座間コミニティー

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◆諸国の民よ。

2016年01月02日 17時21分20秒 | 聖書
新しい力を得よ。(イザヤ四一・一)
 
地上のものはすべて新しくされなければならない。造られた物のうち、それ自身の力で存在し続けるものは一つもない。詩篇の作者は「あなたは地の面を新しくされます」と歌った。気を遣ったり、苦労をしたりしていのちを縮めることのない木でさえ、天からの雨を飲み、地の隠れた養分を吸い取る必要がある。神の植えられたレバノンの杉でさえ、日ごとに新しい十分な養分を地から取ることによって生気に満たされる。
人のいのちも、神によって新しくされなければ生き続けることはできない。体力の消耗を食べ物で補うように、私たちは神のみことばを食べ、みことばに基づく説教に耳を傾け、聖餐にあずかることによってたましいの消耗を補わなければならない。恵みの手段がなおざりにされれぼ、恵みも弱まる。神のみことばや密室の祈りをなおざりにしたため、ある聖徒たちは、なんとやせ衰えていることだろう。もし私たちの信仰が神を離れてもあり続けるとすれば、それは神によって作り出されたものではなく、幻にすぎない。なぜなら、もし神が信仰の創始者であるなら、草花が露を待ち望むように、私たちは神に頼るはずだから。絶えることのない精力がつぎ込まれなければ、私たちは地獄の攻撃に耐え、天国のための激しい苦難を忍ぶことはできない。それどころか、心の中の戦いにすら打ち勝つことはできないであろう。
新しい養分を吸収しておらず、その根を岩にからませていない木は、旋風が巻き起こる時、なんとみじめなものか。あらしが起こる時、マストも補強せず、錨を下ろすこともせず、港に避難もしない船乗りは、なんとみじめなものか。もし私たちが、自分の善が弱くなるままにしておくなら、必ず悪は大挙して私たちの主権を奪おうと必死になるであろう。そしておそらく、苦痛に満ちた悲しみと痛ましい恥とが続くであろう。謙遜になって、神の恵みの御座の近くに行き、嘆願しようではないか。その時、「主を待ち望む者は新しく力を得る」という約束の実現を親しく見ることができるであろう。
 
 

「主が、この四十年の間、

2016年01月02日 17時20分33秒 | 聖書

荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」(申命記8:2)

イスラエルの民は出エジプト後、荒野を通って、神からの訓練を受けた。
その理由は「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」

人は苦しい試練の時に、本性が出る。圧迫され、行き詰まった時に出る姿が自分の本当の姿だ。
それは普段から、順境の時にも心の底にあるが、出ないだけだ。

不満、愚痴、怒り、不信仰が出るなら、それは自分の姿だ。いかに罪深いかを知る。
普段は良い人間だと思っている。人よりはましであり、いっぱしだと。

自分が思っているより、幾倍も罪深い者であり、しかし、そんな事はご存じの上で、主は愛していて下さる。
十字架を新たに知り、深められる。

紛れもなく自分のための十字架であり、十字架によって世界に死に、自分自身にも死んだ事を経験して行く。

「苦しみにあった事は幸せでした」の通り、苦しみを通して、主のご愛と慈しみを知る。
ヨブも「うわさで聞いていたが、苦しみを通して、この目で見た」と言った。

主は試練の中で、誰も「知らなかったマナを」を下さる。
苦しみの中でしか味わえない御言葉を食する。その言葉は甘く、慰め、癒し、力とされる。
新しい1年も主を喜び、訓練は訓練として受け止めて前進して行こう。
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明けましておめでとうございます。
日ごとに、朝ごとに、み言葉を聞き、新しく神様を知って行く一年となればと思っています。
今年も宜しくお願いいたします。


今日の聖人の記念日

2016年01月02日 07時15分33秒 | キリスト教

聖バジリオ司教教会博士/聖グレゴリオ(ナジアンズ)司教教会博士

330年ごろ-379年/329年-390年

 2人とも、小アジア、カパドキアのカイサリア近郊に生まれた。バジリオは、カイサリア、コンスタンティノープルで教育を受け、他方、グレゴリオもカイサリア、アレキサンドリアで学んだ。その後、2人は当時学問の最高峰といわれたアテネ大学に学び、生涯の友となって互いに研鑽の道を歩んだ。

 バジリオは、卒業後帰郷し、将来を有望視される教授となったが、徳の高い姉マクリーナの影響のもとに修道生活を送る決心をした。グレゴリオも、初め弁論家となったが、修道生活を志した。そして彼らは、ともに隠遁生活に入った。

バジリオは、各地に修道士を訪ねた後、カイサリアの近くに修道院を建てた。隠遁生活では兄弟愛を行うことが少ないことを悟った彼は、共同体生活の形態に変え、会則を作った。バジリオの修道生活の形態は広がってゆき、「西方の修道生活の父」と呼ばれるベネディクトに対して、「東方の修道生活の父」と呼ばれた。当時はアリウス派の異端が広がっていたので、バジリオは正当信仰の擁護を主張して、闘った。また370年にはカイサリアの司教に任じられ、教区内に貧しい人々の施設、病院などを建てて貢献した。

 グレゴリオは、381年コンスタンティノープルの司教に任じられたが、すぐに辞職し、説教活動に力を注いだ。彼は雄弁家であり、文学者であった。特に三位一体論は優れたものであり、西方に影響を与えた。
 2人は、説教や神学の本を数多く著わし、教会博士と称された。
 また、バジリオの弟である聖グレゴリオ(ニッサ)も聖人であり、彼ら3人はカパドキア3大教父と呼ばれている。


◆大切なこわい人

2016年01月02日 07時14分12秒 | 聖書

愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。       (箴言一7後)
 
あなたには、こわい人がいますか。こわい人がいるなら幸いです。こわい人とはどういう人かといいますと、自分のことを全部知っている人ではないでしょうか。子どもの時は、親とか先生とかがこわい人でした。
ところが大人になると、こわい人を持つことを拒否してしまいます。その理由は、いないほうがいいと思うからでしょう。煙たい人などいないほうが勝手気ままにやれるので、それが独立した生活をすることだ、それが男らしい生き方だと思うのです。煙たい人やこわい人がいても無視しようとしたり、いないと思いこもうとしたりします。
しかし、大人になっても、こわい人はいたほうがいいのです。伯父さんでも親でも先輩でも構いません。自分のことをよーく知っている人・見つめていてくれる人・関心を持っていてくれる人は貴重な存在です。なぜなら、そういう人によって大きな失敗から免れうるからです。
配偶者がこわい人が多いのは面白いことです。顔がまずくても能力がなくても、あなたの配偶者はあなたを愛しており、あなたに関心をいだいています。この世にたった一人の夫、たった一人の妻として、あなたに注目しているのです。愛は見抜く力を持っています。その配偶者に恥じない生活ができれば、ある意味で、よい幸せな生活をしているといえないでしょうか。
さて、あなたを最も愛し、あなたにすべてを与えようとしている方がおられます。それは、あなたを知り抜き、あなたを見抜いている神です。神を恐れ神に恥じない生き方は、安全であり幸せなのです。
 
 

◆たゆみなく祈りなさい。

2016年01月02日 07時13分00秒 | 聖書
(コロサイ四・二)
 
興味深いことに、聖書の中には祈りについての模範と訓戒、また約束の記事が多い。聖書を開けばすぐに、「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあり、また聖書の末尾には「アーメン」という熱心な嘆願がある。祈りの実例はいくらでもある。神と格闘するヤコブ、日に三度祈るダニエル、心を込めて神を呼ぶダビデなどがいる。山上にはエリヤがおり、獄中にはパウロとシラスがいる。
祈りの戒めも約束も数えきれないほどある。これが祈りの重要性、必要性を示すものでなくて、何であろう。神がことばを尽くしてお語りになったことは、私たちの生涯にとって重要なことである。神が祈りについてこれほど多くのことばを費やしておられるのも、祈りが私たちにとってどれほど必要であるかを知っておられるからである。
私たちの欠乏はまさに深刻な状態にあるので、天国に入るまで祈りをやめてはいけない。あなたには何の不足もないというのか。もしそうだと言うなら、あなたは自分の貧しさを知らないのだ。あなたは神のあわれみを求めなくてもいいのか。もしあなたが求めようとしないなら、主のあわれみがあなたのみじめな状態を示してくださるように。
祈りのないたましいは、キリストのないたましいである。祈りは信仰の幼子の片言であり、戦っている信者の叫びであり、臨終の床にある聖徒がイエスの中に眠る時の歌である。祈りはクリスチャンの息であり、合言葉であり、慰めであり、力であり、誉れである。
もしあなたが神の子なら、あなたはあなたの父である神の御顔を求め、また父なる神の愛の中に生きることを望むであろう。この年も、あなたが全く謙遜であり、熱心であり、忍耐強くあるように祈れ。キリストとの深い交わりに入り、さらにしばしば愛のうたげに加われ。あなたが他の人の模範となり祝福となり、さらに主の栄光のために生きることができるように祈れ。この年の標語は、「たゆみなく祈りなさい」でなければならない。
 
 

第2歴代誌11章18-23節

2016年01月02日 07時11分43秒 | 聖書


11:23 彼は賢く事を行い、その子どもたちを全部、ユダとベニヤミンの全土、すなわちすべての防備の町々に分散させたうえ、彼らにたくさんの食糧を供給し、多くの妻を捜し与えた。



 レハブアムは、妻18人、そばめ60人、息子28人、娘60人を得たと語られています。

これらの男子を、自らが準備した防御の町々に、彼は配置したと告げています。

その時には彼らに嫁を持たせて、食料も備えたとも語っています。

こうして、防御にあたることが出来るようにして、敵に対して備えたのでした。

それは彼の賢さであったと、ここで告げています。

 ところが、こうした賢さを持ちながら、かつてはなぜ民の要求を拒んで、分裂を引き起こす事態を招いてしまったのでしょう。

そこには、神の意図があったからだと告げられていました。

その意図とは何か。

それは民を分断させることによって、ユダの民を、主の正規な民として守るためであり、このユダの国を建てていくためであったのです。

このユダの民から、救い主が誕生していくためでした。

主の御心は、ユダの民に向けられていたのです。



マラキ書3章18節

2016年01月02日 07時09分31秒 | 聖書


★あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

ヨハネの黙示録21章7,8節
★勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。


■O:今日のコラム
今日のマラキ書からイスラエルの民が主に仕えることの意味を見失っていることが伺えます。それは、主に仕えているのに、何も結果が見えないが為、また、主に仕えていない他の国々や人々の繁栄に目を留めてしまった為であることが分かります。

私たちも日々主に仕えるなかで、なかなか実りが見えなかったり、周りの人と比較したりして、気落ちをしていることがないでしょうか?

もしかすると、今は何も見えないかもしれませんし、意味を見いだすことができないかもしれません。しかし、そこで信仰が試されていくと私は信じます。

最後の最後まで諦めず主に仕える私たちには、黙示録に書かれている良きものがすべて約束されています。それを信じるかどうかという信仰です。また、今、この世で栄えて見えるすべてのものも、主のものでなければすべて滅びが確定しています。私たちはそれを悟った上で、主に仕え続けるか諦めるかという選択していくべきだと思います。

今の状況を見ることは大切です。しかし、それ以上に私たちに約束されているもの、また、励まし続けてくださるイエス様を見上げ続けて、実りがなくても、どんな状況でも主にすがり主に仕える決断をしていきましょう。

■A:考えてみよう
2015年もとうとう残り2日。2015年最後の最後まで、2015年だけと言わず、私たちの人生の最後まで、全力で主に喜んで仕えていくことを今日もう一度決断しましょう。周りの繁栄や結果に目を留めず、私たちの最終ゴールであるイエス様を見続けて走り抜きましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月1日(金)のつぶやき

2016年01月02日 01時46分03秒 | キリスト教

◆彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。 goo.gl/iAxAI4


「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。 goo.gl/iSDXbv


◆私たちはあなたによって楽しみ喜び……。 goo.gl/1wSVlq