座間コミニティー

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◆わたしは……

2016年01月11日 17時01分34秒 | 聖書
あなたのために祈りました。(ルカ二二・三二)
 
私たちが祈る時、主は私たちのためにとりなしてくださる。そして、私たちが祈っていない時も、主は私たちのために弁護し、その嘆願によって私たちを目に見えない危険から守られる。ペテロに語られた慰めのことばに注意していただきたい。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし……。」この次に来ることばは何であろうか。「しかし、行ってあなた自身のために祈りなさい」なら、よい忠告であろう。だが、そうは記されていない。主は、「しかし、わたしはあなたを注意深くさせよう。それであなたは守られるであろう」とも言われなかった。それは大いなる祝福である。しかし主はそうは言わないで、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と言われた。
私たちは、自分が救い主の祈りにどれだけあずかっているかをほとんど知らない。私たちが天国の頂に達し、私たちの神、主が導かれたすべての道を振り返ってみる時、主が永遠の御座の前にあって、サタンが地上でなした悪巧みをくつがえされたことをいかにほめたたえることであろう。また主が決して休まれず、昼も夜もその御手の傷を指さし、私たちの名をその胸当てに銘記されたことをいかに感謝することであろう。
サタンが誘惑を始める前に、イエスは機先を制して天において嘆願された。あわれみは悪意を追い抜く。主は「サタンが、あなたがたをふるいにかけた。だからわたしは祈ろう」と言われたのではなく、「サタンが、あなたがたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」と言われた。このことに注意していただきたい。主はサタンの思いすらことごとく知り、つぼみのうちにそれを摘み取られる。主は、「しかし、わたしはあなたのために祈りたいと思っていた」と言われなかった。「わたしはあなたのために祈った。わたしはすでに祈ったのである。わたしは法廷へ行き、告発がなされる前にあなたのために抗弁した」と言われた。ここにこそ、喜びと感謝と希望と信頼がある。
 
 

「主よ。そのとおりです。

2016年01月11日 17時00分30秒 | 聖書


ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(マタイ15:27)

「主よ。ダビデの子よ。あわれんでください」と、悪霊につかれた娘の助けを、彼女は本気で、真剣に主に叫び求めた。
主は、心から叫び求める願いに答えて下さるのではないか。
私たちはそう思う。
しかし、主は「一言も」答えられなかった」。
切なる、必死の求めに全く答えられず、沈黙されたままだった。
弟子たちがいらいらし、不平を言って来た。
それで、それに答えられた形で「イスラエル以外には遣わされていない」と言われた。
彼女はその主の言葉で悟った。
自分はダビデの子ではない。
イスラエルではないので「ダビデの子よ」という資格はないのだ。
それで、ただ「主よ」と、更にへりくだり、御前にひれ伏して願った。
その正しい位置とへりくだりは、主の答えを引き出した。
しかし答えは「子供たちのパンを小犬にやれない」とだった。
彼女への試しであり、へりくだって小犬と認め、尚、求めてくるかを見られた。
彼女は「そのとおりです」と自らを小犬だと認めた。
恵みに価しない者だと。
しかし、彼女には信仰があった。
小犬でも、食卓からのパンくずはもらえる。
恵みと慈しみの主だと信じきっていた。
主はその信仰を「立派だ、見上げたものだ」と驚かれ、喜ばれた。
「願い通りになるように」と娘は癒された。
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答えを受け取れるように主は導いておられる。
彼女はへりくだった。決して諦めない。
主は絶対にあわれんで下さると信じていた。
得ても得なくてもどっちでもよい程度なのか、願いが本気で本物なのか試される。


今日の聖人の記念日

2016年01月11日 09時17分09秒 | キリスト教

聖テオドシオ修道者

423年ごろ-529年

 テオドシオは、カパドキア(現在のトルコ中東部)のマリッソスに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。エルサレムへ巡礼したときにロンギノという徳高い修道者と出会い、彼の指導を受けた。その後、エルサレム近くの教会の主任司祭となり、彼の評判は広まった。多くの人々が彼のもとに集まってきたため、テオドシオはユダの山にひきこもり、祈りと黙想の生活を始めた。彼を慕って多くの青年男女が集まり、ともに修道生活を始め、共同体は発展した。多くの国の修道士が集まったため、旅行者の宿舎、病院などを設立し、奉仕にあたった。493年に、テオドシオはパレスチナ地方の共住修道会全体の長に選ばれた。

 当時、キリストの神性だけを主張する単性論の異説が広まり、東ローマ皇帝もこの異説を支持していた。テオドシオは正当信仰の擁護のために、各地を巡回して人々に説教したため、皇帝から国外追放された。皇帝の死後修道院に戻ったが、病に伏して亡くなり、彼が修行した洞窟に葬られた。

 彼は、パレスチナの修道生活の祖といわれている。


◆銀を求めたように

2016年01月11日 09時15分54秒 | 聖書

もしあなたが悟りを呼び求め、
英知を求めて声をあげ、
銀のように、これを捜し、
隠された宝のように、これを探り出すなら、
そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、
神の知識を見いだそう。         (箴言二3―5)
 
きょうの聖書のことばは、神を見いだすこと・神の知識を見いだすことを、銀を掘り当てることにたとえています。
昔は、日本でも中国でも、金よりも銀のほうが尊ばれ、値打ちがありました。今でも金座よりも銀座の名が残っていますし、金行ではなく銀行ということになっています。
銀を掘るのは大変な仕事でした。銀のある所をまず見つけるのが大変ですし、掘るのも取り出すのも、そして精錬するのも大変でした。しかし人々は、一山当てようとそれこそ血まなこだったのです。なぜかといえば、掘り当てればそのものズバリの金もうけですから、こんなすばらしい仕事はありませんでした。ある人は、このくらいもうかる仕事は、ほかにどろぼうがあるくらいだと言いました。昔の経済界の決め手は銀でした。銀を掘り当てればオンの字。ですから、人々は山に分け入り、地中をはいずりまわって銀を捜し求めました。
人生のほんとうの決め手は、「神」であり、「神の知識」です。神が全世界を支配しておられます。このお方を知り、このお方のもとで生きることです。神は、この私を愛していらっしゃる、そのことを知って、神の愛に満たされて生きることです。これこそ、豊かな力強い生き方といえましょう。
ですから、昔の人が銀を捜し、銀を探り、掘り求めたように、私たちもまた、まことの神を求めるべきです。心に、神を知るべきではないでしょうか。
 
 

◆根を張らないで、

2016年01月11日 09時15分11秒 | 聖書
ただしばらく続くだけです。(マルコ四・一七)
 
たましいよ。今朝はこの聖句の光によって自らを顧みよ。おまえは喜んでみことばを受け、おまえの感情は熱くなり、また深い印象を受けた。しかし注意しなければならない。耳でみことばを聞くのと、イエスをたましいの中に受け入れることとは全く別のことだ。浅薄な感情が内部のかたくなな心に伴うことは、ありがちなことである。みことばを聞いて深い印象を受けたとしても、それが必ずしも永続するとは限らない。
このたとえのうち、ある種は、岩の上の土が薄く盛られた所に落ちた。種が根を下ろそうとし始めた時、その生長が堅い岩によって妨げられた。一方では、若芽を高く伸ばすことに力を尽くしたが、根から養分を取って内側を潤すことができなかったので、枯れてしまった。
これが私の場合ではないだろうか。内にいのちがなく、肉においてのみ見えを飾っているのではないだろうか。よい生長は、上と下に同時に行われるものである。私は、イエスに対する真実な忠誠と愛に根ざしているだろうか。もし私の心が恵みによって和らげられ、また肥やされていないならば、よい種もしばらくは発芽するかもしれないが、ついには枯れてしまうことになる。その種が、岩のごつごつした、砕かれていない、きよめられていない心の中に栄えることはできないからである。
ヨナのとうごまのような、急に生長し、すぐに枯れてしまう信仰を恐れよう。私は、イエスの弟子であることの価値を考え、特に御霊の力を感じ、そうして心のうちに、永遠に衰えない種を宿そう。もし、私の心が生まれつきのままにかたくなであれば、試練の太陽が照りつけ、またかたくなな心は、太陽の熱がさらに強くむき出しの種に注がれる助けとなってしまう。そして私の信仰はまもなくなくなり、恐ろしい失望に陥ることになろう。
ああ、天上の種蒔く人よ。まず私を耕し、それから真理を私のうちに蒔いてください。そして、豊かな刈り入れを、あなたにささげることを得させてください。
 
 

第2歴代誌13章13-22節

2016年01月11日 09時14分03秒 | 聖書


13:13 ヤロブアムは伏兵を回して、この人々の背後から攻めるようにさせた。こうして、彼らはユダの正面におり、伏兵はその背後にいた。
13:14 ユダが向き直ると、見よ、戦いは前後から迫っていた。それで、彼らは主に叫び求め、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。



 アビヤが山頂で、イスラエルの民に対して大きな声で話をしている間に、ヤロブアムはその話に耳を傾けないで、着々と、アビヤの軍隊を崩壊させる備えをしていました。

彼は、伏兵をアビヤの軍隊の後ろに回して、背後からも攻撃できるようにしたのです。

こうして彼は、軍人の数も多いので、戦いは自分たちに有利に運ぶと思っていた事でしょう。

 ユダの民も、アビヤの話に聞き入っていました。

しかし気がつくと、敵の兵が前方と背後から迫っていました。

不意を打たれたものですから、非常に動揺したことでしょう。

その時、彼らは主に助けを求めました。

また祭司たちもラッパを吹き鳴らして、民を勇気づけました。

主に、寄り頼んだのです。

その結果は、完全な勝利でした。


創世記20章5~6節(創世記19章)

2016年01月11日 09時10分07秒 | 聖書


★彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」
神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。

■O:今日のコラム
アブラハムの妻であるとは知らないでサラを召し入れたその夜、神様が夢の中でアビメレクに語りかけ、サラを妻としないように警告しました。真実を知らされたアビメレクはアブラハムを呼び寄せます。

アブラハムは、自分は嘘ついていない、間違っていない、と様々な言い訳を並び立てました。しかしこれに対し、アビメレクは怒りで返すことをせず、神を恐れて彼に多くの財産を与えました。

『そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。』(14節)

相手に不正があるのを見て、最後まで正しい心を持ち、主の前に誠実を尽くすことは容易なことではありません。しかし、どんなチャレンジに対しても正しい心、全き心で行ったことは、たとえ思い通りにならなかったとしても、その心は全て主に覚えられています。

マラキ書に、『主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。』とあります。主を恐れてした事、全き心で主と人に仕えた一つ一つは全て天の記憶の書に記されているのです。

アビメレクにそうであったように、正しく歩む者には、主は夢を通しても語りかけ、危険を知らせ、悪い道から守って下さいます。正しく歩む者たちに主は決して良いものを拒まれません。

目の前にチャレンジがあるでしょうか。理不尽なことがあるでしょうか。理解出来ないことがあるでしょうか。不正に対して、私たちがどのように反応するかを主は見ています。主は私たちの心の態度をいつもご覧になるのです。始めにあった正しい心を最後まで持ち続け、最後まで主の前に誠実を尽くしましょう。


■A:考えてみよう
主の約束を握り、御言葉を宣言しましょう。


1月10日(日)のつぶやき

2016年01月11日 01時44分18秒 | キリスト教

◆義の栄冠が私のために用意されているだけです。 goo.gl/OkksYb


「カインのようであってはいけません…なぜ兄弟を殺したのでしょう。 goo.gl/gGdEOk


◆私の皮が、このようにはぎとられて後、 goo.gl/XFlWxC