座間コミニティー

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◆喜びをもって主に仕えよ。

2016年01月09日 16時55分47秒 | 聖書
(詩篇一〇〇・二)
 
喜びをもって神に奉仕することは、その奉仕が受け入れられている証拠である。悲しそうに神に奉仕している者は、いやいやながらしているのである。したがって、その人は神に奉仕しているのではない。従順を装っているけれど、内にはいのちがない。私たちの神は奴隷をかき集めて、御座を美しく飾ろうとはされない。神は愛の王国の主である。神は、しもべたちが歓喜の衣装を身に着けることを望まれる。神の御使いたちは、歌をもって神に仕え、うめきをもっては仕えない。つぶやきや嘆息は無礼である。自発的でない服従は不服従である。なぜなら、主は私たちの心をご覧になるからである。私たちが主を愛するからではなく、強いられて仕えるなら、主は私たちのささげ物を拒まれるであろう。
喜びの伴う奉仕は心からのものであり真のものである。クリスチャンから喜びを除くなら、真心の深さを失うことになる。追い立てられて戦場に出る者は、愛国者ではない。しかし、目に勇気をたたえ、顔を輝かせて、「祖国のために死ぬもよし」と歌いつつ戦場へ進む者は、真の愛国者であることを自ら証明している。歓喜は力の支柱である。私たちは主の喜びの中にあってこそ強い。それは困難を打ち払う。歓喜と奉仕の関係は、油と列車の車輪との関係に等しい。油が切れるなら、車軸はたちまち熱して事故が生ずる。同様に、私たちの車輪の油となる聖なる喜びがないならば、私たちの霊はきっと疲れ果てるであろう。喜びつつ神に仕える人は、服従を守る人である。彼はこう言う。
 あなたの戒めの道を歩ませてください
 それが、私の喜びの道だからです
愛する友よ。あなたにお尋ねしたい。あなたは、喜びをもって主にお仕えしているか。
世の人々は、私たちの宗教が奴隷の宗教だと考えている。しかし、私たちが喜びの宗教をもっていることを、人々に示そうではないか。喜び勇んで仕えることによって、私たちがよき主に仕えていることを宣言しようではないか。
 
 

「人の歩みは主によって確かにされる。

2016年01月09日 16時54分34秒 | 聖書


主はその人の道を喜ばれる。
その人は倒れても、まっさかさまに倒れはしない。
主がその手を支えておられるからだ」(詩篇37:23)

主は人の歩みを導いて下さる。
主の導きに従って歩むなら、主は喜んで下さる。
そして、主の喜ばれる道を歩むなら、主がその手を支えていて下さる。
つまり、御心を歩むなら、主が責任を取って下さるという、保証付きだ。
しかし、御心の中ではなく、自分勝手に、自分の思い通りの道に、自分の好きな道に、自己中心な欲望の道に歩んで行くなら、その結果を刈り取る事になる。
神は私たちをロボットに造られなかったので、決して強制も強要もされない。
首に縄をつけて引っ張られない。
私たちの自由だ。しかし、自由には責任が伴う。
神の道からそれると、歩みに確固たる確信が失せるので、人の目が気になり、人を恐れるようになる。
平安が心に無いので、思い煩いと不安に支配される。
波風にほんろうされる小舟のように、常に変わる状況に振り回されて、飲み込まれて、あたふたする。
心が定まらないからだ。主の御声を聞いて、御心を歩む時、確固たる歩みができる。
主によって歩みが確かにされる。
そして揺らぐ事のない平安が心にある。
だから、状況がどうであれ、信仰によって前進して行くことができる。
主の御声に耳をよく傾け、聞いた言葉に従って行こう。それが確かな歩みだ。
御心を歩む中で、様々な想定外の事が起きるが、主がその手を支えて下さっているから心配無い。
何と安心だろう。
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御声を聞いて歩む時、状況が、人が、どうあろうと確信持って進んで行ける。
主が歩みを堅くし確かにして下さるからだ。
御心に従って試練にも会うが、主の支えの保証付きだ。


今日の聖人の記念日

2016年01月09日 07時56分34秒 | キリスト教

聖ハドリアーヌス(カンタベリー)

?-709年

 ハドリアーヌスは、北アフリカに生まれ、ベネディクト会の修道士となった。彼はギリシャ語とラテン語の才能に富み、優れた聖書学者であると同時に、教会と修道院の改革にも力を尽くしていた。664年にカンタベリー大司教が死去した際、教皇から後任に任命されたが、それを辞退し、代わりにタルソス出身でローマに来ていたテオドロ(602-690 聖人)を推薦した。ハドリアーヌスはテオドロの生涯の協力者となり、668年にテオドロが司教に叙階されると、2人はともにイギリスに向かった。

 ハドリアーヌスはカンタベリーの聖ペトロ・聖パウロ修道院長に任命され、付属学校の教育指導、神学、ギリシャ語、ラテン語などの教鞭を取り、テオドロとともに教区の発展に努めた。彼の学識と信仰の深さは、学生たちに影響を与えた。後のイギリスの大司教や修道院長の多くはここで教育を受けた。
 後世の人々は彼について「ハドリアーヌスは学生たちの頭の中に健全な知識を日々注いだ。聖人はみなを幸福にした」と評している。


◆間違った平安

2016年01月09日 07時55分08秒 | 聖書

わきまえのない者の背信は自分を殺し、
愚かな者の安心は自分を滅ぼす。      (箴言一32)
 
安心している平安な心は幸福です。安心はいのちのしるしです。それと反対に、いつも不安な心で生きていくのは、泥の上に家を建てているような人生です。私たちは、愛と喜びと平安を求めています。
しかし聖書は、ほんものでない間違った安心に気をつけなさいと言います。昔ハワイで、さとうきび畑を焼いて土地を肥やしていました。そんな畑の中に巣をつくった鳥や虫のことを、私は想像したのです。
間違った平安とはどんなものでしょうか。何か事が起こるとぐらぐらしてきて、たちまちだめになる平安です。
* コップ式 修養によって、罪やけがれを下のほうに押しやります。しかし、底に沈殿しているのです。
* やじろべえ式 罪やけがれを上まわる教養を身につけようとします。教養で、罪とのバランスをとろうとするのです。
しかし、ほんとうの平安の根拠はこの中にあります。
・ 罪が完全にゆるされた。
・ 永遠のいのちが与えられた。
神のくださる神との平安が、ほんものなのです。
イエス・キリストのことばを聞きましょう。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」(ヨハネ一四27)。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一28)。
 
 

◆わたしは彼らの神となり……

2016年01月09日 07時53分53秒 | 聖書
(エレミヤ三一・三三)
 
主にある友よ。ここにあなたの求めるすべてがある。
あなたは幸福になるため、あなたを満足させる何かを求めているが、この聖句で十分であると思わないか。この約束をあなたの杯に注ぎ入れることができるなら、あなたはダビデとともに「私の杯はあふれ、心に望んだよりも多くを得た」と言わないだろうか。「わたしはあなたの神となる」というこの約束が満たされた時、あなたはすべてのものの所有者となるのではないか。願望は死のように飽くことを知らないものであるが、万物をもって万物を満たされる神は、願望をも満たすことがおできになる。
あなたにお尋ねしたい。神があなたのものであるとき、あなたは完全ではないのか、と。神以外の何を求めるのか。他のすべてを失っても、すべてを備えられる神を得れば十分ではないか。
しかし、あなたは静かな満足以上のものを求めている。熱狂的な喜びを求めている。たましいよ。このみことばのうちに天上の音楽がある。神こそ天を創造されたお方であるからだ。どのような名器をもってしても、この美しい「わたしは彼らの神となる」という約束のように最高の美を備えたメロディーを奏でることはできない。ここにこそ祝福の深い海があり、果てしない喜びの大海がある。あなたの霊をそれに浸せ。あなたが一生そこを泳いでも、岸辺を見いだすことはない。沈んでも、永久に底を知ることはない。
「わたしは彼らの神となる。」これを聞いても、なお目が輝かず、心が祝福に躍らないなら、あなたのたましいは健全な状態ではない。あなたは、現在の喜び以上のもの、前途に希望を抱き得る何ものかを熱烈に求めている。この偉大な約束の成就以上のものを望み得るか。これはすべての約束のうちの最高傑作である。それを楽しむことこそ、この世で天国を味わい、未来の天の都の喜びに入ることを意味する。主の光の中に住み、たましいに常に主の愛を満喫させよ。
この聖句のもたらす髄と脂肪を引き出せ。あなたの特権に生きて、ことばに尽くせない喜びを味わえ。
 
 

第2歴代誌13章1-7節

2016年01月09日 07時51分32秒 | 聖書


13:4 アビヤはエフライムの山地にあるツェマライム山の頂上に立って、言った。「ヤロブアムおよび全イスラエルよ。私の言うことを聞け。
13:5 イスラエルの神、主が、イスラエルの王国をとこしえにダビデに与えられたこと、すなわち、塩の契約をもって、彼とその子らとに与えられたことは、あなたがたが知らないはずはあるまい。」



 レハブアムの後、アビヤが王位を継ぎました。

その治世は3年間でした。

彼は義憤を感じたのか、北のヤロブアムとの戦いにでました。

彼の軍隊は民の数が少ないので、精鋭40万人ほどでした。

他方ヤロブアムの軍は、80万でした。

それにもかかわらず、彼は出て行ったのです。

彼は戦地に赴いて、ヤロブアム軍の兵の前で語りました。

あなた方は、ヤロブアムのしたことを知らないわけがないであろうと。

彼は、あなた方は主が立てられた王に逆らい、主君に反逆を企てたと責めたのです。

たとえ自分の意に反する人であっても、主の立てられた王を受け入れるべきではなかったかと言ったのです。


創世記15章:5~7節

2016年01月09日 07時49分03秒 | 聖書


★そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」

■O:今日のコラム
以前に私は一つの夢をみました。その夢の中で主は私に「あなたが求めている祈りと、私が願っている祈りには違いがある。私の願いは御言葉の中に記されている。」と語られ目が覚めました。

ちょうどその時、聖書に記されている祈りや約束を一つ一つ書き記していたノートを枕元に置いていたので、ノートと御言葉を開き、主の約束を思い返して祈る時を持ちました。

自分自身でカテゴリ別に御言葉をピックアップして、そのテーマに従って御言葉を告白しながら祈るのですが、そのカテゴリの一つに「アブラハムの祝福」と言うページを作っています。

聖書の中でアブラハムが主から受けた約束を一つ一つ書いています。私達は主に「祝福して下さい。」と祈る事も大切ですが、主からの答えは「私はもうあなたを祝福する事を約束している。その約束を受け取りなさい。」と言うものでしょう。

アブラハムに主が語られた約束は、ただアブラハムだけに語られたものでは無く、イエス・キリストを通して、彼を信じる全ての信仰者がこの約束の相続人となる事が出来るのです。

以下に記した御言葉を朗読して下さい。

【アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。】(ガラテヤ3:6~9)


【キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。】(ガラテヤ3:13~14)


【あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。】(ガラテヤ3:26~29)


私達はキリスト・イエスにあってアブラハムの子孫であり、約束による相続人とされました。この驚くべき恵みを主に感謝します。

そして、相続人としてその約束を朗読し、祈り、受け取ろうではありませんか。


■A:考えてみよう
御言葉のノートを作り、アブラハムに語られた主の約束を記して、自分の為の約束として受け取り祈りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月8日(金)のつぶやき

2016年01月09日 01時43分44秒 | キリスト教