を父親が、「ばか野郎! お父さんはもう知らないぞ」と、なぐったり、けったりしているのを読んだことがあります。そのような父現の最大限の強いアッピールのことばと同じ感じで、神は必死に私たちに迫っていてくださいます。
第二、神の切実ないましめにもかかわらず、そのことばを聞こうとしないで、叱責や勧告をないがしろにして、ずるずると永遠の地獄へ、ついに行ってしまった魂。――その時、ばかめが! と、カラカラと響くうつろな神の笑い。
やりきれません。ニヒルなむなしい感じです。パタンと扉が閉められ、もう取り返しがつきません。そんな笑いがあるかどうか分かりませんが、地獄から聞こえてくるような、そういう恐ろしい笑い声を聞くような思いがします。
神が叱責してくださる時に、あなたに声をかけてくださる時に、それに心を留めることほど大切なことはありません。神に叱責していただき、それを受け止めていくことは、祝福に満ちた、神に近い生活なのです。
 
 

◆私にとっては、

2016年01月07日 06時45分43秒 | 聖書
生きることはキリスト……です。(ピリピ一・二一)
 
信者も、常にキリストのために生きていたわけではない。聖霊なる神によって罪を自覚させられ、また、死の苦しみを味わった救い主が自分の罪のための贖いとなられたことを恵みによって示された時から、その人は常にキリストのために生きることを始める。新しく天より生まれた瞬間から、キリストのために生き始める。イエスは価の高い真珠であり、私たちは、そのために喜んですべての所有を捨てる。主が完全に私たちの愛を占領してくださるから、私たちはただ主のみを愛する。主の栄光のために生き、主の福音を守るために死にたい。キリストは生涯の模範であり、人格形成のよりどころとなる原型である。
パウロのことばには、人々の考えている以上の深い意味がある。彼の生涯の目的がキリストであったこと、いや、生活そのものがイエスであったことを意味する。昔の聖徒のことばで言えば、彼は永遠のいのちを食し、飲み、眠ったのである。主は彼の呼吸、たましいのたましい、心の心、いのちのいのちであった。
あなたはクリスチャンであると告白しているが、このような思いで生きていると言えるだろうか。私にとって生きることはキリストであると、正直に言えるだろうか。キリストのために事業をなしているだろうか。自分の栄達のため、家族の利益のためにしているのではないだろうか。「それがいけないのか」とあなたは反論する。そう。クリスチャンにとっては、それはいけないのである。キリストのために生きると公言する者が他の目的のために生きるなら、霊的姦淫を犯すことになる。ある程度までキリストのために生きる人はあるだろう。だが、全くキリストのために生きていると言うことができる者は、はたして何人いるか。自己の源、力、流儀、目的がキリスト・イエスの一語に要約される生活こそ、真のクリスチャン生活である。
主よ。ただあなたにあって、あなたのためにのみ生きることを祈り、今私自身をささげます。祭壇と鋤の間に立つ雄牛のように、犠牲と労働のいずれにも私を備えさせ、「私には備えがある」と言わせてください。
 
 

第2歴代誌12章13-16節

2016年01月07日 06時42分12秒 | 聖書


12:13 こうして、レハブアム王はエルサレムで勢力を増し加え、国を治めた。レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アモン人であった。
12:14 彼は悪事を行った。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった。




 レハブアム自らが備えた防御の町々は、北の民からの侵略ならば防ぐことは出来たかも知れません。

しかし、エジプトという強大な国の力の前には、何らの効果を持ちませんでした。

国の崩壊は目に見えていました。

しかし、彼の悔い改めと主の恵みとによって、徹底的な崩壊からは守られました。

それだけではなく、後の国の状況は、国力を回復するように導かれて、彼は全体で17年間王として君臨することが出来ました。

 ところで、ここでは、彼は悪事を行ったと告げられています。

彼が「常に」主を崇めるということをしなかったからでした。

「いつも」主と共にあり、主と共に歩むことが、すべての人にとって、大事なのだと知るのです。



創世記11章6節

2016年01月07日 06時38分01秒 | 聖書


★主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」

■O:今日のコラム
神様は、バベルの塔、町が建てあげられる様子を見て、このように語りました。神様がとどめることができないくらいの可能性と力が一致を通して人間にあることが分かります。

しかし、この時代の人々は自分たちの名をあげるために、この町と塔を建て、このままとどめることをなしに完成させたら、次々に人々は自分たちの思い勝手にいろんなことをし続け、私には想像できませんが、大変なことになっていたと思います。可能性としては、ノアの時代のように、神様が全人類をまた滅ぼさなければいけない状態になってたかもしれません。

そのようなことが起こる前に、主は言語を混乱させ、ある意味で平和なうちに(お互いに戦ったり争ったりせずに)、人々を地の全面に散らされました。

こういうわけで、現在多くの国々と言語が存在し、1つの国の中でも多くの言語があり、なかなか一致をすることが難しい時代です。

しかし、その中で、私たちは主の国、主が治められる唯一の国が建てあげられることを望んでいます。それは、言語と国々を超えた一致を通して建てあげられる国です。

今、私の住んでいる環境は、いろんな国々からの主の民が共に礼拝し生活をしていますが、どんなに主の民だからといっても、言語の壁や文化の違いで、なかなか一致するのが難しいです。唯一、この環境で一致を見出すことができるのは、自分をおき、自分の文化をおき、へりくだり、互いに許し合い、愛し合うことです。それは、イエス様の愛を受けなければ、なかなかできません。私もまだまだ訓練中です。

しかし、もし、私たちが言語と文化を超えて主にあって一致することができるのであれば、主の御国を建てることをとどめるものは一切ありません。そのくらい、私たちの一致には可能性と力が秘めているからです。


■A:考えてみよう
兄弟姉妹たちと一致することに努め、主の御国を共に建てあげていこうではりませんか?自分をおき、へりくだり、主の愛によってお互いに愛し合いましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月6日(水)のつぶやき

2016年01月07日 01時46分12秒 | キリスト教

◆あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 goo.gl/CjIy0F


「助け主・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、 goo.gl/rcsn5A


◆……夕方、主の御手が私の上にあり……。 goo.gl/cCRTUy