座間コミニティー

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◆私は祈るばかりです。

2016年01月15日 17時03分28秒 | 聖書
(詩篇一〇九・四)
 
ダビデの名声を損なおうとする偽りの舌は激しかったが、彼は弁解しなかった。彼は天上の法廷に上告して、親しく偉大な王の前に嘆願した。祈りは憎しみのことばに答える最も安全な方法である。詩篇作者は冷酷な心で祈らなかった。彼は自らを祈りにささげ尽くした。ヤコブが神の御使いと格闘した時のように、全身全霊を傾け、あらゆる筋肉を緊張させて祈った。この方法によってのみ、私たちは恵みの御座に行くことができる。
影には実体がないため力がない。そのように苦悶と熱情と激しい願望のない祈りは、全く無力である。なぜなら、祈りに力を与えるものが欠けているからである。ある老神学者は「熱烈な祈りは、天国の門に据えられた大砲のように、門のとびらを撃ち開く」と言った。
私たちの大部分に共通する欠点は、集中した祈りができないことである。私たちの思いはさまよい、目的に向かってほとんど前進しない。水銀のように、私たちの心は一つにならず、分裂してあちこちに転がる。なんという害悪であろう。それは私たちを害するだけではない。さらに悪いことに神を侮辱するものである。ここに一人の嘆願者がいて、直訴を願って君主の前に出た時に、鳥の羽根をもてあそんだり、はえを捕えたりしていたとすれば、私たちはなんと思うであろう。
冒頭の聖句は、継続と忍耐の意味を含んでいる。ダビデは一度叫んで、後は沈黙してしまったのではない。彼の聖なる叫びは、祝福がもたらされるまで続けられた。祈りは時々思い出したようにするものであってはならない。それは、私たちの日々の仕事となり、習慣とならなければならない。美術家がモデルに、詩人が古典の研究に没頭するように、私たちも祈りに打ち込まなければならない。私たちは祈りの中に自らを沈め、かつ、絶えず祈らなければならない。
主よ。さらに有効な嘆願をなすことができるために、私たちに祈ることを教えてください。
 
 

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、

2016年01月15日 17時01分50秒 | 聖書

耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる…従わないことは偶像礼拝の罪だ」(Ⅰサムエル15:23)

サウル王はサムエルにアマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよとの主の命を受けた時、命令に従い戦闘に行ったが、アガグ王と肥えた良い家畜を惜しんで、つまらない値打ちの無いものだけを聖絶した。
サウル自身の欲だった。
どうでもいい物は神に献げ、値打ちのある良い物は自分のために取っておいた。
戦勝記念碑を立て、自分の名誉と満足に酔っていた。
サウルの本性を露呈した。
サムエルに指摘されると、悔い改めどころか、「私は主のことばを守りました」しかし、「民は」と、民のせいにし、民に責任転嫁する。
民が家畜の良いものを惜しんだからと。
そして、それは主にいけにえを献げるためと、更に正当化する。
主に聞き従うのではなく、自分の判断、自分の良いと思うこと、自分の欲望に従って行く。
私たちの日常はどうだろう。
神の御心がわかっているが、自分の欲の方へ行きたい。
御言葉はそう言うが、この方法の方がいいのではないか、どう見てもこっちの方が得策にしか見えない。
又、自分の都合の良い時、気の向いた時だけ従うが、自分の損になる時、犠牲が大き過ぎる時は従わない。
サウルは従順が試みられ、失敗した。
私たちはどうだろう。
主は御声に従うことを求めておられる。
今、従順を目の前に求められているか。
自分の損得、好み、都合という、サタンの声を閉め出し、従おう。
大きな祝福にあずかる。
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み言葉に従い通すなら、世の価値観や自分の欲から守られる。
私達の本性はサウルと同じだ。
み言葉よりも自分の都合を選んで行きたい者だと、いつも覚えて謙遜に従おう。


今日の聖人の記念日

2016年01月15日 08時29分50秒 | キリスト教

聖パウロ(テーベ)

?-342年ごろ

 パウロは、エジプトのテーベで生まれた。彼の生涯については、聖ヒエロニモが『パウロ伝』に記している。彼はエジプトの文化を大切にし、ギリシャ語にも精通していた。ローマ皇帝デキウスのキリスト教迫害時代に砂漠に逃れ、洞穴で祈りの生活を送り、その評判は人々に広まった。

  聖アントニオ(修道生活の父と呼ばれる1月17日 参照)も、パウロが113歳のときに訪れ、ともに祈った。そのすぐ後に、パウロは息をひきとったとする伝承もある。

 彼は、キリスト教の最初の隠修士として知られている。


◆知 恵 の 心

2016年01月15日 08時28分26秒 | 聖書

知恵があなたの心にはいり、……      (箴言二10前)
 
ある日曜日のこと、郊外の教会に行きました。そこは、喜びと歌にあふれた生き生きとした教会でした。礼拝の後、若いはちきれるような娘さんが、これはまた、筋皮骨子といったようにやせ細り青ざめたお母さんを連れて、私のところに来て話されました。
「先生。私の父は、学校の先生で詩人なのです。でもこの一、二年父は、生きる意欲も働く意欲も失って、死にたい死にたいという詩ばかり書きます。ほんとに学校をやめて、死んでしまうかもしれません。母は心配して、見る見る間にこんなにやせてしまいました。先生。神さまが、父の心の中に、いのちを注ぎこんでくださるように祈ってください。この母にも神さまが、力を注ぎこんでくださるように祈ってください。」(私と母娘の三人は、ひざまずいて祈りました。)
そうです。貧乏も病気もつらいものです。しかし人は、その心が衰えた時、どうしようもなくなります。
ある日、アメリカに住んでいる日本人の友人から手紙が来ました。その若い女性は、自分が自分でどうにもならないほど、苦しく寂しく力がなかったのです。そこに、これも私の友人のゴスペル・シンガーの上原令子さんが訪ねてきてくれたのでした。「ね。あなたの心の戸には、外側にハンドルがついていないのよ。あなただけしかあなたの心の戸は開けられない。思いきって心の戸を開けて、あなたを愛しあなたのために十字架で死んでよみがえってくださったイエスさまを心の中に迎え入れてごらんなさい。」そしてこの女性は、このように手紙に書いていました。「私は思いきって、残っていた全部の意志の力をふりしぼって心を開き、そのむなしい心に神さまを迎えました。そして先生、私は変わったのです。」
「その時……知恵があなたの心にはいり」、そうです。知恵とは神ご自身なのです。
 
 

◆あなたの約束どおりに行なってください。

2016年01月15日 08時27分27秒 | 聖書
(Ⅱサムエル七・二五)
 
神の約束は、紙くずのように投げ捨てられるべきものではなく、用いられるべきものである。神の黄金はけちな人が財産とするためのものではなく、さかんに流通するために造られたものである。神の約束が通用していることほど、神を喜ばせるものはない。神は、その子どもたちが約束を携え御前に来て、「あなたの約束どおりに行なってください」と言うのを喜ばれる。約束に基づいて神に嘆願する時、私たちは神の栄光をたたえることになる。神が約束された宝をあなたに与えることにより、貧乏になられると思うか。神が聖潔をもたらすことによって、以前よりも聖潔でなくなると想像するか。神は、「『さあ、来たれ。論じ合おう。』……『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」と言われる。
信仰は赦しの約束に頼り、「尊い約束だが、本当かどうか疑わしい」と言ってためらうことはなく、約束を携えて神のみもとに行き、「主よ。ここに約束があります。約束どおりに行なってください」と嘆願する。すると主は「その願いどおりになるように」と言われる。神の約束を握った時、それを神の御前に提示しなければ、神を辱しめることになる。しかし、恵みの御座に駆けより、「主よ。私にはなんの功績もありません。『あなたが言われた』という以外に言うことはありません」と叫ぶなら、その願いは許される。
天の銀行家は、ご自分の振り出された小切手の現金化を喜ばれる。神の約束にかびを生じさせてはならない。約束のみことばをさやから抜き、縦横に振り回せ。神の約束をもってうるさく迫れば、神が迷惑されるなどと思うな。神はたましいが大声で泣き叫ぶのを好まれ、恵みを施すのを喜ばれる。あなたの求めるよりも、はるかに熱心に、神は聞こうとされる。太陽は照らすのに飽きることはなく、泉は流れることを煩わしいとは思わない。約束を守られるのは、神のご性格である。それゆえ、すぐ御座に駆けより、「あなたの約束どおりに行なってください」と言え。
 
 

第2歴代誌15章8-15節

2016年01月15日 08時24分26秒 | 聖書


15:8 アサは、これらのことばと預言者オデデによって預言されたことを聞いたとき、奮い立って、ユダとベニヤミンの全地から、また彼がエフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき物を除いた。そして、主の玄関の前にあった主の祭壇を新しくした。



 王のアサは、主の預言者アザルヤの言葉とその父オデデの言葉を聞いた時、その言葉に従うことにしました。

その結果、彼はユダとベニヤミンの地、また奪い取ったエフライムの山地から、偶像をすべて取り除きました。

それは、主にとって忌むべきものであったからです。

 民は主を知る者でしたが、民の内にはなお、偶像を礼拝する者が絶えなかったようでした。

そこでその偶像を取り除き、彼らが偶像礼拝することを禁じたのでした。

また、神殿の前にあった主の祭壇も新しくしました。

 さらに民と契約を結び、主を呼び求めることをしない者は、殺されなければならないという契約を結びました。

こうして、神の前に喜ばれる民になろうとしたのです。

 それは、彼の信仰から生み出された姿勢でした。



創世記28章16節、17節、19節a

2016年01月15日 08時21分11秒 | 聖書


★ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

そして、その場所の名をベテルと呼んだ。


■O:今日のコラム
ヤコブは母リベカの指示と協力のもと、父イサクを騙し、エサウが受けるはずだった長子の祝福を、父から受けました。

ヤコブは母の言うままに、父から長子の祝福を受け、そして、叔父にあたるラバンの元へと、旅立ちました。

その旅の道中、ベテルとなったその所で、ヤコブは御つかいたちが、はしごを上り下りしている夢を見たのでした。

母のリベカは、ヤコブとエサウを身ごもった時に、主から「兄が弟に仕える。」(25:23b)と語られていたので、そのことを心に留めながら、子育てをしたでしょう。
ヤコブは母から幾らかは、いずれ自分が兄に代わって長子の祝福を受けることになる、と聞かされていたかも知れません。

また、ヤコブは名前が「出し抜く」など、ズルい意味合いを持つ名前なので、ついついイメージとして、『ヤコブは、人から奪おうとする荒い気質を持ち、その汚い根性で兄を出し抜いたんじゃないか』と思ってしまいます。

しかしながら、実際は彼は「穏やか」であったと、記されています。(創世記25:27)

ですので、恐らく、ヤコブはこの時、ベテルにおいて、主の語りかけを聞くまで、自分の上に立てておられる主の御計画を、それほど強くは意識していなかったのではないかと思います。

単に、母親に急かされて、父イサクから長子の祝福を受ける算段をし、父に言われるがままにハランの地へと出掛けて行ったように見えます。

しかし、ついに彼はこの場所で、神から直接はっきりと主の御心を語られ、初めて、自分に与えられた長子の祝福の壮大さに気付きました。
ここに来て初めて、自分が受けた長子の祝福に込められている主の偉大なる御計画を明確に知ることとなったのです。

私たちにも、この長子の祝福、神の子としての祝福が用意されています。

「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)

けれども、私たちは、ヤコブがそうであったように、自分が選ばれたものであり、主の完璧な御計画のゆえに、今いる場所に遣わされ、置かれているということを意識せずに過ごしてしまいます。

強烈な語りかけがない限り、もしかしたら、そのように長子の祝福に思いをはせるのは、難しいかも知れません。

けれども、私たちが現在の家族、人間関係、学校、職場に置かれているということはすべて神の御計画の中にあります。1つとして、偶然はありません。

私たちは、1人ひとりそれぞれに違った領域を、治めるべき領土として与えられています。

私たちには、私たちにしか届くことの出来ない人々がいます。


私たちが、置かれている、まさにその場所で主を第一とし、主を愛し、礼拝者となる時、

また、私たちがその場所で、御ことばの上に立ち、神の子として御ことばを宣言し、神の国とその義を第一にしてゆくのならば、まさにそこがベテル、天の窓が開き、神の臨在される場所となってゆくことと信じます。

目には見えていませんが、あなたの上の天は、あなたがいるがゆえに、開かれていきます。あなたの祈りによって、そこの場所に御使いが遣わされて来ます。

私たちの置かれている家庭、人間関係、学校、職場…その上の天がますます開かれ、神の御顔の光が照らされてゆくことを宣言します。

そして、そこに天の御国が到来し、私たち1人ひとりが神の子として、王の子として、その場所を治める者となることを宣言します。


■A:考えてみよう
今、自分が置かれている場所に御国が来ているだろうか?

御国が現れているだろうか?

その場所において祈りの祭壇を築き、御ことばを宣言し、その場所で主を礼拝し、天の窓を開いて主の臨在をその場所に歓迎しましょう!

自分が置かれているその場所を、任されたその領域を、主が臨まれるベテルとしてゆきましょう!


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月14日(木)のつぶやき

2016年01月15日 01時45分33秒 | キリスト教