座間コミニティー

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◆荒野で叫ぶ者の声がする。

2016年01月03日 17時45分27秒 | 聖書
「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(ルカ三・四)
 
荒野に叫ぶ者の声は、主のための道、備えられた道を要求する。この宣言に耳を傾け、心の中に主のための道を備え、主のみわざによって心の荒野を切り開きたい。
この聖句から四つの点について深く教えられる。
「すべての谷はうずめられ」なければならない。私たちの低級で浅薄な神観は、改められなければならない。疑惑と失望を取り除き、自己中心と肉欲は捨て去られなければならない。このような深い谷が埋められて、主の恵みの大路が造られなければならない。
「すべての山と丘とは低くされ」る。高慢な被造物の自己満足、鼻につく義人づら、そのようなものは低くされ、王の王であられるお方のために道を造らなければならない。傲慢な思い上がった罪人に、神の交わりが与えられることは決してない。主は心のへりくだった者を顧み、悔い改めた心の者を訪れてくださる。しかし、高ぶっている者は退けられるのである。私のたましいよ。この点において正しくあることができるように、聖霊に祈り求めよ。
「曲がった所はまっすぐにな」る。動揺しやすい心は、神に向かう決心のまっすぐな道、聖潔によって印を押された道をもたなければならない。二心の者は、真の神を全く知らない。私のたましいよ。心の奥底をご覧になる神の前に、すべてのことに正直に、真実であるように努めよ。
「でこぼこ道は平らになる。」罪によってつまずきとなるものは取り除かれなければならず、反抗のとげといばらは抜き取られなければならない。比類のない尊いお方が、その愛する者たちを訪れてくださる時、どろ道や石ころ道があってはならない。
ああ、この夜、主が恵みによって備えられた私の心の道を見いだし、この年の初めから終わりに至るまで、私のたましいの隅々まで、勝利の前進をしてくださいますように。
 
 

「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

2016年01月03日 17時44分37秒 | 聖書


そして…全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:2)

時々、自らの弱さ、足らなさゆえに起こした問題を、信仰ゆえの迫害と大騒ぎする。
が、それは信仰以前の問題だ。
信仰は関係なく、自分の未熟さゆえの失敗だ。
又、試練、試練と言うが、試練などでなく、自分の愚かさゆえに招いた痛みもある。
アブラハムも「非常に悩んだ」事態が出て来る。
イサクの誕生を信仰によって待てないで、肉の思いと行動で、女奴隷ハガルによってイシマエルを得た。
しかし、後にイサクを与えられたが、サラからハガルとイシマエルを追い出すよう要請された。
イシマエルも自分の子供なので、非常な悩みとなった。
その時に、神が御声をかけて下さり、神の言われる通りに解決すべく、翌朝早くハガルとイシマエルを出した。
次には、約束の子であるイサクを全焼のいけにえとして献げるように言われた。
これはハガルの場合と違った。
自らが起こした肉の行ないの刈り取りではなかった。
「神はアブラハムを試練に会わせられた」神から来た「試練」であった。
彼は「翌朝早く」従った。彼はこの事がはっきりと神から来ていること、神の明確な示しである事がわかっていた。
彼にとっては自分の命より大事なものだったろう。
「力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの」エゼ24:25だったろう。
彼は従った。
神はイサクを彼にとって正し位置に返された。
私たちにも神以上に愛するものがないか。
明け渡す時、正しい位置に置いて下さる。
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日々神様を仰ぎ、尊く思っていても神様以上に愛する物がないと言えるだろうか。
神様を恐れながら、あれもこれもと優先順位はごちゃごちゃだ。
正しい位置に返そう。


今日の聖人の記念日

2016年01月03日 07時34分50秒 | キリスト教

聖ジュヌヴィェーヴ

422年-500/512年

 ジュヌヴィェーヴは、フランスのナンテールに生まれた。429年に司教ジェルマンに出会い改宗し、15歳のとき修道生活に入った。451年フン族のアッチラがパリに侵入した際、彼女は恐れおののく市民を励まし、勇気を奮い起こさせ、撃退させた。ジュヌヴィェーヴは、つねに神に信頼し続け、彼女の信仰に根ざした勇気と希望は人々を導いた。

 彼女は死後、パリだけでなく全フランスで敬われた。フランク王国のクロヴィスも、改宗したときに彼女を聖女として尊敬し、パリの聖堂に彼女の遺体を納めたといわれている。
 ジュヌヴィェーヴは、絵画や彫刻などに、燃えるろうそく・鍵・パンを持ち、悪魔を解き放つ者として、表わされている。パリの守護の聖人として人々から親しまれている。

イエスのみ名

 

 「イエス」という名は、ヘブライ語の一般的な名前である「ヨシュア」にあたり、ギリシャ語化したものは「イエスス」である。、ヘブライ人にとって、名前は重要な意味を持ち、特にその人が果たすよう託された使命と結びついていた。マタイ福音書には、ヨセフの夢に天使が現れ、「イエス」と名付けるように告げられたことが記されており(マタイ1.21)、「イエス」は「主は救い」という意味である。

 「イエスのみ名」に対する信心は初代教会の時代からあった。中世にクレルヴォーの聖ベルナルドは、著書『雅歌について』のなかで、「流れるその香油のようにあなたの名はかぐわしい(雅歌1.3)」という箇所をイエスのみ名と関連づけて、美しく説明した。こうして彼は、み名に対する信心の基礎を作り、多くの人びとに影響を与えた。

 アシジの聖フランシスコは、イエスのみ名に対する崇敬に熱心で、フランシスコ会においてさかんになった。シエナのベルナルディノは、苦しみに打ち勝つためにイエスのみ名を呼んで祈り、人びとにも薦め、病気がいやされるなどの奇跡が起こった。この信心はフランシスコ会やドミニコ会によってさかんになった。「み名の連願」はシエナのベルナルディノとフランシスコ会原始会則派の総長代理であった、カペストラノのヨハネによって作られたと言われている。

 1530年、クレメンス7世はフランシスコ会に、教会の祈りにおいて、「イエスのみ名の典礼」を唱える許可を与えた。2002年、ヨハネ・パウロ2世は任意の記念日として典礼暦に加えた。


◆対人関係の成功

2016年01月03日 07時33分43秒 | 聖書

わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。
あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言一8)
 
私たちは、お互いにみな、人間関係には苦労していませんか。最も人間関係が自然でスムースにいくべき家庭でもそうです。しばしば親と子がうまくいかず、憎み出しいがみ合うと、いわゆる骨肉相争うみにくい争いが出てきます。夫と妻との愛憎、嫁と姑とはいうにおよばず、もちろん、職場での上司と部下との関係も大変です。いったい、どうしたらよいかと思っている人も多くいます。
聖書は、対人関係の成功の秘訣を教えています。それは、親子関係を見直し、洗い直すことです。ここで成功すると、その他の人間関係でも成功するようになります。
親はまず、子どもを神からいただいた、いいえ、預かったものと考えます。「世界の何十億という人間から選ばれて、私は、この子どもたちの親となった。私は、神に信頼されてこの子の親となったのだ」と、神から与えられた権威と責任をしっかりにぎらなければ、よい親にはなれません。それに対して子もまた、親に対して、養育の責任と努力に深い尊敬の思いをもって従うことです。
このように親子関係が調整されていくこと、この神によって与えられた摂理的、実存的、神秘的人間のあり方=関係を恐れかしこんでいくことが、人間関係の成功につながっています。実は、職場でもどこでも同じ関係が存在するのです。やはり、「主を恐れることは知識の初め」であるからです。「初め」ということばは、基礎・土台の意味を持っています。神を恐れる生活態度をとることによって、どう生きればよいかが分かってきます。
 
 

◆わたしはあなたを見守り、

2016年01月03日 07時33分01秒 | 聖書
あなたを民の契約とし……。(イザヤ四九・八)
 
イエス・キリストご自身が契約のすべてであり、内容であり、すべての信者の所有である。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」られる、とある。
まず「神」ということばとその無限性を考えよ。次に「完全な人」とその美とを考えよ。神であり人であるキリストがかつてもっておられたもの、今後もたれるものは、みなあなたのものである。私たちの主イエスは、神として、全知、遍在、全能であられる。この偉大な、栄光ある属性のすべてがあなたのものであることを知るのは、なんという慰めであろう。キリストに力がある。その力があなたのものなのだ。あなたを支え、力づけ、敵に打ち勝たせ、終わりまであなたを保つのだ。キリストに愛がある。キリストの心にある愛の一滴でも、あなたのものでないものはない。あなたはキリストの愛の大海に飛び込み、「これは私のものだ」と言うことができる。キリストに正義がある。見かけは厳しい属性であるが、これもあなたのものである。なぜなら、キリストはその正義により、恵みの契約における約束を必ず成就してくださるからである。キリストが完全な人としてもたれるもののすべてが、あなたのものである。完全な人であられたキリストの上に、御父の喜びがあった。キリストが神に受け入れられたことこそ、あなたが受け入れられる理由である。完全なキリストの上に注がれた父なる神の愛が、今あなたの上に注がれている。キリストのなされたすべてがあなたのものであるゆえに、キリストがその汚れのない生涯において律法を守り、これを重んじられた完全な義は、あなたのものである。それはあなたに転嫁されるものである。キリストは契約のうちにおられる。
私はあなたのものです。これはなんときよい慰めでしょう。救い主が私のものと知ることはなんという祝福でしょう。天の小羊の中に、私の身に余る幸いがあります。主の御名を聞くときに、心は躍ります。
 
 

第2歴代誌12章1-8節

2016年01月03日 07時31分15秒 | 聖書


12:7 主が、彼らのへりくだった様子をご覧になると、シェマヤに次のような主のことばがあった。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう。シシャクの手によって、わたしの怒りをエルサレムに注ぐことはやめよう。
12:8 ただし、彼らは彼のしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王国に仕えることとの違いを思い知るためである。」



 レハブアムは、国と自分の地位が強固になったことを知りますと、主の律法を捨て、その教えに従うことを拒む者となりました。

自分の権力を誇ったのです。

 そこで神は、彼らの上に怒りを下され、エジプトから軍隊を送られました。

その軍は、彼が準備した防御の町々を攻略しました。

この事実を見て、またその時に神の人から知らされた主の言葉を聞いて、王と民は神を恐れ、今までの罪を悔い改めました。

そこで主は、彼らの悔いた姿を見て、エジプトからの軍隊による崩壊からは免れるようにすると告げました。

しかし、その罪のために、エジプトの僕となると伝えたのでした。


マラキ書4章6節

2016年01月03日 07時28分40秒 | 聖書


★「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

■O:今日のコラム

今年、私たちの教会では、このマラキ書の箇所を握り、この1年を過ごしました。
まさに天の父の素晴らしさを味わい、そして、自分たちの「神の子としての身分」を回復する年になったのではないでしょうか。

けれども、これは素晴らしいスタートに過ぎないと確信しています。

「みにくいアヒルの子」が始めから、自分は白鳥の子だと知っていたら、どうだっただろうと思います。
もちろん、それでは物語が成立しませんが、、、少なくとも他のアヒルたちにあざけられ、小突き回されて、肩身の狭い、弱々しい幼少期を送らずに済んだでしょう。

私たちも、神の子としての身分を充分につかんでいなければ、恐らく始終、色々な事柄に恐れを覚え、治める身分でありながらも、サタンの嘘に仕える、奴隷としての歩みをしてしまうでしょう。

神は、この地を治める権威を、上から私たちに着せて下さいました。
そのことに気付くならば、私たちはもう、いちいち神様に物乞いするような祈りをするのではなく、与えられているイエスの御名の権威によって、その地を、そして任されている領域を、治める者となることが出来ます。

孤児院からある家庭へ養子として引き取られた子どもが、新しい家族との食卓から、こっそり何個もパンを盗んでは自分の部屋に隠し蓄えていた、という実話を聞いたことがあります。
その子はまだ、親の居ない、食べる物は自分で確保しなくてはならないような、不安な生き方から、思いを切り替えられずにいたのでした。

同様に、私たちの中には、今までの「奴隷の子」として歩んできた過去の習慣があるのではないでしょうか。
反射的な心の態度、とっさの反応の中に、奴隷の子時代の癖が残っているかも知れません。

毎日の生活の歩みが、また、御父の御前に出て行く時の自分の心の態度が、本当に「神に愛されている子」としての歩み、また考え方かどうか、探ってみて下さい。

「神の子」としての身分が更に確立されると同時に、天の父が、どれほどに愛なるお方であるかを、私たちは更に知り、体験していきたいと願います。

御父がどれほどに良いお方か、御父がどれほど素晴らしいものを私たちに与えたいと願っておられるか、御父がどれほどに完全なるお方か…etc
それらを知るために、どうしても欠かせないお方、それが聖霊様です。(エペソ1:17)そして、この御霊によって、私たちは主を「アバ、父」と呼ぶことが出来ます。(ローマ8:15)

新しい年も益々、御霊によって祈り、御父ご自身を、そして御父の愛を悟ることが出来ますように。

御父との関係は、他の誰にも気付かれないような見えない「隠れた所」で築かれていきます。
決して大きな大会やどこかの祈り会で築き上げられるものではないのです。

どうぞ誤解しないで下さい。多くの人々と心を合わせてとりなすことは素晴らしいことです。
私も神の家族と1つ心になって、共にとりなすことは大変重要なことと信じています。

けれども御父との親しい関係は、そのようなオープンな環境で「父よ。」と呼ぶような祈りを、たまにやるだけでは、築くことは出来ません。

御父を「アバ、父よ」呼んで、子としての身分を更に確かにしていくのは、誰も知らない、隠れた所で見ておられる御父との日々の親密な時間です。

『そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。』(マタイ6:18b)

そのような小さな日々の積み重ねによってこそ、揺るがない御父との信頼関係へと築き上げられていくことでしょう!

私たちにとって、新しい1年が、更に御霊によって祈り、御父の御思いを悟り、神の子として、父の御心を成し遂げていくことが出来る1年となることを宣言します!


■A:考えてみよう

自分は神の子として、あらゆる恐れから自由になっているだろうか?

自分自身は何かから責められているだろうか?

御父は自分にとってどのようなお方だろうか?厳しい方だろうか?

「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:11)

■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月2日(土)のつぶやき

2016年01月03日 01時43分39秒 | キリスト教