人のいのちも、神によって新しくされなければ生き続けることはできない。体力の消耗を食べ物で補うように、私たちは神のみことばを食べ、みことばに基づく説教に耳を傾け、聖餐にあずかることによってたましいの消耗を補わなければならない。恵みの手段がなおざりにされれぼ、恵みも弱まる。神のみことばや密室の祈りをなおざりにしたため、ある聖徒たちは、なんとやせ衰えていることだろう。もし私たちの信仰が神を離れてもあり続けるとすれば、それは神によって作り出されたものではなく、幻にすぎない。なぜなら、もし神が信仰の創始者であるなら、草花が露を待ち望むように、私たちは神に頼るはずだから。絶えることのない精力がつぎ込まれなければ、私たちは地獄の攻撃に耐え、天国のための激しい苦難を忍ぶことはできない。それどころか、心の中の戦いにすら打ち勝つことはできないであろう。
新しい養分を吸収しておらず、その根を岩にからませていない木は、旋風が巻き起こる時、なんとみじめなものか。あらしが起こる時、マストも補強せず、錨を下ろすこともせず、港に避難もしない船乗りは、なんとみじめなものか。もし私たちが、自分の善が弱くなるままにしておくなら、必ず悪は大挙して私たちの主権を奪おうと必死になるであろう。そしておそらく、苦痛に満ちた悲しみと痛ましい恥とが続くであろう。謙遜になって、神の恵みの御座の近くに行き、嘆願しようではないか。その時、「主を待ち望む者は新しく力を得る」という約束の実現を親しく見ることができるであろう。