座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆鳩は夕方になって、

2016年01月29日 17時46分29秒 | 聖書
彼のもとに帰って来た。(創世八・一一)
 
私は今、一日の働きで疲れているが、この一日あわれみを与えてくださった主を賛美したい。人を守られるお方に、私は感謝の歌をささげる。
鳩は、箱舟の外には安息を見いだせなかった。それで箱舟に帰って来た。私のたましいも、今日、これまでよりもさらに明確に、地上のものには満足がなく、神のみが私の霊に安息を下さることを学んだ。私の職業、私の所有物、私の家族、私の学識、それらはみなまずまずではあるが、私の霊の願いを満たすことはできない。「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」
一日の幕が降りようとする静かなたそがれに、鳩は疲れた翼で主人のもとに帰って来た。おお、主よ。私も今夜、そのようにイエスのもとに帰らせてください。鳩は、不安な荒野の上を飛びあかして一夜を過ごすことができなかった。そのように私も、たとい一時間であっても、私の心の安息の地であり、私の霊の故郷であるイエスから離れていることに耐えられない。
鳩は、単に箱舟の屋根にとまったのではなく、「彼のもとに帰って来た」のである。そのように、神を慕う私の霊も、主の奥義をうかがい、真理の内側を見通し、幕の中に入って実際に愛する主にお目にかかることを望む。私はイエスのみもとに来なければならない。私のあえぎ求める心は、主との最も近い、最も親しい交わりに入るのでなければ満足しない。
聖なる主イエス様。私と共にあり、あなたご自身を私に啓示し、夜の間共にいてください。私が目覚める時にも、なおあなたと共にあるために。
鳩はくちばしにオリーブの枝をくわえていた。これは過ぎ去った日の記念であり、来るべき日の預言である。私には、家庭にもち帰る喜びの記録がないであろうか。来るべきいつくしみの保証はないのであろうか。
主よ。朝ごとに、また夕ごとに新しい、あなたの優しい恵みに心からの感謝をおささげします。そして、今祈りをささげます。どうか御手をのべて、あなたの鳩を御胸に抱き取ってください。
 
 

「また、祈るとき、異邦人のように同じことを、ただくり返してはいけません。

2016年01月29日 17時45分34秒 | 聖書


彼らはことば数が多ければ聞かれると思っています」(マタイ6:7)

主は「父なる神は、お願いする先に、必要なものを知っておられる」と言われた。
では、何のために祈るのか。祈る必要が無いのでは。
これは異邦人のように、同じ言葉を繰り返し言葉数の多さで、との態度の間違いの指摘だ。
祈り倒さんとの勢いで、ただ言葉の多さ勝ちなのではない。
言葉数の多い順に聞かれるのではない。
だから言葉の繰り返しは無益で無駄だ。
この世の宗教と違い、御父はすでに必要も状況をご存じであり、知らない相手のごとく、くどくど説明する必要もない。
しかし、神は次の節で「だから祈りなさい」と言われた。
だから祈る必要ないのでなく「祈りなさい」と。
祈りは御父との交わりだ。
愛する子供に「一生涯すべての必要を完璧に保障するから、いっさい語るな、何も言うな」と言う親はいない。
親は子供の語る言葉を聞き、対話したい。
それは親にとって大きな喜びで楽しみであるからだ。
御父はあなたの声を聞きたいと待っておられる。
又、神は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。
真に必要な物をわかっていない。
的はずれに求め、まともだと思っている。
自分の誉れ、欲のために求めて気づかない。
神はそれらを軌道修正し、正しく導き、あなた自身を変えて下さる。
それは祈りの実践の中でのみ可能なのだ。
----------------
私達の欲しいものと、私達に真に必要なものとは違う。
祈りの中で、気付きを与えて下さり御心になかったものならばとの思いに整えられる。
神様と深い交わりの時を持とう。


今日の聖人の記念日

2016年01月29日 09時32分42秒 | キリスト教

聖ギルダス

500年ごろ-570年ごろ

 ギルダスは、イギリス諸島の、イングランド地方に生まれ、ウェールズで隠修士となった。その後アイルランドに行き、そこで学び、ローマにも巡礼をした。彼は、当時の聖職者と信徒たちの行いに疑問を抱き、彼らの信仰生活を正し導くために、ローマ人が渡来してから彼の時代までのイングランドのキリスト教史を著わした。当時の生活と教会の状況を知るための貴重な資料となっている。

 彼は、ブリタニーに修道院を建て、そこで生涯を終えた。


◆金銀にまさる知恵

2016年01月29日 09時30分04秒 | キリスト教

幸いなことよ。知恵を見いだす人、
英知をいただく人は。
それの儲けは銀の儲けにまさり、
その収穫は黄金にまさるからだ。(箴言三13―14)
 
現在、物価がジリジリ上がっているようです。そこで、もうお金の値打ちに信用がおけず、金や銀や宝石類に換えて取っておこうとしている人が多いと聞きます。しかし、ちょっと考えただけでも宝石類には問題があります。
・ にせものとほんものの区別がつかず、うっかりにせものをつかまされる。
・ いつ盗まれるか分からない。
・ いざという時、金銀宝石は煮ても焼いても食べられない。
・ 金銀宝石を子孫に残すと、争いが起こったりなまけ者ができたりして、よいことがあまりない。
ところが、宝にもまさってすばらしいのは、神を知る知恵・英知です。
・ これは目べりもしないし、盗まれもしない。
・ 神を知る知恵は、どんな苦しい時でも悲しい時でも、心の中からわきあがる力を与えてくれる。
・ 子孫に伝えれば、どんな遺産を残すより確実に子孫を幸いにする。
・ 神の知恵は、その人にいつも上を向いて希望に満ちて生活させるだけではなくて、他の人にまで恵みと力を与える。
神を知ることによって得るもうけは、神がすべてを支配していて、神に従う者に最善を与えてくださるという確信です。それは、神があなたを愛していてくださり、慰め・力・希望をいつも満たしてくださるという確信です。また神の知恵は、いつもほんものとにせもの、一時的なものと永遠のものを見分けさせてくださるのです。
心を尽くしてこの知恵を自分のものとすべきです。
 
 

◆私たちは、見えるものにではなく、

2016年01月29日 09時29分06秒 | 聖書
見えないものにこそ目を留めます。(Ⅱコリント四・一八)
 
クリスチャンの歩みにおいて、前を見つめていることはよいことである。冠は未来にあり、ゴールは前方にある。それが希望であろうと、喜びであろうと、慰めであろうと、私たちの愛を奮い立たせることであろうと、信仰の目をもって見る主な対象は、未来でなければならない。前途を望んでこそ、私たちは罪をきよめられ、罪と死のからだが滅ぼされ、たましいが完全な者とされ、光の中にある聖徒たちの資産を受け継ぐにふさわしいものとされるのを見ることができる。
さらに前方を眺めるなら、信者の輝いた目は死の川を横切り、悲しみの川を渡って、天の都の建てられている光の丘に到達する。彼は真珠の門をくぐり、圧倒的な勝利者として歓呼を受け、キリストの手から冠を授けられ、その腕に抱かれ、イエスとともに栄光を受け、共に王座に座る。それはちょうどイエスが勝利を得て、父なる神とともに御位に着かれた時のようだ。
このすばらしい未来を考えると、過去の暗黒も現在の憂いも消えてしまう。天上の喜びは地上の悲しみを償って余りあるものである。恐れの思いよ、静まれ。この世はつかの間であり、まもなくそれを通過することになる。疑いよ、退け。死は狭い流れにすぎず、すぐにそれを横切ることになる。時はいかに短く、永遠はいかに長いことであろう。死は瞬間であり、永遠のいのちには限りがない。私は思う。私はすでにエシュコルの谷のぶどうを食べ、天国の門の内にある泉をくんで飲んでいるのである。目標は近づいた。まもなく私はそこにたどり着くであろう。
 この世にあって私の心が
 憂いの嵐に悩む時
 思いははるか天を駆けて
 嘆きも消える避け所を見つける
 この世での巡礼が終わるまで
 輝く幻が私を支える
 憂いに悩み、困難が私を責めるとも
 ついに私は天の家に帰るだろう
 
 

第2歴代誌20章14-17節

2016年01月29日 09時27分19秒 | 聖書


20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。』」



 ヨシャパテ王の祈りに答えて、レビ人ヤハジエルに主の言葉が臨んで、王の元に遣わされました。

彼が王に伝えたことは、このおびただしい軍勢を恐れるな、又その大軍のために気落ちするなということでした。

なぜならこの戦いは、あなた方の戦いではなく、主の戦いであるからだというのです。

つまり、主ご自身が、ご自分の名のために戦ってくださる戦いであるというのです。

どういうことでしょう。

それは、ここで主以外に頼る方がいない時に、そのお方に頼った者達に対して、主がご自分からその戦いに出てくださると告げておられるのです。

それは主により頼む者への、主からのお答えだと言われるのです。

主は、主により頼んでくる者を見捨て給わない、その悲しみの中に放置されることはないと言われるのです。


マタイの福音書3章2節(ヨブ記3章)

2016年01月29日 09時24分55秒 | 聖書


★「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

■O:今日のコラム
バプテスマのヨハネのことばです。次の章の4章では、宣教を始めたイエス様が1番初めに同じ言葉を語られました。


「2人、3人の証言」と言うのは確かさを表します。
立て続けに語られたこの言葉を、私たちは重く受け止める必要があるのではないか、と感じます。


7節において、バプテスマを受けに来たパリサイ人、サドカイ人たちに向かい、バプテスマのヨハネは言いました。

「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。」(マタイ3:7b~9a)


強烈な言葉です。

ヨハネは、パリサイ人たちが「自分たちはアブラハムの子孫だから、それがゆえに、自分たちは義人だ。大丈夫だ。」とあぐらをかいていました。

心からの悔い改めによらず、彼らはただ儀式としてのバプテスマを受けようとしていたことへ、ヨハネは憤りを覚え、上記のような厳しい言葉を発したのでした。


「これこれのゆえに自分は大丈夫だ。」と言う心。私たちクリスチャンも、抱く可能性のある心です。
「私たちは教会に行っているから大丈夫だ」…と。


8節では、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言っています。放っておいても自然に実るものであるならば「結びなさい」とは、言わなかったでしょう。


私たちは行いにおいて、人を殺すことがなかったとしても、行いにおいて姦淫を犯すことが無かったとしても、私たちの心の中においてどうでしょうか。
主はいつも心を見ておられます。私たちが「心を尽くして」主を愛しているかどうかが、主の1番の関心ごとであります。
なぜなら主が、それほどに私たちを愛しているからです。
愛する者の何が欲しいか。それは真実な心です。

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。」(詩篇51:6)


マタイ15章では、イエス様が 「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」と言っておられます。


私は、新しい白い服を着ると、なんとなくトマトソースなどの食べ物を避けてしまいます。汚れも目立ちますし、その白さを保ちたいと願うからです。


同じように、私たちが日々、悔い改めて、きよめられて行くことを通して、今度はますます罪から自分を遠ざける者へと変えられるでしょう。きよさを保ちたいという願いが増し加えられます。

悔い改めは、あまり人気の無いテーマです。けれども、この悔い改めは誰のためでも無い、自分のためなのです。


私たちは何故、悔い改めるのでしょうか。


罪や咎は、私たちと愛する方の間に割って入ります。主との親しい交わりから、私たちを遠ざけます。

「 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ書59:1,2)

聖霊様が悲しまれます。


ひとえに、この方を悲しませたくない。愛する方との間に何も隔たりがあって欲しくない。
主に愛されていることを知れば知るほど、主との関係を阻む、罪と咎を忌み嫌うでしょう。それが、悔い改めの理由です。


悔い改めて、罪が一掃されるならば、私たちが主から祝福を受けることを阻むものは、なくなります。
祝福の源、喜びと平安の源であられる主ご自身と自分との間の隔たりが、なくなるのです!
罪、悔い改めて、主との隔たりがなくなった状態、主と一つになれることこそ、もっとも幸いな状態ではないでしょうか!


「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一 1:8,9)



■A:考えてみよう
今日も主の恵みから、私たちを遠ざけようとする、罪を、主の御前に悔い改め、きよい心を求めていこう。


「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月28日(木)のつぶやき

2016年01月29日 01時49分06秒 | キリスト教