影には実体がないため力がない。そのように苦悶と熱情と激しい願望のない祈りは、全く無力である。なぜなら、祈りに力を与えるものが欠けているからである。ある老神学者は「熱烈な祈りは、天国の門に据えられた大砲のように、門のとびらを撃ち開く」と言った。
私たちの大部分に共通する欠点は、集中した祈りができないことである。私たちの思いはさまよい、目的に向かってほとんど前進しない。水銀のように、私たちの心は一つにならず、分裂してあちこちに転がる。なんという害悪であろう。それは私たちを害するだけではない。さらに悪いことに神を侮辱するものである。ここに一人の嘆願者がいて、直訴を願って君主の前に出た時に、鳥の羽根をもてあそんだり、はえを捕えたりしていたとすれば、私たちはなんと思うであろう。
冒頭の聖句は、継続と忍耐の意味を含んでいる。ダビデは一度叫んで、後は沈黙してしまったのではない。彼の聖なる叫びは、祝福がもたらされるまで続けられた。祈りは時々思い出したようにするものであってはならない。それは、私たちの日々の仕事となり、習慣とならなければならない。美術家がモデルに、詩人が古典の研究に没頭するように、私たちも祈りに打ち込まなければならない。私たちは祈りの中に自らを沈め、かつ、絶えず祈らなければならない。
主よ。さらに有効な嘆願をなすことができるために、私たちに祈ることを教えてください。